あの人の影を追って
――何という事をしてしまっているのだろう、私は。
貴賓席を飛び出し、脚に絡まるスカートに四苦八苦し走りながらも、後悔が湧き上がってくる。
突然飛び出してきたせいで背後ではちょっとした騒ぎとなっており、出遅れた護衛の方々は、まだ混乱の中で出足が遅れているみたいでした。
レオンハルト様が、所用で席を外している陛下に付いて行ってしまっていなければ、あっさり捕まって今頃はもうお説教が始まっていたんでしょうけれども。
――だけど、たとえ正気の沙汰では無いと言われても、私はあの人と話さなければならない。そんな衝動に突き動かされ、必死に脚を動かす。
そんな中、違和感を感じ周囲を見回す。
……人が、居ない?
確かにこのあたりは一般の観客席の裏側であり、特に三階にあるここは迷い込みでもしない限り一般の人が使う通路ではないけれど、それにしても一階庭園にすら居ないというのはあまりにも人が居なさすぎる。
……違う。周囲に満ちるあの人……『死の蛇』の気配に当てられて、本能的に、無意識にこちらへ来るのを拒んでいるため入ってこない、いえ、もっと強く……近寄ってこられないんだ。
そんな事を考えながら走っていると、吹き抜けとなっているホールの闘技場裏の中庭から、通路の影に消えて行く、あの人の後ろ姿、その黒い外套。
「待っ……て……っ!」
気が付いたら、三階にあるこの廊下から、吹き抜けへと体を躍らせていた。
二十メートル以上の自由落下に、ひゅっと下腹が浮き上がる様な浮遊感。
それを、一瞬だけ発現させた翼で落下速度を落とし、中庭へと着地する。
(見られてない……ですよね)
周囲に誰も居ないことは、例の脳内に現れる生体反応で確認済みでした。皮肉ですが、彼の人を寄せ付けない気配に感謝する。
脚が疲労でもつれそうになるのを堪え、あの人が消えた出口へと飛び込んで、その姿を探す。
「……はっ……はっ…………そんな……」
すっかり上がってしまった息を切らせながら、呆然と呟く。
……居ない。
確かにこちらに来たはずなのに、視線の先には真っ暗な廊下が続くだけで、その姿は影も形も存在しませんでした。
呆然としていると、ざわざわとした声が、遠くの方から聞こえてきました。どうやら、あの人の気配で離れていた人が、戻って来たらしい。
「あ……戻らないと……」
我に返り、自分がどれだけ危うい事をしたかをようやく思い出す。
急がないと……そう、踵を返した時。
「――きゃっ!?」
「おっと……あれ、姫様?」
振り返った瞬間、ドンっ、と誰かにぶつかる。
衝撃で倒れそうになったところを、誰かに支えられ転倒を免れました。
呆然としている間に、周囲確認を怠っていたのに今更ながら気がつきます。
「何、何? 本当に姫様じゃん。なんでこんなとこに居んの?」
「うわ、ドレスすげぇ。汚していないよな、大丈夫?」
気がつくと、三人連れの男の人達に囲まれて、廊下の壁を背に囲まれてしまっていました。
発言からすると、どうやら元プレイヤー……それも、帯剣しているという事は大会の参加者なのでしょう。
「あ、もしかして上で観てるのが暇になってこっちに来たの?」
「い、いえ……すぐ戻らないと……」
「いーじゃんいーじゃん。せっかくだから、俺たちと一緒に観戦しようよ」
彼らの一人が、私の白手袋に包まれた腕を取り、引っ張り始める。
――そうだ、今はゲームの頃のハラスメント警告という絶対の盾は無いのだ。
途端に恐怖心が湧き上がって来るけれど、それ以上に、彼らのその気安い様子に血の気が引く思いがした。
「ダメ、です、戻らないと……本当に!」
この人たちは悪意で言っているのではなく、むしろ気遣ってくれているのは分かります。ただ、彼らはゲームの延長の感覚で居る。
彼らにしてみれば、同郷の、同じゲームプレイヤーの中の有名人でしかないのだ、私は。
だから、今の状況がどれだけ危ういかを分かっていないのだと思い至り、頭から血の気が引いていく。
――私が、大国である
そういう存在として、この世界の歴史に刻まれているその意味を知らず、ゲームのプレイヤーとしての『姫様』の延長として接している、この意味に思い至り、ぞっと悪寒が走る。
――流石に、お祭りの場であるこの場で、いきなり無礼打ちとはならないでしょう。
ですが……誘拐、あるいは誘拐未遂であっても、まず間違いなく厳罰に処される……と。
だけど、浮かれている彼らに、言葉が届いていない。どうにかしないとと考えているうちに、力負けして引き摺られ始めていた。
「……そこまでにしておくが良いぞ」
奥、私がさっき来た中庭の方から聞こえてくる声。
入ってきたのは、金色のツンツン頭の……
「……な、お前は……っ」
「イリス嬢は、お主らが心配でやめろと言ってくれているのだぞ。この現場、兵に見咎められでもしたらどうなると思う?」
乱入してきた彼……斉天さんのその指摘の言葉に、ようやく冷静になった彼らが、今の状況が誘拐と捉えられかねないと気がついたらしい。
「……い、行くぞ」
「あ、あぁ……」
渋々、といった様子で立ち去っていく元プレイヤーの人達。その様子に、ほっと息を吐きます。
「……どうもありがとうございました、斉天さん」
「いや……うむ、たまたま声が聞こえてな」
助けてくれた彼の正面に立って頭を下げ、礼を述べると、途端にしどろもどろになる彼。
レイジさんが言うには照れ屋なのだと言う、その様子にちょっと癒されて、フッと強張っていた表情が緩む。
「いえ……これでもし、あの方々が捕まっていたらと思うと……本当に、助かりました」
「ぅ、その……間に合って、良かった……な」
「ええ、おかげさまで」
しどろもどろになって、それでも気遣ってくれる彼に、笑いかける。
「ですが今回は、姫様も悪いと……その、俺も思う……ます」
「ええ……重々承知しています……」
それでも、会って話がしたかったのだ。
例え、誰もが正気の沙汰ではないと言っても、私にとってあの人は、もう一人の……だから。
「さて……その、送り届けたいところなのだが、生憎と我もそろそろ……」
「あ……ごめんなさい、私の事はお気になさらずに、早く会場に向かってください」
斉天さんは、まだ自分の出番を迎えていません。この後試合があるので、いつまでもこのような場所にいるわけには行きません。
とはいえ彼が居なくなれば、私もまた一人になってしまいますが……おそらく、上階から飛び降りてショートカットしてしまったせいで、兵の皆も、見つけるのが遅れてしまっているのでしょう。
今は幸いと言っていいのか、これ以上無いくらいに目立つ格好ですので、中庭に座っていれば気付いてもらえると思いますが……
「そ、そうは言ってもだな……」
困ったように頭を掻く彼に、何と言ったら良いか考えていると……
「……ひゃっ!?」
私の胸に、白い毛球が飛び込んで来た。
その毛球が私の胸にスリスリと身を擦り付けてくるこそばゆさに身悶えしていると、直後、上から小さな影が飛び降りてくる。
「あ、居た居た、ねーちゃん!」
「……ハヤト君?」
となると、腕の中の毛玉はやはりスノーらしい。その背中と思しきあたりを撫でてあげると、そのふわふわの身体を摺り寄せてきます。
ほっと息を吐く。私の護衛も兼ねた小姓としてローランドのお城で働いていた彼ならば、兵の皆とも面識と信頼があり、とやかく言われるような事は無いはずです。
「急に居なくなったって兵士のにいちゃんが言ってたから、スノーに匂いを追って貰ったんだ。まったく、何やってんだよ」
「ご、ごめんなさい」
こちらを覗き込むように叱ってくるハヤト君に、しゅんと小さくなる。全面的に私が悪いので、何も言えません。
――実は彼、観客席側からこちらを護衛する指示をレオンハルト様から受けている、立派な護衛なのだということを昨夜始めて聞きました。
当然、とっくに彼の耳に話は届いているわけで……もうこの時点で気は重いのですが、大勢の騎士さん兵士さん達に迷惑を掛けたのですから、何でも受け入れるしかないでしょう。
「ふ、どうやら迎えが来たようであるな。であれば、我はこれにて」
「あ、斉天さんも、どうもありがとうございました。試合のほう、頑張ってください」
「……礼には及ばぬのである……我は、望みのためならば道理も捨てる、破廉恥な男であるからな」
「……斉天さん?」
「……なんでもないのである。その、姫様も……気を付けるがいい」
そう言って、どこか陰のある表情で走り去っていく彼は、これ以上何も声を掛ける暇もなく闘技場の入り口へと消えて行ってしまいました。
「ほら、早く戻るぞ?」
「……ええ、ごめんなさい」
そんな彼に後ろ髪引かれつつも、先導してくれるらしいハヤト君に急かされて、また何も起きないうちに元の貴賓席へと戻るのでした。
◇
「あーあ、せっかく姫様とお近づきになるチャンスだったのになぁ」
「……ドレス姿、可愛かったな。それに近くに居るとすごくいい匂いがした」
ポーっと浮かれ調子でそんな事を話す仲間達の声を、上の空で聴きながら歩いていた。
いつか、あんな可愛い子と仲良くなって……そんな妄想に耽った事も、勿論何度かある。
そんな憧れの存在が間近、目と鼻の先に居た事に浮かれていたが、すぐに先程、電光掲示板らしきものに映った少女の姿を思い出す。
憎き『
――そうだ、紅玉髄の騎士だ。
何だよあれ……とその試合を見て思った。同じ元プレイヤーでありながら、自分達とはまるで別次元の強さだった。
生活のため闘技場に登録し、そこそこ勝っていた。こちらの世界では、自分は結構強い部類だと思っていたし、このアバターは現実の自分と比べずっとイケメンなためちょっとモテたりもした。
こっちに骨を埋めるのも、悪くないなと思い始めていたりしていた。少なくとも、向こうで冴えないオタクとして一生を終えるよりは。
そこに、冷水をぶっ掛けられた気分だ。
あの紅玉髄の騎士と自分を比較すると、まるで物語の主人公と、その他大勢の脇役ではないかと、今では暗澹たる思いがする。
「お前、そろそろ試合だよな?」
そんな声が掛けられて、ハッと我に返る。
「あ、ああ、うん……」
「そんじゃ、俺らは観客席で応援してっから、頑張れよ!」
そう言って別の道を行く仲間達と別れて、重い足取りで控え室へと向かう。
「はぁ……俺にも、あの紅玉髄の騎士みたいな力が有ればなぁ……」
そんな事を呟いた、その時。
「――力が、欲しいか?」
「……は?」
いつのまにか、通路の壁に寄りかかって佇んでいたフード姿の怪しい人影。
「あ、ああ、欲しい。けど、何だあんた……」
「ならば、くれてやる。ただし……」
男の手が伸びてくる。フードの下から、蛇のような金色の瞳が見えた。この時になって、ぞわりとした感覚が全身を走る。
嫌だ、怖い。
しかし、体は金縛りに遭ったみたいにまるで動かない。
「この大会の間……その体、貸してもらうぞ」
そんな男の呟きを最後に……意識が、ぷっつりと途切れた。
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