第3話 今のは幻聴?




『百回くらい起こしに来てくれないと、ぜ~~~~~ったいに許さないんだから! もう口もきいてあげないんだから』


 放課後になるなり、恵里が僕の前に来て、あっかんべーをして怒った表情を見せてそんな事を言った。


 やる事なすこと小学生のようだった。


 恵里は高校生らしい精神年齢になって欲しいのだけど、身体が小学生みたいなものだから成長できずにいるのだろう。


 彼氏か何かができれば、成長するだろうからそれまで見守るしかないのかもしれない。


「百回? 容易いな」


 僕がそう言っている最中に恵里は逃げるようにして僕の前から消えた。さすがは短距離走だけは上位に食い込む脚力の持ち主である。天狗も真っ青の逃げっぷりだ。だけど、天狗は飛ぶのだから真っ青にはならないかもしれない。


 返事を聞くのが嫌なのか、聞く必要がないからなのか、それとももっと他の理由なのか不明瞭ではあるんだけど、僕の不埒な行為を許す気になったのは確実だろう、たぶん。


 恵里はまだまだ子供っぽくて朝が起きられないんだ。


 恵里の両親や清恵ばあちゃんが起こそうとしても起きなくて、僕が起こしに行くと何故か起きるというとても奇妙な起床性癖の持ち主だ。


 起床に性癖があるのかどうかは分からないけど、恵里はかような体質なのだ。


 性癖ではないとしたら、怠け者、怠惰という類に分類されるだけなのかもしれない。


「……さて、帰るか」


 用事もないし、帰ろうかと誰もいない教室を出ようとした時だった。


「……ふぅっ」


 不意に耳に息を吹きかけられたかのような気がして、身体がビクッと反応した。


「誰?」


 と、振り返るも背後には誰もいなかった。


 この教室にいたのは僕だけだったので、誰もいなくて当然のはずだ。


「ん? どういう事なの?」


 キョロキョロと周囲を確認するも、僕の耳元に息を吹きかける事ができた人物はいない。気のせいかと思い、教室から再び出ようとした時だった。


「……君は織畑睦美に会うべきだ」


 と、今度は女に耳元で囁かれた。


「……え?」


 瞬間怖気が走って慌てて振り返るも、やはりそこには誰もいない。


 声の主が廊下にいるかもしれないと思って、廊下に目を向けるも、当然そこには誰もいない。


 教室にも、廊下にも誰もおらず、僕だけしかいない。


 その事実を知って、僕はゾッとした。


「今の声は知っている声だったのかな?」


 不思議な事に僕は郷愁に似た感情を抱いていた。


 聞き覚えがあるからそう感じたのかもしれない。


 もしかしたら旧知の仲の女の子の声だったかもしれない。


 幻聴でないとするのならば、確信を持って言える。


「織畑睦美に会うべきだ……か。いや、織畑睦美に会わなければいけないのかもしれないね」


 最近は疎遠になっているけど、僕なんかと会ってくれるかどうか疑問が残る。


 僕に愛想が尽きたっていう理由だし、睦美と仲が微妙になってしまったのって。でも、僕が睦美を呆れさせるような事をした記憶がないんで、どうやっても無理なような気がするんだ。関係修復は。


「……なんだ? 牝豚に会いたいのか?」


「ほわっ?!」


 またしても背後から声がしたので、飛び上がりそうな程驚いた。


「……なんだ、宗生か。脅かすんじゃないよ、全く……」


 僕はホッと胸をなで下ろした。もし後ろにまた誰もいなかったら、寿命が縮んでいたに違いない。


 あれ?


 今、教室には誰もいなかったはずなのに、どうして宗生がいるんだ?


「……というか、いつ教室に?」


「忘れ物を取りに、もう一つの扉から入ってきたんだが?」


「……あ、そうだったのか」


 どうやら僕が気づいていなかっただけのようだ。


 ぼうっとしすぎていたのかもしれない。


「お前がここでぼうっと突っ立っているのを見かけたからな。普通に声をかけただけだ」


「お前こそどうしたんだ? こんなところに立ち止まって牝豚の名前を呼ぶなんて。正気に戻れ。あれは女じゃなくて豚だ。幻を見るんじゃない、現実を見ろ」


「……宗生こそ現実を見た方がいいんじゃないかな?」


 パンチラなどという盗撮行為に生きがいを見いだしている現実をそろそろ見つめた方がいいんじゃないかな?


 何度も口を酸っぱくさせて言っているけど、改善されないので今更言う気もないけど。


「今日、うちに来るか? 牝豚に会えると思うだろうし、どうだ? あんな豚、会うだけ無駄だと思うが。飛べない豚だからただの豚だしな」


 睦美の事をここまで悪し様に言うのは弟である宗生くらいだ。おそらくは出来の悪い弟だからプレッシャーをかけたりしているせいなのかもしれないけど。


「宗生がそんな事を言うなんて珍しい。熱でもあるのか?」


 さっきの女の声は幻聴じゃない気がするし、会ってみるのが一番なような気がする。


 でも、どうしてそう思うのかが僕には分からなかったけど、何か予感めいたものがある。


「……シゲの事もあるからな」


 宗生は陰りのある表情を見せて、教室の中へと目を向ける。


「光明院は不登校だし、相談できるのは牝豚くらいだろうと思ってさ」


「……ああ、花子か」


 僕は教室の中にあるとある席を見た。


 光明院花子は睦美と同じように、僕に愛想を尽かしているであろう女の子のうちの一人だ。


 交通事故での怪我が治って退院した頃にはもう不登校になっていたので、本当にそうなのかどうかは不明なんだけど、退院して以来、花子の姿を一度も見た事もない。


 そんな感じなので、僕が勝手にそう思っていたりする。本当のところは花子本人に聞いてみない事には分からない。


「学校に来てないのに何故か出席扱いになっていたりするし、テストの時に出てきて学年ベストテンに入るし、光明院は不思議な奴だよな」


 昔は僕、宗生、睦美、花子、恵里、それと……とよく遊んで……あれ?


 もう一人誰かいたはずだったんだけど、誰だったっけ。


「……ッ」


 思い出そうとしたら、頭が割れるように痛くなってきた。


 誰だ、誰だ、誰なんだ、もう一人は。


 頭に手を当てるも、痛みは引かず、むしろじんじんとした痛みが頭から全身へと広がってきて、立っているのもやっとという風になってきた。


 思い出そうとすればするほど頭に激痛が走る。なんだっていうんだ、この痛みは。僕に思い出すなとでも言いたげだ。


「……おいおい大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」


 柄にもなく宗生が心配してくれている。


 そうか、考えちゃいけないんだ。その人の事は。


 何故?


 どうして?


「……だ、大丈夫だ、うん、大丈夫……」


「ならいいんだが」


 考えるのを止めると、すっと全身から痛みが引いた。


 僕が思い出すと不都合な記憶なのかな、もしかして。


「大丈夫そうだな。で、来るのか、うちに?」


「行った方がいい……のかもしれないな」


 さっきの囁きを信じた方がいいかもしれない。


 織畑睦美に会えば、この問題はもしかしたら解決するのかもしれない。



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