思わぬ助っ人

 ――準々決勝までの日程がつつがなく終わり……今はもう、あちこちから夕餉の香りが漂う時間。


「ねぇアンジェ、戻ろうよ。一人じゃ危ないよ」

「ごめんなさい、少しだけだから。ちょっと風に当たりたい気分なんです」


 大闘技場の中庭……来賓用の、一般の人は入ってこない区画にある中庭に、私……アンジェリカと、ユリウス殿下は居た。




 あの事件のあと、大人しく寝ているようにと言われ、ノールグラシエ王家の方々の厚意により宛てがわれていた部屋。

 私は今、安全なその部屋を抜け出して、ふらりと外に出ていた。


 陽が落ちた後の夜風は涼しく、悩み事をしばらく忘れていられる気がして、噴水側に座りこんでいたら……まさか、ユリウス殿下が探しに来るなんて。


「この前のこと、気にしているの?」

「……ええ、まぁ」


 功を焦り、先走った結果、大勢に迷惑をかける大失態をしてしまった。


 自分が人間でなかったというショックも、もちろんある。いきなり光の羽根が生えた戸惑いや不安は、筆舌に尽くしがたい。


 しかし、それ以上に……


「ごめんなさい……ちょっと、自分の素直になれなさが情けなくて」

「おねえさまのこと?」


 ユリウス殿下のその言葉に頷く。


 元々、あの人は一国のお姫様だと言うのに無礼な口をきいている、という罪悪感はあったのだ。

 ところが今回はそれどころではなく、自分たち教団において信仰対象足りうる尊き存在であると判明した。


 だと言うのに……感情的になり、更なる失礼な発言を重ねてしまったという事が、信心深いと自負している自分としてはありえない事で、今更ながらとても自己嫌悪しているのだった。


「気にしなくていいと思うけどなぁ。おねえさま、むしろアンジェと仲良くなれたって喜んでたよ?」

「あ、そ、そうなの……」

「うん、アンジェに遠慮がなくなって、新しい妹ができたみたいで嬉しいって」


 なら、いいのかな……?

 ゆるゆるな光翼族様に不安を感じつつも、少し楽になる。


「それで……ユリウス殿下は戻らなくていいのですか? 皆心配すると思うのですが……」

「アンジェが戻るなら僕も戻るよ。僕はアンジェのことが心配なんだ」


 ストレートな年下の婚約者の言葉に、しばらくパクパク口を開閉させる。

 顔が熱くなってくるのを自覚しながら、はぁ、と諦める。


「分かった、分かりました、戻ります! ……って、あれ?」


 私がそれに気付いたのは、偶然だった。

 建ち並ぶ塔、その三階あたりの窓から、何か黒い塊が地面に落ちていく。あれは……


「大変、塔から人が落ちた!」

「えぇ!?」

「もし怪我をしていたら、助けないと!」

「待って、一人じゃ危ないよ!」


 二人、慌てて先程人が落下した塔へと向かう。

 どこかの国の宿泊施設である塔、その下には……


 息を飲む。こういった修羅場慣れしていないユリウス殿下にいたっては、顔を真っ青にして口元を押さえている。


 倒れている人は……暗い中でもわかるくらい、濃密な血の匂いを漂わせていた。

 だが……聞こえてくる呻き声が、その人物が生きている事を物語っていた。


「酷い怪我……今治療を……」

「アンジェ、危ない!!」


 その倒れている血塗れの人に治癒魔法を施そうとして、ふらふら近寄ろうとした瞬間、切羽詰まった様子のユリウス殿下に突き飛ばされた。

 そのまま地面に押し倒し、覆い被さるように密着する殿下に混乱しかけるも……すぐに、ギャリギャリという金属が擦れ合う音と、暗闇に散るオレンジ色の火花に、喉元まで悲鳴が上がって来た。


「……おい、ちみっ子ども、大丈夫か!?」


 聞こえてきたのは、前に一度だけ街で聞いた気がする声。


 黒い金属で編まれた鎖帷子の上に、東方風の上衣を着込み、真っ赤なマフラーで口元まで隠した、自分やユリウス殿下より少し背の高い少年の背中。

 手にした短刀から僅かに煙が上がっており、どうやら傍の地面にめり込んでいる段平だんびらの軌道を逸らしてくれたのは彼らしい。


 その出で立ちは、まるで……


「……え、忍者? なんで忍者!?」

「アンジェ、驚くよりまず立たないと!」

「あ、そ、そうね……」


 東方の密偵兼暗殺者なはずの忍者が、自分たちを守っている。

 その事に混乱しかけるも、今はそれどころではないと慌ててユリウス殿下と支え合って立ち上がる。


「だけど、逃げろって言っても……」


 殿下を庇うようにして、周囲に視線を巡らせる。

 地面から水が湧き出すように現れた黒い犬が、周囲を取り囲むように集まっていた。


 周囲を囲まれているため、どうやって逃げたらいいのか……そう思った時。


 ――ガァウッ! という、猛獣のような吠え声と共に飛び込んでくる、ひとつの小さな影。


 周りの黒犬よりもさらに黒い、闇を凝縮したような小さな生き物が、その一角の黒犬の喉元に食らいつき、さらに全身から伸ばした針のようなものでズタズタに引き裂いたのが暗闇の中で辛うじて見えた。


 ボロボロになったその黒犬は……すぐに、闇に同化するように影も残さず消えてしまう。

 残ったのは、自分たちを守るように立ち塞がっている、ふわふわな真っ黒な体毛をした大型犬の子犬みたいな生き物。


「おまえ達は、スノー……えっと、その黒いのについて行って逃げろ!」

「でも、お兄さんは!?」

「俺はあっちに倒れてる人を回収していく、さぁ行け!」


 そう言って、転がりざまに怪我をしていた人を担ぎ、悪魔から離れる忍者のお兄さん。


「……へ? え、あ、こいつ……うわっと!?」


 忍者のお兄さんが、倒れていた人を背負った時に何かに驚き、一瞬反応が遅れギリギリで悪魔の段平をかわした。


「ちょっとあなた、本当に大丈夫なの!?」

「も、問題ない、少し驚いただけだ!」


 たまらず呼びかけた声に、怒鳴り返してくる忍者のお兄さん。


 だが……どうやら悪魔の狙いはその倒れていた人らしく、忍者のお兄さんは人一人担いで攻撃を避けるのに精一杯らしい。


 自分たちは、こと戦闘においては邪魔にしかならない。

 後ろ髪引かれる想いをしながらも……黒い生き物の先導の元、殿下の手を握ってこの場を離脱するのだった。





 ◇


 小さな背中が二つ、闇の向こうへと消えていった事に安堵する。大柄な悪魔が振り回している巨大な段平に巻き込まれでもしたら、目も当てられない。


 ちみっ子が二人、抜け出して外出していたのは領主様たちは初めから承知しており、俺は護衛を頼まれて姿を隠して付き従っていたのだが……


「……ったく、こうも見事に厄介ごとに巻き込まれるなんて、イリス姉ちゃんみたいにトラブルを惹きつける特殊能力でもあるのかね、ノールグラシエの王家ってのは!」


 心配なのは黒犬が何匹か追っていった事だが……ここまでに何匹か撃退した感触からすれば、大した強さではない。そちらもスノーであればうまく対処してくれるだろう。


「あとはこっちが逃げ切れればいいんだけどな……っ」


 明らかにこちらに狙いを絞っている悪魔が、振り切れずにいた。


 幸いにして、悪魔の動きはさほどではない。だが、離脱しようとしてもおそらくは影を渡り、回り込まれてしまうのだ。


 舌打ちしながら、逃げ回りながらその巨体に巻きつけていた紐のその端に、小手の指に仕込んだ火打ち石を打ち鳴らし、着火する。

 シュボ、っと暗闇の中オレンジ色の火線が走り、立て続けに爆発音が鳴り響く。


 ――爆導索。特殊な調合を施した爆薬を染み込ませた芯に油を染み込ませた糸を巻きつけ、火の回りをよくした導火線に、多数の爆雷符を括り付けたものだ。


 威力もさることながら、至近距離で炸裂する火炎と煙は目くらましにもなる。

 よし、と駆け出そうとしたところで……


「……うわ!?」


 まるで意に介さずこちらに向き直った悪魔の段平が、進路を塞ぐように振り下ろされる。

 見れば……あちこち焼け焦げてはいるが、大したダメージは与えられていなかった。


 振り切れなかった。

 そう判断し、再度飛び退る。


 じわりと、焦りが胸の中に広がっていく。何故ならば……


 ――マズいな、この人、かなり危ない。


 あっという間に背中を濡らしていく、滑る液体……血液。

 そのおびただしい出血は、明らかに危険な様相を呈していた。


 耳元で聞こえてくる、喘ぐような浅く早い呼吸は、たしか出血性ショックの重篤な段階じゃなかったか、と領主様につけてもらった講義の中、応急手当ての内容から記憶を引っ張り出す。


 急いでさっきの聖女の女の子に合流し、診てもらわなければならない。

 だというのに、この悪魔はどうしてもこの人を逃すつもりは無いらしい。


 ――人を背負ってさえいなければ、取れる手はあるってのに……っ!


 胸中で毒づく。

 かといって、放り出すのは男として絶対に無理だ。

 そう、こんな状況下ではあるが背中に感じるの感触に、状況も弁えずドギマギとしながらも覚悟を決める。


「本当、俺ってこんな役回りばっかりだよな……っ!」


 逃げ足が信条な忍者だというのに、誰かを守って逃げられない状況での正面からガチンコ勝負が多すぎる。


 そんな愚痴を吐き出して、一気に離脱しようと脚に力を込めた――その時だった。


「……ッ!?」


 全身の鳥肌が一気に立つような、絶望感に似た圧力。


 上空から悠然と降りてきた、ひとつの人影。その影は、対峙している悪魔の向こう側に降り立った。


 バサリと、その背から広がる黒いボロボロな三枚羽。

 そして……この場に立っているだけで、空気が震えている気がする圧倒的な魔力。


 気を失っているはずの背負った人物が、まるで怯えるようにひとつ大きく震えたのを背中で感じる。


 ――こいつが、姉ちゃん達が遭遇したっていう『死の蛇』。よりにもよってこんな時に。



「……フン」


 つまらなそうにこちらを一瞥し、鼻で嗤う声。

 その手に、見ているだけで震えが止まらないほどの禍々しい力が集中していた。


 ――まずい、これ、死ぬ。


 そう覚悟し、たまらずグッと目を瞑る。






 ……


 …………


 ……………………




「……あ?」


 一向に攻撃は飛んでこない。

 もしかして、痛みすらなく、気付く間も無く死んでしまったのだろうか。

 そんな考えに、おそるおそる目を開く。そこには……


「何をしている小僧、その女を治療するんだろ、さっさと行くぞ」

「……え、あ、ああ」


 先程の男……『死の蛇』が、こちらの様子など興味なさそうに吐き捨てる。


 ――まさか、こいつに助けられた?


 いや、そんなまさか……そうは思うも、眼前の男からはもう敵意が感じられない。


「それと、あの童共々闘技場に戻るのはやめておけ。それ以外でどこか匿える場所に心当たりがあれば、案内しろ」


 こちらの返事など聞く耳持たず、さっさとこちらに背を向けて、先程の子供達の逃げた方向へと歩き出してしまう男。そこからは、先程の威圧感は微塵も感じなくなっていた。


 そして……


「なんだ、こりゃ」


 先程の悪魔は、まるで空間ごとえぐり取られたように円形に削り取られて肩から上と両脚だけ残し、転がっていた。


「助かった……のか?」


 なぜ男が助けてくれたのかは、全く分からない。

 不信感も、当然だが、ある。

 だが……今はそれよりも助けなければならない人が背中にいる。そう思い直して、慌てて駆け出すのだった。

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