トマト

尾八原ジュージ

穴の中

 軍隊で同期だったドミニクから荷物が届いた。段ボール箱に貼られた送り状には「トマト缶詰1ダース」と書かれている。俺の頭の中で、ドミニクの角張った顔と「トマト」という単語が瞬時にリンクする。

 恐る恐る段ボールを開けてみると、見たことのないパッケージの缶詰が12個、ずらりと並んでいた。ホールトマトと書いてある。

 俺はこういうものを買ったことは一度もない。スーパーで見かけても目をそらして通り過ぎることにしている。なぜかといえば、ドミニクを思い出すからだ。ジャングルの中で死体の頬肉を切り取って空き缶に入れていたネジが緩んだような顔。生来俺は都合の悪いことはさっさと忘れてしまう性質だが、こればっかりは何年経っても頭の中から消えてくれない。

 そもそも本当にこれはトマト缶か? 俺は段ボール箱を前に逡巡し始める。一缶開けて中身を確かめればわかる話だが、俺の体はその作業を拒否していた。缶を取り出そうとすると、指先から肩の方に悪寒が駆け上ってくる。

 よりにもよって俺にトマトの缶詰を送ってくるなんて、あいつは正気なのだろうか? まだ呆けるような年ではないはずだが――うっかりそんなことを考えたために、俺の脳みそはどんどん厭な記憶を遡り始める。むせかえるような緑の匂いが、葉擦れの音が、俺の意思に反してじわじわと頭の中に満ちていく。


 確かにあのとき、俺とドミニクは飢えていた。部隊がゲリラにやられて壊滅状態になり、俺たちは食うもののないジャングルを盲滅法に敗走していた。

 最後に蛇を捕まえて食ってから、もう何日も雑草のようなものしか口に入れていなかった。悠長に狩りや採集などしている場合ではなかった。今にも銃弾が飛んできて自分の頭を吹き飛ばすかもしれない。だがそれはこの地獄からいち早く脱出するためのもっとも効率的な方法でもあり、次第に俺は自分がなぜジャングルの中を駆け回っているのかわからなくなってきた。

 何度か走りながら意識を失い、はっと目覚めるとまだそこは鬱蒼としたジャングルの中で、走りながら首筋に落ちてきた小さな蜘蛛を摘んでいた。俺はそいつを口に入れた。小さ過ぎてなんの味もしなかった。

 ブービートラップにかかった敵兵を見つけたのは、そんな地獄の真っただ中だった。穴の底に斜めに切った枝が何本も植えてあり、そいつの腹からはそのうちの一本が突き出していた。まるで昆虫標本のようだった。

 そいつは穴の中でまだ生きていた。俺は何もせずに立ち去ろうとした。彼が味方だろうと敵だろうと、この状況で適切な手当をすることはほぼ不可能だと思ったからだ。ところがドミニクは違った。

 ドミニクは慎重に穴の底に降りていくと、ナイフでそいつの喉を切った。俺は彼が、その兵士に情けをかけたのだと思った。苦痛に耐えながらじわじわ死んでいくよりは、一思いに楽になりたいとそいつも願っていただろう。実際その死に顔は安らかに見えた。

 俺は穴の外で待っていたが、ドミニクはなかなか上がってこなかった。この穴を登ってくるだけの体力がもうないのかもしれない。そう思って俺は中を覗き込んだ。


 ああ厭だ。

 厭なことは忘れてしまうに限る。


 ドミニクは穴の中で、死体から肉を切り取っていた。頬肉を切り取られた穴から歯列が見えた。彼は兵士の肉を、後生大事に持ち歩いていた空き缶にひとつひとつ入れていた。

「何やってんだ!」

 俺が怒鳴ると、ドミニクは顔を上げた。緩んだ笑みを浮かべて、「これ、こうするとトマトに見えないか?」と缶を掲げてみせた。

「なぁ、似てないかトマト缶に。旨そうに見えないか?」

「バカ野郎」

 俺はとっさに怒鳴った。内心「本当だ。似てるな」と思ったことを隠さねばならないと思った。少しでも旨そうだと思ったことを悟られてはならない。あれならトマトに似てるから食ってもいいだろうなんて、そんな理屈が通るわけがない。

 ドミニクは缶に指をつっこみ、つまみ出した肉を食い始めた。

「うん、旨い旨い。トマトの味がする」

 ドミニクの口の周りは真っ赤だった。自分よりも一瞬早くタブーを越えてしまった人間を見ていると、俺は不思議と冷めた気分になった。ドミニクの隣に降りて行って自分も「トマト缶」を食う。そうしても咎めるものはいないはずだ。なのに平生の俺はまだ心の中で生きていて、地獄でのたうつ俺を引き止めていた。

「おーい、お前も一緒に食わないか」

 穴の底からドミニクが俺を呼んだ。気味の悪い笑みを浮かべていた。開いた口の中が赤く染まっている。

 ふいに(食われる)と直感した。ドミニクは俺も食うつもりだ。俺を穴の中に呼び、殺して肉を切り取るに違いない。

「食わねえのか。聖人ぶってんじゃねえよ」

 俺はその場から逃げ出した。

 転がるように走った。振り返ると、木々の間に人影が見えた。それは口元を真っ赤に染めたドミニクのときもあれば、全身から肉を切り取られ、濁った目をこちらに向ける敵兵でもあった。

 何度目かの転倒の後、気がつくと俺はテントの中に寝かされていた。味方がジャングルの中で倒れていた俺を、たまたま見つけてくれたのだ。本当に幸運だった。


 突然脳みそをかき混ぜるような目眩を覚え、俺は段ボール箱の横に座り込んだ。

 そういえばあの後、ドミニクとは一度も会っていない。トマトの缶詰など送ってくるくらいだから、あいつも復員したのだろう。俺たちが地獄のようなジャングルを這い回っているうちに、戦争は終わっていたのだ。

 ドミニクはどうやって俺の住所を知ったのだろう? あれから一度も会っていなければ、手紙の交換も、電話でのやりとりだって一度もしたことがない。軍隊時代の共通の知り合いに聞いたのかもしれない。

 そういえば、ドミニクは今どこに住んでいるのだろうか。俺は送り状をもう一度見るために段ボール箱の蓋を戻そうとし、


 ふいに、旨そうだなぁ、と声が聞こえた。


 ドミニクがいつの間にか俺の隣に並んでしゃがみ、トマト缶の並んだ箱を覗き込んでいた。彼の頬には大きな穴が空いており、汚れた歯列が見えた。

 なんだ、そこにいたのか、ドミニク。

「お前も一緒に食わないか?」

 思わず俺はそう言っていた。自分のその言葉が、言い方が、ニュアンスが、ひどく聞き覚えのあるもののように響いた。

 ドミニクは憐れむように笑った。

「俺はいいよ」

「食わねえのか。聖人ぶってんじゃねえよ」

 俺を見つめるドミニクは冷めた目をしていた。自分よりも先に一線を越えてしまった人間を見るようなまなざしを俺に向けている。それはどこかで見たような顔だった。

「お前、相変わらず都合の悪いことは忘れちまうんだな。大方忘れちまったところは、いいように作り直したんだろう」

 ドミニクが言った。もう一度、脳みそをかき回されるような強い目眩が襲い、俺は目を閉じた。


 もう一度瞼を開けると、ドミニクの姿はなかった。

 俺は熱に浮かされたような気分でもう一度送り状を見た。送り主はドミニクではなく、遠方で農家を営んでいる俺の従兄だった。よく見ると箱の中に、従兄からの手紙が入っていた。育ち過ぎたり形が悪かったりして出荷できないトマトを、缶詰にして売り始めたそうだ。

『世話になってるから送るよ。トマト、好きだったよな?』

 手紙にはそう書いてある。俺はトマトなんか好きだったか? いや、確かに俺の好物はトマトだったな。あんまり食べるもんだから従兄の嫁さんに笑われた記憶がある。トマトを食うと、戦時中にジャングルで食ったトマトの缶詰を思い出すのだ。飢えていたせいもあるだろうが、あのトマト缶は旨かった。あんなに旨いトマトはその後一度も食べたことがない。

 一体全体、俺は何を恐れていたんだ?

 もう悪寒は少しも感じられなかった。さっそく一缶取り出して蓋を開けると、真っ赤なトマトがみっしりと入っていた。いかにも食欲をそそる眺めだ。

 俺はキッチンからスプーンを持ってくると、缶に突っ込み、中身をそのまま食べ始めた。旨い。あのときジャングルで食べたものには負けるが、やっぱりトマトは旨いものだ。

 ドミニクにもいくつか送ってやろうかと考えて、俺はふとドミニクがジャングルで死んだことを思い出した。そうだった、あいつはブービートラップの中で死んだのだ。尖った木の枝が刺さって怪我をしたうえに、何日も何も食べていなかったから体力がなく、穴から這い出すことができなかった。俺はドミニクの死体を見たじゃないか。枝が腹を貫通し、昆虫標本のようになったあいつの姿を。どうして忘れていたのだろう。おかしいな。

 なんだ、俺はまだ呆けるような年でもないのにな。なんだか可笑しくなった俺は、一人でニヤニヤ笑いながら、口の周りをべちゃべちゃにしてトマトを食べ続けた。

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