恋する男子に水泳を教えて(3)


「やっぱり、プールに入ったあとの目薬は最高だねっ!」


 野々坂は、思いっきり目をつぶってくーっと歯を食いしばると、まるでこの夏に新しく発売された炭酸飲料の宣伝みたいなことを言った。


 彼女は、とにかく刺激が強いものが好きだ。

 とくに汗をかきやすい夏場になると、いつも持ち歩いているメンソレータムのリップクリームだけでは飽き足らず、脇の下に手を突っ込んでしょっちゅう冷たいスプレーをシューっとしている。


「ほらね、だから言ったでしょう? どうせ私が誘っても断られるけど、千嵐さんが誘ったら絶対についてくるって」


 俺たちの高校には、掃除の時間がある。

 平時であれば、授業とホームルームの合間に手早く済ませる程度だが、学期末や年度末が近くなると、臨時に全校生徒を駆り出して大掃除を行う。


「青木さんは恥ずかしがり屋さんですからね。本当は自分だって、みんなと一緒にプールへ行きたいくせに」


 千嵐は、バケツに汲んだ水で雑巾を洗ってぎゅっとしぼる。

 そうして、左右で往復するように床を拭きながら、後ろ向きに一段ずつ階段を下りてくる。


 この時――俺は、校舎一階の北側にある昇降口を掃除していた。

 いつも俺たちが上靴と土足を履き替えている出入り口だ。下駄箱の前に敷かれた簀の子を持ち上げて、煙ったい土埃を箒で掃き出す。


「でも、どうして野々坂さんじゃなくて私なんでしょう?」

「理由を教えてほしい?」


「是非、聞かせてください」

「ふふっ、それはね……」


 野々坂は、廊下で両足を揃えて小さくジャンプすると、丸めた紙くずをちり取りで打ち下ろす。

 テニスボールに見立てた紙くずが俺の背中に当たるや否や、姿勢を低くしてすぐさまリターンの構えを見せる。


「幼稚園のころから小学校を卒業するまで、クラスの中であいつが一番チビだったからよ!」


 俺は、各学年と各学級ごとに割り当てられた掃除当番の担当を守るべく、紙くずを拾ってノックのごとく打ち返した。

 みんなで真面目に掃除をするべき時間にもかかわらず、よその班の持ち場にごみを捨てるとは。この勝負、意地でも負けるわけにはいかない。


「当時の私よりも背が低かったんですか? あの青木さんが?」


 だらしなくジャージを着崩した体育の先生が、履きつぶしたスリッパを引きずって廊下を通りすぎる。


 サッカー部の顧問と一年生の生活指導を担当している男性教諭だ。

 校則を破った男子生徒に対しては体罰も辞さないくせに、気が強そうな女子生徒に対しては注意しようともしない。


「でも、それがどうしてプールと関係があるんでしょう?」


 千嵐は、苦手な教師から見つかりそうになった途端、手すりを伝って逃げるように階段を駆け上がる。

 慌てて紙くずを拾いに行こうとする野々坂を掴まえて、さらに声を小さくしつつ耳をそばだてる。


「千嵐さんは離れたところに住んでるから知らないかもしれないけど、この町の市民プールには、ある程度身長がないと入れない危険なゾーンがあるの」


「そういえば昔、私も一度だけお父さんに連れていってもらったことがあります。一人につき一回だけ滑れるウォータースライダーがあるところですよね?」


「そうそう、子供用の浅いプールと、大人用の深いプールがあってね。プールの底に足がつかない子は、保護者と同伴じゃないと入れないルールでね」


「背伸びをしても届かなければ失格でしたっけ? 中学生以上のお兄さんかお姉さんと一緒なら、保護者として認められますよね?」


「あいつはね、温泉みたいに足だけぬるま湯に浸かりたいんだとか言って、日が暮れるまでずっと子供用の浅いプールで遊んでたのよ。ちっとも泳げないくせに、浮き輪なんかいらないって意地を張ってね」


「そのせいで、高校生になってもあんなに息継ぎが下手なんですね。今日もてっきり溺れているのかと思って、プールサイドからビート板を投げ入れるところでした」


 野々坂は、後ろに体重をかけて階段の手すりに腰かけ、プール上がりのきしんだ髪ばかり気にしていた。

 箒を持って物陰に突っ立った俺が、こっそり会話を盗み聞きしていることを知って知らずか、わざと大きな声で悪口を言いふらす。


「あいつが絶対に行きたがらない場所は、ほかにもあるわ。たとえば、身長制限がある遊園地のジェットコースターとか、実写版のラブストーリーを上映している映画館とか」


「子供向けのアニメ映画だったら楽しめるんですか? お母さんと一緒に鑑賞できるから?」


「目の前の席に大人のお客さんが座ったら、スクリーンが見えなくなるでしょう? 一生懸命飛んだり跳ねたりしてたら、子供が騒いでると思われて係の人から追い出されちゃって」


「いわゆる、幼少期のトラウマってやつですね。ひょっとして野々坂さん、知らず知らずのうちに何かひどいことを言ってしまったのでは?」


「私は何度もごめんねって謝ったもん。いつまでも昔のことを引きずってるあいつが悪いのよ。本当にちっちゃい男なんだから」


「遊園地と、映画館と、それからプール……? いくつになってもそんな駄々をこねてたら、好きな人とデートにも行けないじゃないですか!」


 あらまあ、かわいそうに。


 見上げるほどの高さにある階段の踊り場で、ひそひそと内緒話を交わす二人。

 顔をそむけつつ後ろ指を差して、憐れみを含んだ眼差しをこちらに向ける。


 この学校に通っている女子生徒たちのほとんどは、あとから階段を上ってくる男子生徒たちの視線を気にして、いつもスカートの下に紺色のブルマをはいている。

 たとえ冗談半分に悪質ないたずらの標的にされたとしても、パンツさえ見られなければ平気だと思っているのだ。


 俺自身もしばしば、先を越されて後ろから声をかけることができず、下を向いたまま階段を上ってしまう時がある。

 なるべく相手に気づかれないように、こっそりと足音を忍ばせながら。


 そんな時、彼女たちの反応はまちまちだ。

 その日の気分によって笑って許してくれる時もあれば、うっすらと目に涙を浮かべて本気で怒ってくる時もある。


「言っておくが、俺は反対だからな」

「……反対って?」


「海水浴とかプールじゃなくて、どこか別の場所へ行こう」

「ふーん、みんなで遊びに行くことには賛成なんだ? どうやら、議論の余地はありそうね」


 野々坂は、チャラチャラしたネックレスをはずませながら階段を下りてきて、いきなり後ろから俺の背中に覆いかぶさる。

 かと思いきや、無事に着地するなりすぐさま両手で突き放し、冷たくて気持ちいいコンクリートの柱にぴったりと抱きつく。


「私たちの提案に反対するなら、その理由を述べなさいよ。今のところ、2対1であんたが不利なのよ?」

「そうやって多数決に持ち込んで、少数意見を無視するのはフェアじゃない」


「だったら越智君も一緒に遊ぼうって誘おうよ。そしたら2対2でイーブンでしょ?」

「俺は対等じゃなくて平等の話をしてるんだ。そもそも男女で性別を区別するのは差別じゃないのか?」


 ――ほら、また始まった。

 あたかも、天秤で重さをはかるようにやれやれと肩をすくめて、ため息まじりに天井をあおぐ野々坂。


 俺は、ふん、と鼻息を荒らげてそっぽを向いた。

 いつものようにズボンのポケットに手を突っ込んで、気づかれぬように金玉の裏側をかきむしる。


 ああ、気持ちいいぜ。

 あんまりやりすぎるとますますかゆくなるが、これがなかなかやめられない。


「それなら私も、青木さんの意見に賛成です」

「えっ、なんで千嵐さんまで? 多数決で私たちの勝ちじゃなかったの?」


 千嵐は、風通しのよい日陰で涼んでいる俺たちの真似をして、お気に入りの場所に背中をもたれる。

 三人とも夏服の半袖なので、横一列に並んで距離を詰めると、意識せずともかすかに肌が触れ合う。


「だって、考えただけでも気持ち悪いじゃないですか。家族や恋人同士ならともかく、水着のまま、知らない男の人たちと同じプールに入るなんて」

「千嵐さんって、プールのことをそんなふうに思ってたんだ。ごめんね、今まで気づいてあげられなくて」


「でも、小学生以下の男の子までならギリギリセーフですよ? もう中学生になったら、保護者同伴でも完全にアウトです」

「ううん、むしろ正直に打ち明けてくれてありがとう。心と身体の問題は、人それぞれだもんね」

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