第三話

恋する男子にアイドルを教えて(1)


「あんた、そろそろ髪の毛を切ったら?」


 きっかけは、彼女のそんな何気ない一言だった。

 年中行事の都合で秋から春へと繰り上げられた体育祭を控えて、グラウンドで練習している最中の出来事だ。


 本番さながら和太鼓の音頭に合わせて、学年全体で入場行進のリハーサル。赤組と白組に分かれて、400メートルの陸上トラックを右往左往する。

 中学時代――スパイクを履いてマウンドに立っていた時と同じように、後ろ足で砂を蹴って地面に目印をつけていると、その様子を見ていた野々坂百花が、まるで犬みたいだとからかってきた。


「わんこが地面に穴を掘るのって、なんでだと思う?」

「自分のポジションを間違えないようにするためだ」


「オオカミと同じように巣穴で暮らしていたころの習性なんだって。あんたの場合は、縄張りを守るためのマーキングだけどね」


 さらに野々坂は、寝癖で跳ねた俺の頭をなでて、毛並みが悪いと言う。

 昨日もお風呂に入ってからすぐ寝たの? ちゃんと乾かさなきゃ風邪引くよ。


 俺は、回れ右の合図で後ろを向き、ほどけたハチマキを結び直してもらう。

 もしも俺が人間じゃなくて犬だったら、ちぎれんばかりに尻尾を振っているに違いない。


 そろそろ、衣替えの季節だ。

 この学校には、生徒の身だしなみに関する様々な規則がある。頭髪に関するルールもそのひとつだ。


 男子の場合、前髪は眉にかかるかかからない程度まで。もみあげは耳が隠れないように。

 他校の生徒とトラブルになる恐れがあるため、剃り込みや刈り上げは禁止である。


 女子の場合、肩よりも長ければヘアゴムで束ねなければならない。もちろんカラーやパーマはご法度だ。

 冬服から夏服に替わると、痴漢対策のためにスカートの長さや下着の色まで指導されるらしい。


 しかし俺には、たとえ校則に違反してでも髪の毛を切りたくない理由がある。

 高校に進学して以来、一度たりとも床屋に行かなかったのはそのためだ。


「お前さ、シトラスブラザーズって知ってる?」


 ある日の放課後。学校の図書室にて。

 俺は、週四日勤務のアルバイトと掛け持ちする形で、郷土研究部へ入部することにした。


 ただしこの日は、一学期の中間試験を控えて一週間のテスト期間だ。

 部活もバイトも休みなのに、他にやることがなくてついつい図書室へ足を運んでしまう。


「柑橘兄弟ですか?」


 千嵐小夜は、ノートに鉛筆を走らせながら教科書のページをめくる。

 赤ペンで強調した部分を書き写し、間違い探しの答え合わせだ。


 先週めでたく誕生日を迎えた彼女には、やんちゃ盛りのわくぱくな弟がいる。

 家に帰って勉強したくても、騒がしくて集中できないのだとか。


「ひょっとして、お前もファンなのか?」

「いいえ、それほど詳しいというわけでは……」


 俺は、机に突っ伏して図書室の本を読みつつも、肩こりをほぐし背すじを伸ばす。

 テスト期間中は母親からゲームを禁止されているので、どうせ家に帰っても勉強以外にやることがない。

 最終巻まで買い揃えたお気に入りの漫画も、もう何回読み返したか分からない。


たちばなってやつのこと、どう思う?」

「タッチ―のことですか?」


 シトラスブラザーズとは、近ごろ世間でにわかにもてはやされている男性アイドルグループのことだ。

 ほんの数年前にデビューしたばかりで、まだまだ知名度は低いものの、十代から二十代の若者たちを中心に――とくに女子高生のあいだで人気を博しており、あまりの熱狂ぶりにコンサートのチケットは即日完売してしまうという。


「メンバーの中では一番年上のリーダーですよね? 以前は別のグループで活動していたんでしたっけ? 歌も踊りもイマイチだけど、雰囲気だけはイケメンみたいな?」


「やっぱり知ってるじゃないか」


「いえいえ、私なんて野々坂さんと比べたら、素人に毛が生えた程度のにわかファンですから。今時の女子高生なら、これくらい常識の範疇ですよ」


 千嵐は、あまり前に出ないように身を引いて謙遜しながらも、照れ隠しの裏返しなのか、いつになく声が大きくなる。


 ――ところで、素人に毛が生えた程度ってどういう意味だろう? あそこに毛が生えたら大人になると言うなら分かるけど、その程度じゃまだ一人前とは呼べないってことか?


「俺、こいつと同じ髪型にしてみようかな」


 そう言って俺は、この世で一番嫌いなやつの名前を検索し、スマホの画面に表示された画像を拡大してみせる。


 インターネット上のSNSでしょうもない自己紹介とともに公開されている、タッチ―こと橘なにがしのプロフィール写真だ。

 趣味はカラオケ。特技はダンス。それ以外にやることがないのかよ。つまんねーやつだな。


「ひょっとして、青木さんもファンなんですか?」

「……いや、カッコいいとは思うけどさ」


 俺は、自分の髪の毛を手ぐしで梳かし、ちょうど真ん中から左右に分ける。

 Vの字になった額の生え際を見せつつ、つまんだ指をねじってふんわりと毛先を遊ばせる。


「似合うと思うか?」


 千嵐は、うーんと曖昧に首をかしげて、ぎこちない愛想笑いを浮かべる。

 普段からあまり感情を表に出さない物静かな女子生徒ではあるが、何と言ったらいいか分からず困っている様子だけは見て取れる。


「……雰囲気だけは、イケメンみたいな?」

「そう言われると、悪い気はしないが」


 たまたま手が届くところに置いてあったので、もみあげを耳の後ろにかけて、ものは試しに彼女の眼鏡を貸してもらう。

 いつもは使い捨てタイプのコンタクトレンズを愛用しているそうだが、念のために常日頃からケースに入れて持ち歩いているらしい。


 俺は、テーブルの上に伏せていたスマホの画面を見返し、裏面のレンズを拭いて撮影モードに切り替える。


 すると千嵐が、自ずから席を立って俺のケータイを取り上げる。

 後ろを見ながらあとずさって遠ざかりつつも、目一杯に腕を伸ばして写真を撮影する。


 そして、いまいち操作方法が分からず、うまく撮れなかった画像の消し方をたずねてくる。


「青木さんの顔立ちは、どちらかと言うと縄文系というよりも弥生系ですし、こっちの髪型のほうが似合うんじゃないですか?」

「そんな大昔のご先祖様を引き合いに出されてもな。似てるって言われてもあんまり嬉しくないし」


 それから千嵐は、逆さに向けた教科書をこちらに差し出し、旧石器時代から朝鮮半島との関わりに至るまでの歴史をさかのぼる。

 ちょうど一学期の中間テストに出てくる箇所だ。狩猟採集文化と農耕社会の違いが図解付きで紹介されている。


 俺は、横に並べた彼女のノートを参考にしながら、付箋が貼られたページを自分のノートに書き写す。


 しかし、罫線付きの大学ノートに挟まれている下敷きが気になって、ふと何となく次のページをめくろうとした途端――。

 テーブルを隔てて向かい側に座っていた千嵐が、わーっと万歳しながらこちらに覆いかぶさってくる。


「青木さんには申し訳ないんですけど、私はタッチ―よりもゆずっちのファンなので」


 それは、雑誌の切り抜きを自分好みにレイアウトして、クリアファイルに綴じた手作りの下敷きだった。

 増刊号で特集された今が旬のアイドルたちが、レモンを握って素敵な笑顔を振りまいている。

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