向かうべき場所
まるで泥のように粘度の高い闇。
全身に纏わり付くようなその闇の中を、ゆっくり、ゆっくりと下降していく。
不思議と、怖くは無い。
むしろ……周囲から感じるのは、怖れと悲しみ。
存在する事を赦されなかった。
生まれてくる事を望まれなかった。
そんな悲しみが液体となって揺蕩うような、黒い泥が、まるで導くように私を下方へと導いていく。
いつ終わるとも知れない時間が流れ……やがて、はるか下方に小さな光を見つけました。
――女の子?
まだ十歳くらいに見える、小さな女の子。
まるで胎児のように膝を抱えて眠っているその女の子が近づいてくるにつれて、やがてその姿の詳細が見えてくる。
その姿は、漆黒の闇を固めたような翼、赤みを帯びた虹色に揺らめく髪を持った……………………私?
――ッ!?
次の瞬間、カッと目を見開いた少女。
その視線が、真っ直ぐに私を貫いて――……
「――あぁぁああっ!?」
まるで拒絶され、弾き出されるように、急激に意識が浮上した。
「はあっ……はぁっ……っ」
滝のように汗が流れる一方で、気温はひどく寒いように感じる。
「だ、大丈夫か?」
「は……ぁ……ここは……?」
レイジさんに助け起こされながら、周囲を見回す。
……そこは、まるでサロンのような一室で、私はどうやらそのソファーに寝かされていたようでした。
ごく普通の風景に戻っていた事で安堵し、大きく息を吐き出す。
「離宮の、談話室だ。意識を失ったお前を運んだんだが……」
そう言われて、ようやく調べ物をしている最中に過呼吸を起こし、酸欠で意識を失ったのだと理解しました。
「レイジさん……ごめんなさい、本の内容に少し動転してしまって」
「いや、あれは仕方ねぇよ。俺こそすぐに変だと気付いてやれなくて悪かった」
「スノーも、心配してくれてありがとうね?」
ベッドに上がって来たスノーは、心配するように私の頬を舐めていました。
そのくすぐったさに笑いそうになるのを我慢しながら、その背中、柔らかく手触りの良い毛皮を撫でてやります。
「ずっと、魘されていたみたいだけど、何があったのかな?」
それまで後ろで様子を見ていた兄様の声に、再度大きく息を吐き、口を開く。
「夢を……見ていました」
「……夢?」
「はい……真っ黒な闇の中に眠る、幼い女の子の夢」
あれがおそらくは、器となった御子姫から摘出されたという胎児……リィリスさんとリュケイオンさんの娘。そして「本来生まれてくるはずだった私」の、本当の身体。
過去、『奈落』の器を作るために抜き取られた魂。
最近、『光翼族』の器を作るために作られた命。
本当に……私の出生とは、ずっと誰かの思惑に振り回されたものだったのでしょう。
ですが少なくとも、この身を生んでくれた二人の母親は、確かに私の事を愛してくれていたのを覚えています。だから、今はそれだけで十分。
「あの、イリス姉ちゃん、俺……」
何と言ったらいいか分からない……そんな様子ですまなそうに声を掛けて来たのは、ハヤト君。そんな彼に、大丈夫と微笑んでみせる。
「平気です、少し驚いただけですから……ある程度、段階を踏んで情報を得ていましたから、今はもうそこまでショックという訳ではないんです」
「……なら、良いんだけど」
「ごめんね、心配を掛けて」
どこか釈然としないという様子ながら、素直に引き下がるハヤト君。
「しかし、もっと色々と調べたいところだが……今日はやめておこう」
「そうだな、何が出てくるか分かったもんじゃねえ。先王ってのは本当とんでもねぇな」
「あはは……本当、父にも困ったものです」
散々な言われようの父ですが、私自身全く同感なため、とりあえず苦笑いしておきます。
それに……取り急ぎ、するべき事ができました。
「……皆と……それと、アイニさんも呼んでもらえますか。今後の事について、相談があります」
改めて気を取り直し、そう宣言する私に……皆、同じく真剣な顔で頷きました。
◇
今後の指針を話し合っているうちに、夕餉の約束の時間はあっという間に来てしまいました。
「そうか……兄の手記に、そんな事が」
沈痛な面持ちで私の話を聞いていたアルフガルド叔父様は、私が全て話し終えた後、深々と溜息を吐きました。
……無理もありません。叔父様にとっては、敬愛する兄による不貞の自白が出て来たようなものですから。
――ここは、『クリスタル・パレス』内にある、王家が食事を取るダイニングルーム。
ちなみに……給仕する女官以外は身内だけ、他所からの人目が無いこの部屋は、決して見渡すような長テーブルがあるとかそういった事は無く、落ち着いた調度のごく普通の部屋でした。
……その値段が幾らかは、聞いたら色々緊張しそうなためあえて知りたいとは思いませんが。
食事内容も、普段からコース料理などという事もなく、やや上流階級向けではありますが、こちらもごく普通の料理です。
ただし味は、何というか別次元でした。素材の質……いわゆる御用達というものでしょうか。
あとは代々仕えてくれている厨房係の腕の良いのだと、叔父様は自慢げでした。
私と兄様は王家の一員という事で流石に皆とは食卓を別にしており、客人扱いの仲間たちは別室で、同じ内容の食事を摂っているはずです。
そんな訳で、今は私と兄様を加えた王家で揃っての晩餐を終え、食後のデザートとお茶を楽しんでいる最中。
ユリウス殿下はすでに眠そうに目を擦っており、王妃様がそんな殿下を連れて退室したそんな中で……私達は、先程見つけた前国王アウレオリウスの手記について、叔父様と相談していました。
「……それで、お前達はこの後どうするつもりだ?」
苦々しい表情のまま、気分を落ち着けるように香茶に口を付けながら、陛下が尋ねる。
「それなのですが、一度、行ってみようと思います……ティシュトリヤの隠れ里に」
翼を失った、光翼族の子孫達の隠れ里。
そこに、答えの続きがあるかもしれない。
それに……以前ブランシェ様やネフリム師に訪ねる事を勧められた北に住まう老竜様の場所へ行くのにも、そこを経由する必要があります。
……ひと月後にアイレイン教団総本山で行われる予定の三国での会合までを期限とした場合、だいぶギリギリの行程な旅になりますが。
「そうか……叔父としては、せっかく帰ってきたお前たちにはもうあまり危険な事はして欲しくないが、致し方あるまい」
渋々といった様子ながら、許可をくださるアルフガルド叔父様。
しかし、それには問題があるのも事実です。何故ならば……
「だが、あそこに行くには、大陸を縦断する『硝雪の森』の北部を西へと突っ切らねばならんぞ」
「はい……覚悟の上です」
場所については、すでにアイニさんから聞いて地図で調べていました。
ですがどれだけルートを選んでも、四半日くらいはあの『禁域』へと踏み込まなければならない事が分かっています。
「そうか……ならば丁度良い。今ならば同じくそこへ行きたいと言っている、うってつけの案内役が居るからな」
「……案内役ですか?」
兄様が、訝しげに聞き返します。
このタイミングで話を出すならば、きっと相当に信頼出来る方なのでしょうけれど……
そうして首を傾げている間に、叔父様は手を叩いて誰かを呼んでいます。
そこに現れたのは……本当に、これ以上信頼できる人は考え得る限り居ないというくらいのお方でした。
「お久しぶりです、イリスリーア殿下、ソールクエス殿下」
そう言って敬礼し、近衛騎士の立派な制服を纏う、かなり高齢の騎士様が入って来ます。
見覚えがある、その姿は……たしかに叔父様が太鼓判を押すわけだと納得する人物でした。
「その声、あなたは……!?」
「たしか、『黒影』と共に西へ調査に行くと……」
「はい。つい先日、西の辺境調査から戻って参りました。有意義な調査となったのですが……その話は長くなるので、また空いた時間にでも」
そう言って頭を上げる彼は、私と兄様の方を見ると……
「……両殿下とも、この僅か数ヶ月でずいぶんと成長なさったようですな。イスアーレスでの武勇伝は、私の方にも届いていました」
そう言って、好々爺然とした笑みを浮かべる彼。
それは先日、ディアマントバレーにて一度共闘した……北大陸最高の騎士、『剣聖』アシュレイ・ローランディア、その人でした――……
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