第2話 心霊写真



「今日はここまで。宿題は出す気がないが、各自自習くらいはしておくように」


 昼休みを告げるチャイムが校内に鳴り響くと、数学の先生は教科書を閉じて、そそくさと出て行った。


「……やっと終わった」


 僕は数学が苦手ということもあり、先生の話は左の耳から右の耳へ、あるいは、左の耳から右の耳へと素通りするばかりであった。授業終了のチャイムは救いの雨ならぬ救いの鐘だった。


「……ふぅ」


 数学の教科書を机の中に仕舞い、ため息を吐いた。


「昭夫! 昭夫! ため息なんてしている場合じゃない!」


 そんな声を上げながら、腐れ縁の織畑宗生おりはたむねおが僕の方に近づいてきた。


「ため息は吐くものだ。するものじゃない」


「知るか、そんな事」


 宗生はそう言って、鼻息を荒らげながら僕の前まで来るなり、上着のポケットから何かを取り出して、僕の机の上にポンと投げるように置いた。


「昭夫よ、とくと見よ!」


 机の上に置かれたのは、一枚の写真であった。


「またパンチラ写真か?」


 宗生は校内でよくカメラを構えている。それはパンチラを狙っているからなんだけど……。


 宗生にはモラルというものがないのかと問いたいところだが、パンチラ撮影という趣味を取ってしまっては宗生には何も残らないのを知っているから、僕はもう宗生の人生そのものだと納得する事にしている。


 写真部の部長という立場を利用して、一眼レフカメラを常に持ち歩き、隙あらば撮影しているらしい。その行為は犯罪そのものなんだけど、僕は見なかった事にしている。


 そのうちにたぶん逮捕されるだろうから今は好きに生きさせてあげていると言っても過言ではない。


「感動の一瞬パンチラを撮ろうと思っていたら偶然撮れてしまってな……。あの牝豚に相談した方がいいのかもしれない」


 宗生が真顔でそんな事を言ってきた。


 ある種の病気なので、もう僕は特に触れはしない。


 とはいえ、牝豚というのは二つ年が離れた姉の織畑睦美の事だ。


 宗生が姉を呼ぶときには必ずそう呼ぶ。姉の前で同じような呼ぶ方をしているのかは不明ではあるんだけど。


 睦美はこの街一番の美人とさえ言われるほどの女の子だ。だが如何せん性格がキツい。いや、キツいというよりも傍若無人というべきなのかもしれない。


 宗生の事を人間扱いしていないので、睦美のそんな態度が宗生の性格と価値観を歪ませたに違いない。


 睦美との付き合いはそれなりに長かったから分かるんだけど、あの性格を許容できたり、素直に受け入れられる人間じゃないと話すのも辛いはずだ。


 というのも、睦美とは小学生の頃に一緒によく遊んでいたからそんな事が言えるんだ。


 僕が中学生になってからは愛想が尽きたとか言われて会ってくれなくなった。僕が子供だから相手にする気が失せただけなのかも知れないけど。


「……相談? 睦美に? 何故? どうして?」


 その理由を聞かされる前に、僕は宗生が撮影したという写真に視線を移した。


「何故こんな写真が撮れてしまったのか。ああ、俺の才能が憎い」


 宗生が変な事を言っているが、ここは聞き流しておこう。


「……何が、どういう事?」


 小学校の校舎の写真だった。しかも、僕や宗生が卒業した荒美第四小学校だ。


 パンチラを撮ろうとして、何故学校の校舎が写るのか理解に苦しんだ。


 小学生をターゲットにし始めたのだろうか。


 もしそうだとするのならば、そろそろ警察に連絡して更生されるしかないのかもしれない。


「ここの窓を見てくれ」


 いつになく宗生は真面目だった。


 二階にある教室の窓を指さして、いくらか陰りを帯びた目で指し示した場所を見つめる。


 変だなと思いつつも、その箇所を凝視した。


 窓のところに一人の少年がいた。窓の外を見ているようなのだけど、その表情はどこかいびつだった。生きている人間の表情ではないように思えた。


「これがどうかしたの?」


「牝豚は有能な霊能力者だが、俺の霊感は零だ。しかし、断言してもいい。この写真には幽霊が写っている。それだけは俺にも断言できる。さあ、見るがいい」


「……さっきから見ているが……」


「ふむ、確かに見ていたな」


 宗生はいつからこんな人間になってしまったんだろう。元からなのかもしれないけど……。


「……霊能力がないのにどうして幽霊だって断言できるの?」


「この少年、シゲじゃないか? 俺にはシゲにしか見えないんだよ。絶対にシゲだ。シゲに違いない。シゲにしか見えない」


「……シゲって誰?」


「……そうか、そうだったな。昭夫は記憶をなくしてしまったんだな、シゲの記憶全てを」


「だからシゲって誰?」


 僕は中学一年生の頃の記憶をまるまるなくしている。


 中学一年生の時に交通事故に遭ったそうで、数ヶ月入院していた。


 事故に遭遇してから四ヶ月後にようやく意識を取り戻したのだけど、その事故以前の記憶がとても曖昧になっていた。


 小学校の高学年の時から病院で目を覚ますまでの記憶が大幅に飛んでしまっていたんだ。決して忘れてはいけないような出来事があったような気がするんだけど、僕は全く思い出す事ができなくなっていた。


 医師は一時的な記憶喪失と言っていたけど、今も失った記憶を思い出す事はなかった。


 そんな出来事があったけど、今では立派な高校一年生にまでなれた。


 立派な高校一年生、とは模範的な優等生然とした高校生の事ではなく、健康優良児の事を指すと思って欲しい。


 通っているのは公立の高校だ。美術を除けば成績は中の下、バレンタインデーにチョコをもらう事はなく、誰かが僕の事を想っているだとかそんな浮ついた噂とかが一切流れてこない、元気だけが取り柄の高校生が僕なのだ。


 記憶喪失なんていうものは、漫画かアニメの主人公がなるものだとばかり思っていた。


 物語のように最後の最後で記憶を取り戻し、大団円で終わるなんていうご都合主義用の症状かと思った事もあったんだけど、そうではなかった。


「ゆ~れい?」


 背後から気の抜けるような声が聞こえた。どうやら僕達の会話を立ち聞きしていたようだ。


「お前は見なくていいよ。夜、眠れなくなるぞ。一人でおしっこに行けなくなるかも知れないぞ。夜中に俺にトイレに行けないとか電話してくるのは駄目だぞ」


 呂律の回っていないかのような、甘ったるい声。『真性のロリ声』だと一部で定評のある摩周恵里ましゅう えりのものだと一瞬にして分かった。体型もその声と似通っていて、小学生だと言い張ってもまかり通るつるぺただ。


「でも、見たいよぉ」


 トテトテと近づいてきて、僕の背後から机の上を覗き込んだ。


 恵里の顔と僕との顔の距離は数センチ。僕がちょっとでも動けばぶつかりそうだ。


 チラリと横目で見やると、目をキラキラと輝かせながら、宗生を見つめていた。身体や声だけではなく精神年齢の見た目通りだから手に負えない。


「ゆーれい、ゆーれい。ゆーれいが見たいよぉ」


 恵里の吐息が僕にかかって、僕は思わず身体を遠ざけてしまった。恵里はその事には気づいていない様子で、


「……いや、摩周さんは見ない方が……」


「……ゆーれい、ゆーれい」


 恵里は好奇心に充ち満ちた顔をして、楽しそうに写真を眺め出した。


 席を動かしてさらに距離を置いて恵里の顔色を見やると、段々と顔色が蒼くなっているのが手に取るように分かった。


「……シゲちゃん?」


 恵里は手で顔を覆い、怖い怖いとばかりに身体を震わせた。


 怖がっているのは一目瞭然なのだが、指と指の隙間から心霊写真をまだ見ている神経が理解できなかった。


 これが怖い物見たさなのだろうか。


「怖いなら見るなよ」


 そんな恵里の事を突っ込まずにはいられなかった。


「怖いのは分かるの。でも、見たいものは見たいのっ。本当にシゲちゃんか確認したいもん」


「全裸の男子を見て、キャーって悲鳴を上げて、顔を手で隠しているけど実は指の隙間から男子の裸体をじっくりと観察している、そんな心理なんだよ。分からないかな、昭夫は。だから、乙女心がいつまでも分からないのだ」


「……どの口が乙女っていう台詞を言っているんだ?」


「心と体は乙女だ。分からんでもない。昭夫には俺の言うことは分からないだろうな。なぁ、摩周さん」


 宗生が恵里に話を振るが、指の隙間から目を輝かせながら心霊写真を見ており、宗生の声など耳に入っていたかもしれないし、聞き流されただけかもしれない。


「シゲちゃん……か」


 僕は確かめるようにもう一度写真を見た。


 瞬間、頭の中で何かが閃き、目の前が真っ白に染まった。




『俺は立派な退魔師になる。いずれは八卦衆になって、そして、退魔師の王に俺はなる! 八卦衆だとか、名前は知らないけど千年以上生きている化け物みたいな老人とかそんなやつらを倒して俺は王になるんだ!』



 懐かしい声だった。


 聞き覚えがあるのだが、誰の声であるのかまでは思い出せない。


 とても親しかった者の声……記憶とは違う絶対的な何かがそう僕に囁きかけてきた。


『……え? 海賊王になるのと勘違いしてないかだって? それは昭夫の思い違いだ。俺は麦わらの一味の影響は受けていない』


 失われた記憶の残滓なのだろうか。


 昔々、遠い昔、こんなやり取りをしていたような気がしないでもない。


 それがいつの事であったのかは、記憶喪失の僕にはとうてい分からない事なのだが、とても大事な事だったのは理解できる。


『さあ、行くぞ! 俺達は退魔師の王への階段を昇り始めたばかりだ!』


「……ま、待って。先に行くな!」


 僕は声がした方に手を伸ばし、語りかけてきた人を捕まえようとした。


 すると、指先が何か柔らかいものに触れる。


 僕は逃してなるものかとさらに前へと前へと手を出し、そして、ギュッと掴んだ。


 柔らかい事は柔らかいのだが、その先には固い何かがあって、手で全てを包み込むことができなかった。


『……えっ?』


 白く染まった世界の奥から、さっきの声とは違う、これまた聞き慣れた女の声がした。


 この声は恵里のだと気づいた瞬間、視界を覆っていた白が爆ぜた。


 気づくと僕は教室の中にいて、目の前には宗生が、横には恵里がいた。


「えっと……これは?」


 僕は恵里の胸に手を伸ばし、鷲づかみしていたのだ。


 しかしながら、鷲づかみしていたという表現は大げさではある。


 女子だから当然胸はある。しかし、山ではなく、平べったい中にぽつねんとした突起物があるだけだった。


 ん?


 突起物?


「ア、アキちゃんのバカぁぁぁッ!」


 恵里の身体が小刻みに震えているのが、掴んでいる胸から伝わってきていた。


 そして、その震えが収まると同時に恵里の顔が瞬時に真っ赤になった。


「……こ、これは……」


「ア、アキちゃんのエッチィィィィッ!」


 言い訳を口にしようとするも、その言葉は恵里のビンタによって遮られる結果となった。


「ふごぷっ?!」


 パチーンっと心地よい響きがして、座っていた椅子ごと床になぎ倒された。


 僕を引っぱたいた張本人の恵里は耳まで真っ赤にさせて、逃げるように教室から出て行こうとする。その後ろ姿を床に這いつくばりながら見ていた。


「胸がもっとあれば、叩かれ損ではなかったんだけど……」


 さっきの白昼夢か何かの中で聞こえてきた声は誰のものだったんだろう。


 どこか懐かしくて、胸に何かを刺されたかのような痛みが広がる、不思議な声だった。



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