御子姫様と聖女様

 広大なコメルスの街を、最低限見て回りたかった場所を巡り終え、上層にある今夜の宿へと向かった時には……すっかりと遅くなっていました。


 遅れてくるのを見越して用意されていたパンやチーズ、ローストされたお肉などの簡素な食事でお腹を満たし、歩き回った汗と埃を落とすために、宿の地下部分にある浴場へと来たのですが……


「……わぁ」


 思わず漏れ出た溜息。

 そんな私は今、夜気に冷えた裸身にタオル一枚を纏い、暖かい湯気に包み込まれていました。


 細かな彫刻が施された、白石の大広間。

 ほのかに甘い花の香りに満ちた湯煙の先には、円形に一段低くなった場所。

 その中央にはまるで噴水のように湯らしきものが湧き出て水槽を満たしており……その中央に鎮座するのは、やはり白磁の女神像。


 そしてそんな豪奢な室内を満たすのは、やや熱めに管理された湿気と熱気――つまりここは蒸し風呂、元の世界で言うフィンランド式サウナのような場所でした。


「えぇと……確か、ロウリュ、って言うんでしたっけ」


 備え付けの柄杓で水槽からひと掬いの水を取り、そっと鼻を寄せる。


「あ……すごい、いい香り……」


 ふわりと香ってくるのは、花を溶かし込んだような香油の香り。

 それを、部屋の中央に鎮座する白い石像……女神アイレインの姿を象ったアロマストーンへと、そっと掛ける。


 途端に、熱く熱せられた女神像からジュワッと音を立てて広がった熱と蒸気に包まれる。


「はぁあ……んっ……」


 治癒術の加護に包まれているせいか、これまでの戦いの中でも傷らしい傷が残っていない透き通るような白い肌。

 それが熱気にしっとりと温められて、ほんのり桃色に染まっていく。


 熱い蒸気と、ほの甘いアロマの香りに包まれて、思わず口から快楽の吐息が漏れて出ました。


 じゅわじゅわと、毛穴が開いていく感覚。

 ポカポカと温かい空気に包まれて、しばらく湧き出した汗が肌を伝う心地良さに浸る。


「ふぅ……でも、何故蒸し風呂なんでしょう……」


 もうひと掬い、像へと香水を振りかけた後、一段低くなっている像の周囲……浴室の縁へと、ぺたりと腰を下ろしながら、呟く。


 フィンランド式サウナに似ていると思いましたが、その起源は確か中央アジアや中東……水があまり豊富ではない地域だった筈です。


 しかし、このコメルスは水に困っている訳ではありません。むしろ雪山から流れてくる雪解けの水により、水源は豊かな地方です。


 そのため入浴は日本のような浴槽や、あるいはシャワーが普通であって、このような蒸し風呂はどちらかというと珍しい……南大陸南部にある乾燥地帯によくある様式のはずなのです。


 ならば、何故……そう、体が温められている間の暇に何となしに考え込んでいると。


「ふふ……それがこのあたりでは珍しく、贅沢だからですわ」

「きゃあっ!?」


 てっきり一人だけだと思ってボーッとしていたところに声を掛けられて、思わずお尻を浮かせるほどに驚いてしまいました。


「あら……申し訳ありません御子姫様、驚かせてしまいましたか」

「い……いえ、私こそボーっとしていて……」


 しどろもどろになって返す私に、彼女……マリアレーゼ様は柄杓を手にし、よろしいですかと声を掛けてくる。


「あ……はい、どうぞ」

「では、失礼して……」


 そう言って、柄杓でひと掬いした香水を、嫋やかな所作で白い女神像へと振り掛ける。途端にぶわっと再度広がる水蒸気と、甘い香り。


 心地良い熱気に蕩けそうになる頭を奮い立たせ、なんとか疑問を口にします。


「……聖女の皆様も、こちらに宿泊していらしたのですね」

「ええ……皆さんはすでにお部屋でお休みですけれど。私は少々やる事があったため、遅くなってしまいました」

「それは……お疲れ様です」

「ありがとうございます。ですがそれで、こうして御子姫様と湯を共にできたのですから、役得ですわね」

「そ、そうですか……?」


 穏やかな笑みをたたえ、烏の濡れ羽色というのが相応しい豊かな黒髪の、清楚な雰囲気の大人の女性……というのが、彼女の印象です。

 綺麗な大人の女性……それもタオル一枚しか纏わぬ裸同士……との差し向かいに対面しているため、私は直視できずに目を逸らさざるを得ませんでした。


「……あら、ふふ。御子姫様は純情でいらっしゃいますのね。そんなところも私、好ましく思いますわ」

「な、慣れていないもので……」


 どうにもやり難い。

 アイレイン教団の人という事でつい裏を疑ってしまうという事もあるが……それ以上に、常に優しい笑みを浮かべているせいか、真意がいまいちよく分からない人だという印象があって苦手なのだ。


「そうそう、こちらの宿で取扱っている香油もおすすめなのですが……お試しになりますか?」

「えっ……と、よろしくお願いします」


 そんなこちらの心情などお構いなく、装飾が施された白磁器の小瓶を掲げ、笑い掛けてくる彼女。

 好意を無碍にするのも憚られ、周囲に漂う熱気と甘い香りに頭がポワポワするのもあいまって、半ば押し切られるように肯く。


 導かれるように手を引かれ、備え付けられたジェルベッドのようなものに座らせられたところで……マリアレーゼ様が、訥々と口を開きました。


「この街は、良くも悪くも経済が尊ばれる街です。故に上流階級の方々は、自身の力……経済力を誇示するため、人とは違うものを欲するのでしょう」


 周囲を睥睨しながら、彼女が呟く。


「ああ、確かに……このような精緻な彫刻のアロマストーンや、広々とした白亜の浴場など、相当な財力が無ければ建造できないのですものね……」


 白石を彫り形作られた内装の豪華さもさることながら……わざわざこのように広い蒸し風呂を作り、暑く湿潤な空気を絶えず循環させるなど、果たしていくら維持費が掛かるのか。


「……こんな贅沢、していていいのかなぁ」


 促されるまま、ほかほかと暖かいジェルベッドに横になりながら、『イリスリーア』として過ごすようになってからずっと心のどこかで引っかかっていたものを、ついポロッと漏らしてしまう。


「あら……贅沢は、お嫌いですか?」

「嫌いというか……慣れてなくて。自分の為に周囲の人にお金を使わせているのが申し訳ないというか……」

「ですが、そうした方々が経済を、人の生活を回しているのも事実ですわ。例えば御子姫様のドレスを仕立てたお金で、しばらくの間食うに困らなくて済む職人や生地の生産者の方々が居るように。あまり忌避するものではありませんわ」

「それは分かるんですが……んっ、やっぱり贅沢は申し訳ないって気分になってしまううんですよ」


 肌に垂れてきた温かくぬめる香油の感触に思わず吐息を漏らしながら、一緒に心情を吐露する。


「ふふ、分かります。私も元は市井の一少女でしかありませんでしたから」

「……そうだったんですか?」

「ええ。たまたま珍しい才に恵まれて、今はこうして良い待遇をいただいてますけれど」


 そう、しみじみといった様子で自らの胸に手を当てて語るマリアレーゼ様。少々意外に思いつつ、その話に耳を傾けます。


「私は、それだけの待遇を受けられるだけの働きはしている……そう自負しておりますわ。ですから普段こそ清貧を尊んではいますが、外に出ている時くらいは楽しむ事にしているんです」


 そう、堂々と語るマリアレーゼ様。

 その姿を……私は、とても格好良いと思えました。


「私は駄目ですね……自分がそのような厚遇を享受できる働きができる自信なんて、まるで無くて」


 泣き言のように、ポツリと呟いた言葉。

 それに対して彼女は、驚いたように数度、目を瞬かせ……


「……ふ、ふふ、御子姫様は随分と、謙虚でいらっしいますね……っ」

「そ、そんなに笑うところですか……っ!?」

「だ、だって、イスアーレスからここまででもご活躍をされたのに、そんな事を言うんですもの」


 どうやらツボに入ってしまったらしく、背を向けて肩を震わせる彼女。しばらくその背中をポカンと眺めていると、ようやく帰ってきました。


「……はぁ、申し訳ありません……コホン。御子姫様は、この世界にあまり大規模な戦争が起きない理由はご存知ですか?」

「それは……人の生活圏が、ごく限られているから……ですか?」

「はい、その通りです……もっとも、これは先生からの受け売りなのですけど」


 そう言って、少し恥ずかしそうに舌を出す彼女。




 ……例えば、この『コメルス』の街は、元いた世界よりも技術水準は高い位置にあります。


 一方で、辺境へ向かえば向かうほど、その技術力は格段に落ちる……技術格差が非常に大きいのです。


 それは……人の生活圏が、各地に点在する『世界の傷』および『禁域』によって千々に分断されているから。


 また、この世界の戦争は乱戦となる前、初めに大規模魔法や大量破壊兵器のぶつかり合いとなるため、被害はどうしても甚大になりがちです。


 そして……そのような戦争を行う場合、問題となって来るのがの輸送。


 ところが、先に述べた理由によって、それがそもそも難しい。


 イスアーレスで見たアクロシティの飛空戦艦や、港に居たノールグラシエの魔導戦闘艦などは、抑止力としての張子の虎でしか無かったのです。


 故に……諜報を主戦場とした小規模の小競り合いこそあれど、この世界の国家間の大規模戦争はまず起こり得ない。


 ……




「要するに、この世界は『傷』への対抗手段を失った瞬間から、緩やかに行き詰まっていたのです。そんな夜に光を見出させた御子姫様は、ただ『居る』だけでもお役に立っているのですよ?」

「……ですが、そのせいでアクロシティの人達は私を狙っている……私が、争いの火種になっているのですよね?」


 そして、それが今、戦争という可能性となって頭をもたげている。

 その事を、港に多数停泊していた軍艦の姿を思い出してしまい、暗澹とした気分に陥りかけ……


「えいっ」

「ひゃん!?」


 ……られなかった。


 マリアレーゼ様の指が、私の弱い部分……背中をシュッと絶妙な力加減で滑らせたため、思わずあられもない声が口から漏れたせいで。


「な……なな、何を……」

「いえ、あまりにも御子姫様が深刻なお顔をされていたので、つい」


 突然の事に私が対応できず目を白黒させていても、彼女はシレッと受け流しながら、何事も無かったとばかりに言葉を続けます。


「随分と、ご見当違いをなされて居るみたいですが……御子姫様が居るから争いが起きるのではないのですわ。そんな輩が現れるくらいに、御子姫様がこの世界の閉塞を打ち破る希望なのです」

「あ……」

「むしろ、王でしょうがアクロシティでしょうが、皆が御子姫様に首を垂れて全面的に協力を乞うべきなのです。それを少々権力を与えられた者共は……よりによって御子姫様にこのような顔をさせるなど……ッ!」

「わ、分かりました、分かりましたから!」


 どうやら静かにキレているらしく、柔らかな笑顔のままドス黒いオーラを放っているマリアレーゼ様を嗜めます。


 ……なんだか宗教の過激派じみた事を言っていて、怖くなったとかでは無いのです、多分。


「あ……あら、申し訳ありません私とした事が。はしたないところをお見せしましたわね」

「いえ、そう言ってもらえてちょっと気分も楽になりました。それに……少し、嬉しかったです」

「ならば良かったですわ。さ、続けましょうか」


 そう言って、マッサージを再開するマリアレーゼ様。

 心地よさに眠気を感じ、夢現な気分で目を細めながら……ポツリと、口を開く。


「ですが……やっぱり、私にはここはあまりに華やかな世界すぎて、よく分かりません……」

「あらあら……一国の姫君にして現人神であらせられるお方のお言葉とは思えませんわね」

「うぅ……だって、少し前までは庶民だったんですもの」

「ふふ、そうでしたわね」


 今度は私の腕にやたらと心地良い感触の香油を擦り込んでくれながら、クスクスと優しい眼差しで笑うマリアレーゼ様。


 そんな彼女の様子に……ここまでの道中でずっと疑問に思っていた事を口に出します。



「あの……何故、皆様は私に良くしてくださるのでしょうか……その、主に恋愛面で」


 てっきり、素性を知られたらその辺りを管理しようとされる可能性も考えていました。

 何か強制されるようであれば、徹底抗戦するつもりだったのですが……良いことではあるのだけれど、些か拍子抜けな感は否めません。


「バレたら、政略結婚や……あるいは御子様の後継者を残す道具にされると思っていらっしゃいました?」

「えっと……その、はい」


 直球な彼女の言葉に、もじもじと指先を弄びながら、肯く。


「無理もありませんわね。私どもも、事情を知らぬ方々からはそういう存在だと思われていますし…… 事実、これがもう何十年か前であれば御子姫様の懸念通りになる可能性も高かったでしょう」


 実際に、私達の嫁ぎ先は貴族や富豪が多いですからねと、苦笑しながら語る彼女。


「ですが……先生、いえ、今の教皇様になってから、そういう政略結婚は少なくなっているのですよ」

「そうなんですか?」

「ええ。あの方は私どもの自由恋愛を認めてくださってます。それに、ただのお飾りの道具ではなく、きちんと学を積んで自立した女性となる事を奨励なさってます」

「へぇ……立派な方なのですね。先生というのは?」

「そのままの意味ですわ。なんでも、今代の教皇様に就任なさる以前は、王都の魔法大学院で考古学と神学の教鞭を取っていた学者様だったらしいの」

「それは……私も、少しご教授願いたいですね」

「ええ、教皇様……いえ、もう先生と呼びましょうか。先生も喜ぶと思いますわよ」


 ニコニコと、嬉しそうに語るマリアレーゼ様。

 その頬は熱気とは違う朱に染まっているように見えて……おや、と思いましたが、黙っている事にしました。


「……こほん、先生の話はさておき。それでも嫁ぎ先が資産のある方が多いのは……まあ、その方が幸せになれそう、だからですわね。余裕がある分、家族に対し穏やかな殿方も多いですし」

「えぇー……?」

「私達は『聖女』の肩書きのおかげで選り取り見取りなんですもの、少しでも好条件の相手を狙うのは当然でしょう?」


 なんて身も蓋もない。


 ニッコリと笑いながら語るマリアレーゼ様の言葉に、がっくりと肩を落とします。


「そりゃ、まあ、私達の住んでいたところに、金持ち喧嘩せずって言葉がありましたけどぉ……」


 懐に余裕のある人は、精神的にも余裕を持てるためというもの。

 加えて、些末ごとで争い敵を作ることは損であるという考えから、裕福な人ほど争いを無駄と感じ避ける、ということらしいその言葉を、ふと思い出す。


「あら、言い得て妙ですわね」

「……聖女様がたって、思っていたより俗っぽいです?」

「あらあら、ふふふ」


 さらりと笑って受け流され、それ以上何も答えてくれないマリアレーゼ様。なんだか深入りするのも怖くなり、それ以上追求しない事にしました。


「そんな訳で……私達がそのような自由を享受させていただいているのに、御子姫様にだけは例外というのはおかしな話でしょう?」

「ですが……」

「大丈夫、私どもは……先生も、きっと同意なさってくださいますわ。安心してくださいませ」


 マッサージするかのように私の背中へと香油を擦り込みながら、安心させるかのように耳元で優しく語りかけてくる彼女。

 すっかり夢見心地となっていた私ですが……次に飛び出した言葉は、そんな私の目を覚まさせるには十分な物でした。


「それに……御子姫様の恋愛模様は、私どもの間で大人気の娯楽ですし」

「……ふぇ!?」

「御子姫様と、それを人知れず守護していた剣士様の身分違いを乗り越えた恋なんて、娯楽とロマンスに飢えた若い子らの格好の獲物ですもの。今、語学が得意な子が文章を、絵画の心得がある子が挿絵を鋭意製作中ですわよ?」

「あ、あああ、あの!」

「あの子達も出版する気満々みたいですから……多分、来月には市場の本屋に出回るのではないかしら?」

「き、聞いてないです……っ!?」



 私の愕然とした叫びは……浴室に、虚しく響き渡るのでした。









 ◇


「……そんな事になってんのかよ」

「……ごめんなさいレイジさん、私には止められませんでした」


 二人並び、はぁぁ……と深々とため息を吐きます。




 ――ここは、宿の最上階、私達が借りているフロアにあるバルコニー。


 すっかり熱に火照った体を冷やしに、夜風に当たろうとふらっと出てきたところ、丁度同じタイミングでレイジさんが現れました。


 そこで、先程の浴室での話をしたところ……二人揃って憂鬱な気分となっていたのでした。




「っても……俺たちのため、なんだよなぁ」

「だから余計に止められないんですよねぇ……」


 困ったものだと、再び二人揃って溜息を吐きます。


 彼女達が出そうとしている、私達を題材とした恋愛小説。それは……多分に趣味の割合が高いでしょうが、その主目的は――おそらく、アクロシティへの牽制。


 私達の関係を面白おかしく親しみやすい形にして、広く市井に広める事で、こちらの正当性を主張するサポートをしてくれる事でしょう。


「……良くしてくれるのは、本当にありがたいんですけどね」

「そんでも俺らをモデルにした恋愛小説が世に出るって、何だそれ地獄かよ……」

「あはは……」


 ガックリとうなだれてしまったレイジさんに、私も渇いた笑いを上げます。




 そのまま、しばらく静かな時間が流れ……やがて、ポツリと口を開く。


「ありませんでしたね、家」

「ああ……流石にハウジングエリアごと無いとはな」


 昼間の、コメルス散策。それは何の成果も上がりませんでした。

 家とは、ゲーム時代に購入できたマイホームの事。自分達も廃人プレイヤーの一角であり、レイジさんとソール兄様、三人で購入したマイホームの一件くらいは所有していました。


 だが……その家が存在した「ハウジングエリア」はそもそも存在せず、ここだと思しき場所にはただ、見覚えの無い歴史を感じさせる市街が広がっていただけでした。


「まあ、何か貴重な素材が残っていれば……というのは流石に都合の良い考えでしたね」

「そうだな……」


 こうして、私達がマイホームに溜め込んでいた素材は露と消えた事が確定したのでした……もっとも、予想はしていたために精神的なダメージはほとんどありませんでしたが。




「さて……それじゃ、そろそろ寝るか。明日は早いんだよな?」

「そうですね……」


 途端に、ソワソワと落ち着きを無くした始めるレイジさん。それを見て、私も心の中で一つ、よし、と気を引き締めます。


「それじゃ……どうぞっ」

「お、おぅ……!」


 ギュッと目を瞑ってやや上を向き、待ち構える私の体を、優しく抱き寄せる感触。

 やがて……軽くついばむように唇に柔らかいものが触れたかと思うと、すぐに離れていきました。


「……やっぱ、恥ずかしいわコレ」

「で、ですね……」


 耳まで真っ赤になって、右手で顔を覆うレイジさんと、同じく真っ赤になって先程触れた唇を両手で覆う私。お互いに相手の顔は見ることが出来ず、顔を逸らします。


 ……何か恋人らしい事もしたい。そう言って始めた「おやすみのキス」は、私達が想像していたよりも遥かに恥ずかしかったのです。


 決して嫌という訳ではなく、むしろふわふわと浮かれている事を自覚するくらいにはとても嬉しいのです。

 しかしこの上なく照れ臭くもあり、嬉しいのと恥ずかしいのがゴチャ混ぜとなって、わーっと叫んで走り出したい気分なのです。


 ですがその一方で……申し訳なさも存在していました。


「……ごめんなさい、今はまだ、これ位しかしてあげられなくて」


 曲がりなりにも、成人男性として過ごした記憶がある私。恋人関係となった今、レイジさんが「もっと先の関係」を望んでいるであろう事くらいは流石に想像がつきます。

 だが……今の情勢を鑑みて、全て解決するまではしないと、二人で話し合いの上で決めたのでした。


 何故ならば……私の母が、魔法を使った事が無かったから。


 もしそんな力があったのならば……私達は、まだ幸せに家族と過ごしていたかもしれないのだから。




 もしこの情勢の中で、何らかの拍子に私が力を使えなくなったら。


 もし万が一、私がそうした行為によって、あるいは子を成した事によって、力を失うのだとしたら。


 事実、子を宿しているために本来の力が使用できなかったイーシュお姉様の件があるために一笑に付す事は不可能で、まさか試す訳にもいかない。




 そんな訳で……恋人関係となった今も清い交際止まりであり、レイジさんには我慢を強いる結果となっているのでした。


 そんな負い目に、気分が沈み込んでいくような感覚に囚われていると。


「……ばーか」

「あたっ!?」


 俯いていたところに頭を小突かれて、驚いて顔を上げる。

 目をぱちくりと瞬かせた先には……真っ赤になったレイジさんが、明後日の方へと視線を逸らしていた。


「言っとくが、俺は現状を不満には思ってねぇよ……今しばらくは、こんなもどかしい恋人関係ってのも、全然悪くねぇと思ってる。童貞なめんな」

「……ふ、ふふ、なんですかそれ」


 ひとしきり笑った後……目に浮かんだ涙を拭い、向き直る。


「それじゃ……今度こそおやすみなさい、レイジさん。また明日」

「ああ……おやすみ、イリス」


 最後、別れ際に再度重なった唇は……とても、優しい感触がしたのでした――……

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