恋する男子に贈り物を教えて(2)
週が明けて、月曜日の朝。
俺は、朝飯も食べずに大急ぎで学校へ出かけた。
昨晩、目覚まし時計をセットするのを忘れて寝坊したのだ。
普段ならば、遅刻ギリギリの五分前まで鏡を見ながら髪の毛をいじり、毎朝決まったテレビのチャンネルで星座占いの順位をチェックする。
家の居間に掛けてあるアナログの時計は、遅れているので信用ならない。
言うなればそれこそが、俺にとって最も役に立つ情報なのだ。
愚にもつかない政治のニュースや、為替や株価の値動きなど興味はないけれども、ちょうどその時間に玄関を出ればだいたい間に合う。
ところが、今朝は慌ただしくて天気予報さえ聞いている余裕がなかった。
母親が台所に残していった弁当を風呂敷で包み、置き手紙を読み捨てるなり自転車にまたがる。
今年の春から高校生になった俺は、毎日片道30分くらいかけて学校へ通っている。
これといって何の特色もない、某県某市の郊外にあるごくごく普通の公立高校だ。
勾配のきつい校門前の坂道に差しかかり、ぜえぜえと息巻きながらひたすら自転車のペダルを漕ぐ。
朝っぱらからさっそくスタミナを使い果たし、下駄箱の前でへたばった俺を、あとから登校してきた生徒たちが追い越していく。
同じ色の上靴を履いた、同じ学年の生徒たちだ。この校舎のこの昇降口から出入りするのは、もっぱら一年生しかいない。
どくどくと高鳴る心臓の鼓動をこらえつつ、汗をぬぐってふと顔を上げると、
階段の踊り場を行き交う雑踏の中に、見覚えのある女子生徒の後ろ姿があった。
折り目正しくスカーフを結わった色濃いセーラー服。膝丈よりもやや長めに揺れるスカート。肩に当たってふわふわとはずむ二つ結びのお下げ髪。
先週の放課後、俺に見つかって逃げるように走り去っていった女子生徒だった。
結局この時は、一歩踏み出した足をためらって声をかけることができなかった。
人違いでないという確かな証拠が得られなかったからだ。
午前中の休み時間。
俺は、男子トイレで用を足したあと、自分の教室に戻らず廊下をうろうろしていた。
俺のクラスは一年D組だ。校舎二階の渡り廊下から、階段側へ向かって順番にA組、B組と続き、C組は黒板を隔てて隣の教室にある。男女共学で割合は半々くらい。
新しい学校生活が始まってまだ一か月と経っておらず、同じ学年といえども顔見知りは少ない。
同じ中学を卒業した生徒を見つけても、仲良し同士で集まったグループの中に割って入るのは気が引ける。
廊下を往来する生徒たちの頭越しに背伸びをして、なるべく遠巻きに隣の教室の様子を窺おうとしたところで――、
「おはよう、青木!」
いきなり背後から声をかけられて、俺は思わず「うわっ!」とのけ反った。
いつも通りの気さくな挨拶と見せかけて、俺の背中を思いっきり引っ叩いたのは、一年C組の野々坂百花だった。
「次の授業、あんたのクラスは移動でしょう? こんなところで何してるの?」
野々坂は、ふわりとスカートを翻して俺の行く手をさえぎる。
おもむろに後ろ手を組んで教室のドアに寄りかかると、上履きを左右に交差しつつ、可憐なポニーテールを斜めにかしげる。
彼女の身長は、160センチあるかないか。体重はたぶん50キロちょっと。
本人の談によると、だいたい全国女子と平均と同じくらいらしい。
とくに周りの目を引くような恰好はしていないものの、常日頃から身だしなみには気を遣っていて、肌身離さずディズニーのキャラクターが描かれた手鏡を持ち歩いている。
そんなひらひらとしたスカートのどこにポケットが隠されているのか、俺はいつも疑問に思っている。
「ひょっとして、千嵐さんを探してるの?」
「えっ?」
「ふーん、やっぱり図星なんだ?」
「いや、違うぞ! 勘違いするなよ! 俺はべつに周りの女子のことなんて……」
「だったら、どうして私のことを無視するの?」
野々坂は、やや上向きにカールしたまつ毛をしばたき、うつむいた俺の表情を下から覗き込もうとする。
「理由を言いたくなければ、べつに言わなくてもいいけど。あんた、今朝からずっと思い詰めたような顔してるから。私でよければ、相談に乗ってあげようか?」
もとはと言えば、それもこれも全部お前のせいなんだが。
――と、俺は物言わず黙り込んでへそを曲げる。
ほんのつい三日前、あんな出来事があったばかりなんだから当然だろう? 俺はお前に告白してフラれたんだぞ?
彼女は、俺にとってたった一人のヒロインだ。この世界の誰よりも素敵な女の子だ。きっと俺の気持ちを傷つけないように、あえて優しく接してくれているのだろう。
なるべくいつも通りに明るく振る舞って、昨日の喧嘩なんて忘れたことにして。また明日になったら仲直りしようって、そんなふうに考えているのだろう?
「本人を呼んできてあげようか?」
「えっ?」
「私じゃなくて、千嵐さんとお話がしたいんでしょ?」
「いや、べつにそういうわけじゃ」
「早くしないと、休み時間が終わっちゃうよ?」
「ちょっと待ってくれ。まだ心の準備が」
「心の準備?」
「ほら、こう見えて俺って人見知りするタイプだろう? とくに異性が相手だと、なおさら……」
「私だって一応、女の子なんだけどな」
「えっ?」
俺は、出っ張った喉仏に声を詰まらせて、ごくっ、と息をのんだ。
おくれた髪を気にして恥ずかしがる彼女の口ぶりに、不覚にも胸がときめいてしまったのだ。さっきまで変に意識せずに普通に話せていたのに、そんなふうに言い返されると黙らざるを得ない。
「さあ、勇気を出して! あんただって男の子でしょ?」
野々坂は、そう言って俺の背中を押した。
「どうせ駄目で元々なんだから、きちんと自分の気持ちを伝えなきゃ! さもないと絶対に後悔するよ?」
おーい、千嵐さーん!
大きな声で教室の中に呼びかけて、こっちこっちと注目を集める野々坂。そのくせ誰かに見つかりそうになったら、すぐさま俺の後ろに隠れる。
一年C組の
どうやら教室が騒がしくて、廊下から呼びかけても聞こえなかったようだ。別の生徒から肩を叩かれ、ようやくこっちを振り向く。
そして結局、この時もまた俺は一歩も動けずに固まってしまった。
びっくり仰天して椅子から立ち上がった女子生徒が、俺の正体に気づいて反対のドアから出ていってしまったのだ。
俺はただ、きちんと面と向かってあの子と話がしたいだけなのに。
あの日の出来事は告白でも何でもない。だから誰にも言わないでほしいって。
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