女性になるということ



 あの後、次々と挨拶に来る他国の来賓の方々と顔合わせして……ようやく夕方近くになって解放された頃には、笑顔の表情が顔に張り付いたようになってしまっていました。


 食欲が残っている訳もなく、そのまま軽めの夕食を済ませて向かった浴室で、私は共に来たもう一人の女性と、湯浴みの支度をしているのでしたが……




「お疲れ様、イリスちゃん。初めての社交の場は大変だったでしょう?」

「本当に……疲れました……」

「わかります、わかります。わたくしも、本当に苦手で……」


 共に同行してきた彼女……イーシュクオル皇妃殿下は、自分の側付きの女性に衣服を脱ぐのを手伝ってもらいながら、同じ苦労を分かち合える人が出来たとばかりにうんうんと頷いていました。


「ですが、イーシュお姉様とフェリクス皇帝陛下が付きっ切りで側に居てくれたから、あのくらいで済んだのですよね? ありがとうございました、お姉様」

「それは……その、こんな私でも社交の場では先輩ですし、お姉様ですから……ね」


 あの茶会にて、国力の関係上最も発言力を有していたのがフェリクス皇帝陛下、次点がアルフガルド陛下です。

 そのうち皇帝陛下夫妻が私達の側に居て目を光らせていてくれたため、変に絡まれたりはせずに初顔合わせが穏便に進んだのは間違いないでしょう。

 笑顔で礼を述べると、真っ赤になってしまったお姉様。やっぱりこの方は可愛いなと、私もレニィさんに衣服を脱がされながら、暇な間なんとなしに思います。




 ……何故、フランヴェルジェに嫁いだ彼女が私達ノールグラシエの来賓スペースの浴場に居るかというと。


 久々に会った姉と一緒に居たいというユリウス殿下たっての希望により、今夜一晩こちらに泊まっていくとの事で……一種の里帰りのようなものでした。

 この後、姉弟二人で一緒に眠るのだとユリウス殿下は大喜びでしたが、流石に入浴は共にできないという事で……そちらは、イーシュお姉様の希望により私にお鉢が回ってきたのでした。


 なのですが……



「あんまりまじまじと見られると……その、恥ずかしいわ」

「あ……ごめんなさい、つい」


 無意識に一点を凝視していた事に、言われてようやく気が付いて、慌てて目を逸らします。


 既に女官の方に服を脱がされ、清楚な白いレースの下着姿のイーシュお姉様。

 その肢体は、女性の体型に黄金比を出した場合こうなるのではと思えるほど均整の取れた、とてもお綺麗でスレンダーな玉体でした。


 ただ一点……服の上からは分からない程度ではありましたが、お腹が、僅かにポッコリと膨らんでいた事を除いて。






 お互い、洗い場でお付きの方の手によって化粧を落とし身を清めてもらい終えて、やや温めの浴槽に半身を浸し、ほぅ、と一息ついて。


「その、イーシュお姉様は……妊娠なされておいでだったのですね。ご懐妊おめでとうございます」

「ええ、ありがとうございます。今、大体一つ季節が巡った頃らしいですわ」


 顔を赤く染め、モジモジと答えたお姉様。

 大体……妊娠三から四ヶ月らしいとの事でした。


「それで、先程はお酒も治癒魔法も拒否されたのですね……」

「ええ、ごめんなさいね。治癒魔法は……」

「分かっています。初期の胎児には、悪影響が出る可能性があると言われているのですよね?」


 妊娠後半、安定期に入り完全に胎盤が形成された後は大丈夫なのらしいのですが……それ以前では、治癒過程で急速に細胞分裂を促進する治癒魔法はどのような悪影響が出るか定かではなく、厳禁なのだ、と。


 ……今思えば、あのお茶会の時点で気がつくべきでした。お姉様は、腰の締め付けが緩く、体型が出にくいドレスを纏っていたのですから。


「本当は、国に残るべきだったのでしょうけれど……貴方達が戻って来たと聞いて、どうしても会いたかったものですから」

「イーシュお姉様……」

「ですので今回ばかりはとわがままを言ってこちらに来たのですけれど、帰国したら正式に懐妊が公表されて、出産に向けた静養に入る事になっているの。なのでこれは、最後の自由な時間ね」


 そう言って、私の頭を撫でるお姉様。その表情は少しだけ寂しげでした。


「前は会えませんでしたけど……本当に、よく無事で。こうして会えて嬉しいわ」


 そう、ふっと微笑んでくる彼女に、気恥ずかしさから目を逸らし、指を弄びます。

 初対面がアレでしたが……この方、こうして落ち着いて会話をしていると本当にお綺麗な方なので、物凄く緊張するのです。


「それで……この事は、アルフガルド陛下達には?」

「大丈夫、先程、夕食後に報告してきましたわ。きっと今頃は夫婦二人、水入らずで祝杯をあげているのではないかしら?」

「あー……お二人にとっては初孫ですものね」

「ええ、そうね。でもそうなると、ユリウスは七歳でもう叔父さんになるのかしら」


 そう、クスクスと笑っているお姉様。

 その様子に、ふと膨れ上がっていく疑問。


「……お姉様は今、幸せですか?」

「……そうね」


 私の口をついて出たその質問に、少し考え込むお姉様。そのままゆっくりと十数えるか位の沈黙の後、口を開きました。


「……怖いかと聞かれたら、怖いですわね」

「……そうなのですか? 皇帝陛下とあれほどに仲睦まじかったので、少し意外です」

「ご、ごめんなさい、昼間はお恥ずかしい所をお見せして……ですが、私もやはり怖いですわ。こんな私がきちんと母親になって、次代の国を担う子供を育てられるかという先の不安、それに……」


 ふぅ、と憂いを帯びた溜息を吐いて、膨らみかけのお腹を摩るお姉様。


「この、お腹の中の命を、ちゃんとこの世に送り出してあげられるのか、という不安。私の些細な失敗で、この子の命は消えてしまうのだと思うと……どうしても、怖くなってしまいますわ」


 そう言って、お腹に触れているお姉様。

 あなたも触ってみる? というように微笑みかけられたので、頷き、おそるおそる壊れ物を扱うように触れます。


 ……まだ、そこに子供がいるという事は触れても分かりません。ですがその膨らみは、確かに中に新しい命がある事を物語っているのです。


「……それでも、イーシュお姉様は逃げずに産むと決めたのですよね」

「ええ、そうですわね」

「それは……私達、王族女性の、義務なのだからですか……?」


 どれだけ敬われていても、最終的には王族女性の最大の役目というのは……国益の為に嫁ぎ、その先で血統を後世に残す事です。

 その点、嫁ぎ先が想い人であったイーシュお姉様は、とても幸運だったと言えます。


 私も、今はまだそういう話はありませんが……今のまま『イリスリーア』として国に属する限り、そう遠くない未来、もう数年もすれば彼女と同じように、誰かに嫁いで子を儲けることを求められるのでしょう。


 そして……これは自惚れなどではなく、客観的な視点で見てですが……容姿、家柄、そして……種族。あらゆる観点から見て、私には嫁ぎ先が無くてあぶれるという事は、まずありえないでしょう。

 事実、今日挨拶した各国要人の方々から向けられる視線には粘つくようにまとわりつく、欲望混じりの視線も多かったのですから。


 ……もっとも、それで少し気分を悪くして休んでいた私に、人類間の情勢が安定している今のこの世界ではあまり政略的な結婚は重視されていないから安心しなさいと、アルフガルド叔父様は言ってくれましたけれども。




 それでも、嫁ぎ、子を産むことは当然求められます。だから、怖くても逃げてはならない事なのかと思っての言葉でした。しかし。


「……いいえ、それは違いますわ」


 ぽん、と頭に手が載せられ、濡れた髪を指で優しく梳かれる感触。


「私は、決して義務だからとは思っていないわ。あの人ね……私が子供が出来たみたいって言った時、泣き出してしまったの。それはもう号泣でしたわ。ありがとう、ありがとうって何度も言いながら」

「それは……ごめんなさい、ちょっと想像できません」

「でしょう? ですから、私も驚いてしまって」


 そう、当時を思い出したのか、表情を緩め遠くを見ているお姉様。


「だけど、あの時にもう心は決まっていたのでしょうね。私は……必ず、この子を産んでみせると。だって、こんなにも、愛する人に望まれて宿った命なんですもの」


 そう、膨らんだお腹をさすりながら語るお姉様の顔は完全に母親の慈愛に満ちたもので……彼女は、本当に愛し愛されてこれから母親になるのだと、眩しく思ってしまうのでした。




「……大丈夫?」

「……え?」

「顔色が悪いわ、どこか具合でも悪い?」

「い、いえ! 少し考え事をしてしまっていただけで!」


 なんとなしに、自分の下腹部に触れる。

 すっかりこの身体にも慣れて、気にならなくなっていたはずなのに……今はこの手の下、薄くも柔らかな脂肪の下にある、そのほんの数ヶ月前までは無かった筈の臓器の存在を、酷く意識してしまっていました。




 ――ここに、新しい命を宿せるのですよね……私も。




 今まで、理解はしても実感は無かったその事実。それを突きつけられたようで、今更ながら震えが来る。




 ――本来、イーシュお姉様は、のです。


 七年間の空白の時間。その間に、二つ年下だったはずの彼女は私を追い抜いて、五つ年上となっていました。


 それ以前に、彼女は「柳」だった頃の自分より……それどころか、綾芽よりも年下の少女なのです。




 そんな彼女が、こうして母親になろうとしている。

 それは……欲に滾る悪漢に襲われても、少女になったのだと自認しても、生理が来ても、どこか漠然としていてずっと先の話だと思っていた『子を成す』という事を、何よりも明確に、現実感のある物へと変えてしまったのでした。











 ――その日の夜。


 皆が寝静まっても目が冴えてしまい眠れそうになかった私は、たまたま巡回中だったらしいレイジさんを捕まえて頼み込み、人気の無くなった談話室に来ていました。

 兄様はなぜか自室にいらっしゃらず、事情を一通り知っているレニィさんが、万に一つも間違いが無いか、隣室で監視も兼ねて休息を取っています。申し訳ない気持ちで一杯になりながら、ソファの上で体育座りしていると。


「で、今日はいつもの悪夢って訳じゃないんだよな。一体どうした」

「……ごめんなさい、色々と考えてしまって眠れなくて」

「色々?」


 テーブルにグラスやドリンク類を並べ、夜更かしの支度をしているレイジさんをぼんやり眺めながら……なんとなく、呟く。


「レイジさんは……子供、欲しいですか?」

「……ぶっ!? な、な、な……っ!!?」



 グラスを取り落としそうになったのを慌ててキャッチし、こちらを見て口をパクパク開閉させているレイジさんに首を傾げ……すぐに、今の発言が不味かったのだと思い至りました。


 これではまるで……私がレイジさんとの子供を欲しがって誘っているみたいじゃないですか……っ!


「ち……違うんです、そういう事ではなくて!」


 思わずレイジさんの服の胸のあたりを両手で掴んで、揺さぶりながら訴えかけます。


「あ、危ね!? グラス落とす、落とすから揺さぶるな!」

「そ、そんなふしだらな事を考えていた訳ではなくて! 意見、意見を聞きたかっただけで……!!」

「わ、わかった、分かったから落ち着け、な!?」


 パニックに陥った私が落ち着くまでしばらく時間がかかり……ようやく落ち着いた時、視界の端で何事かと様子を伺いに来ていたレニィさんがやれやれといった表情で扉を閉めるのを、真っ赤になって見送るのでした。




 結局……絶対に口外しないと約束をし、先程のお風呂での会話について話をして、ようやく誤解が解けました。


「なるほどな……あの人のお腹の中に子供が……そうか、それで意識しちまったのか」

「はい……急に、子供を作れてしまう身体なんだって実感が湧いてきて、怖くなってしまって」


 出産において、女性側の負担というのは男性とは比べ物にならないほどに大きい。それは万人が認める当然の事実です。

 そして、それは出産を終えるまでは勿論、出産後も様々な後遺症を残すことがあると聞きますし……最悪、死に至る事もあります。


 そういった恐怖も勿論ありますが……それ以上に、私には自分が母親になるという事が分からないのです。


 それは、まだ幼い時分に両親を亡くした事もありますし……ほんの数ヶ月前まで、母親になるなんて夢にも思ってもみなかったせいでもあります。


 私は……どうしても、良い母親になれるというビジョンが全く湧かないのです。


「……まぁ普通、男から女になって子供を産めるようになるとか、ありえねぇ筈だったからな」


 そのレイジさんの言葉に、頷く。




 ……実際は、そうした可能性は研究中ではありましたが存在しました。


 地球の、私達が暮らしていた時代では、十数年前からの技術革新によって、それまで不可能……精々が、早産の胎児を生命活動が行えるようになるまで保護するのが精一杯……と言われていた人工子宮の分野で、万能細胞による体外受精の臨床試験が始まっていました。

 それにより、これまでは子を諦めざるを得なかったような人――不妊の人や、性別適合手術を受けた人の中から選ばれた希望者を対象とした試験が間近になっていたのでした。


 しかし、それはあくまでも元々子供を欲しがっていた人のための代理出産を目的としたもの。

 私の場合、自分の意思とは無関係に、自分のお腹、自分の卵子で子を宿すことが可能な普通の女性となってしまっているため、それとはまた別の話です。




 だから……私にはそこまで考えて女性として生きる覚悟が無かったのだと、思い知らされてしまったが故の恐怖でした。


「だけど、イーシュお姉様は『愛する人に望まれた子だから頑張れる』と言っていました。なので、男性側の意見を聞いてみたかったんだと思います……私は、そういった情動はありませんでしたから」

「あー、そういやそうだったな、柳の時は……」


 気まずそうに言うレイジさんに、頷きます。当時は、そういった事は自分にはもう不可能だと諦めていたのですから。


「子供……子供かぁ……ちょっと待ってくれ、俺だって全く考えた事無かったんだ、考えを纏めるから」


 レイジさんが悩みこんでしまったため、それを待つ間少し喉を潤そうと、手近にあったビン……黄金色の、しゅわしゅわと発泡している液体が入っているそれをグラスに注ぎ、口を付けます。


「……?」


 首を傾げる。口内に広がったのは、炭酸飲料みたいな発泡をする林檎の味の液体。

 だけど、何か別の……苦味?

 口内に広がっていく匂いも、何か違う物が混ざっているような……?


 何だろうと首を捻りますが、味は美味しかったので、一息に飲み干します。


 そんな風に時間を潰していると……バリバリと頭を掻き毟り、あー、とかうー、とかしばらく葛藤を見せていたレイジさんが、やがて真剣な表情でこちらに向き直る。


「……っし。返事は纏まった。いいか?」

「は、はい!」


 その怖いくらい真剣な表情に、慌ててもう一杯注いで半分ほど空にしたグラスをテーブルに置き、背筋を伸ばし目を見て話を聞く体勢を作ります。


「……まずは、悪い。お前が悩んでいるのを見ると、男の欲望ってのは本当に自分勝手なんだなって思うんだが、それを承知で言うのなら……」


 そこで、一度言葉を切るレイジさん。

 大丈夫、続けてと目線で促すと、彼は何度か躊躇ったのち、意を決したように口を開きました。


「……やっぱり、いつかは子供も欲しい。好きな娘が自分の子供を産むのを承諾してくれたら、男としては何よりも嬉しいに決まってる。俺も……男だからな。」

「……そうですよね」

「だけどそれは……今のイリスみたいに、そうやって悩んで、それでもなお受け入れてくれると言ってくれたから、大切にしたいと思うし尊いんだと思うんだ……と、俺は思う。焦っても、ロクな事にならないんじゃないか?」


 ……そういえば、以前……最初の人里を離れる際に、ミランダおばさまからも似たような事を言われた気がします。


 人に同じ事を言われてようやく思い出すなんて、私は進歩してないなぁと、不意におかしく思え、思わず脱力してしまいました。


「……なら、今のまま、中途半端なままで良いのでしょうか?」

「ああ、良いんじゃないか、別に。覚悟なんて、そういう『この人の子供なら良い』と思える相手が出来た時に自然と決まるもんだろ……その、多分」

「そうですね……そうだと良いですね……」


 私に、あの時のイーシュお姉様のような慈愛の表情が出来るほど、誰かを愛する事ができるかどうかはまだ分かりませんし、自信もありません。

 ですが、まだ焦って結論を出す必要は無いと言ってもらえただけで、どこか安堵したような気がするのでした。




 ――そう、ほっとしたのも束の間。


 落ち着いた所で、不意に胸に引っかかるものがありました。


「……レイジさんは、そのような……将来、できれば自分の子供を産んでほしいと思っている女性が居るのですか?」

「……………それは、まあ……居る」


 長い沈黙の後、こちらから百八十度目を逸らしたまま、絞り出すかのような小さなレイジさんの返事。

 その返事を聞き、何故か強く思ってしまいました……嫌だな、と。


 そんな醜い感情が湧いて来た事に驚いて、慌てて先程置いたグラスを取り、残っていた黄金色の中身を飲み干す。




 ――何故、嫌だと思ってしまったのでしょう?




 レイジさんは、実はローランドのお城の女中さん達に、とても人気があります。

 兄様と一緒に練兵場で稽古していた時などは非番の見物人が大勢居て、そんな彼女達から黄色い声を上げられていたのも遠巻きながら見ていました。

 私が知らないだけで、そういった仲に進展している女性の一人くらい居ても、不思議では……


「……っ」


 再度湧き上がる黒い感情。考えれば考えるほど、思考がまとまらなくなっていく。


 だからなのでしょうか。レイジさんの肩に頭を預けるという、普段は絶対に自分からはしないような事をしたのは。


「……イリス? どうした?」

「…………では、駄目ですか?」


 おかしい。


 先程から、妙に身体が火照っている。

 視界がぼやけて、よく見えない。

 訳もなく、涙が滲んで震えが止まらない。

 頭がふわふわして、思考が定まらない。


 ……今、自分が何を言っているのかがよく分からない。


 ただ、横にあるレイジさんの身体に体重を預けながら、まるで自分の物ではなくなったかのような口を動かしているだけ。


「その、将来子供を儲けたい相手……私では……駄目ですか……?」

「い……いや、待て! お前、自分が何言ってるのか自分の胸に手を当てて冷静に考えろ!?」


 そう言われ、ふと自分の胸に手を当てて……


「……その、ごめんなさい。レイジさんのベッド下にあった本に載っている女の人とは全然違って、胸も小さな幼い体型ですから、好みじゃないとは思うんですが……」

「違うそうじゃない。というか聞き捨てならない事聞いたんだがちょっと待って? 頼むから!」

「……でも! もう数年もすれば、少しは成長すると思うんです! ……駄目、ですか?」

「い、いや、駄目も何も、そもそも俺は……って違ぇ! とりあえず一回離れてくれ!!」


 ひどく慌てたレイジさんに、接していた身体が引き剥がされましたが……


「……きゃっ!?」

「うわ、危な……っ!?」


 二人で被っていた毛布が絡まって、もんどりうってソファへと倒れ込んでしまうのでした。




 ――レイジさんが、私に覆い被さるような形で。




「わ、悪ぃ、今退け……うわっ!?」

「ん……っ!?」


 絡まった毛布によって、慌てて飛び退こうとしたその身体が更に私の方へと倒れ込み、完全に押し倒され、抑え込まれるような形となり、目と鼻の先にはレイジさんの顔。


「ぁ……」

「……っ!?」


 ぼんやりとその顔を眺める私。

 ゴクリと、レイジさんが唾を飲み込んだ音も、どこか遠くに聞こえます。


 寝巻きがはだけ、素肌が晒された胸元や脚に外気が触れて肌寒く感じるのに、逆に顔はまるで火が着いたみたいにとても暑い。

 汗が頰を伝い、首筋へと流れていくのがこそばゆい。

 胸を締め付けるような息苦しさに、呼吸が乱れる。


 なのに……その全てが遠くに感じられ、思考がどんどん朦朧としていく。


 そんな中、はー、はー、と荒いレイジさんの吐息だけ、耳元からやけに大きく聞こえてきます。


 徐々に……躊躇いつつも、引き寄せられるように徐々に、私の唇にレイジさんの唇が迫ってきていました。


 不思議と……逃げようとは全く思えなくて、目を閉じる。全身からふっと力が抜ける。


 自分の物ではない吐息が触れる。もう、あと少しで、お互いの唇が重な……




「……ぉぉぉおおおおおぁっッッ!!?」




 ……りませんでした。






「あっ……ぶねぇぇええっ!? 今のはヤバかった、良く耐えた俺ぇ!?」


 ぜぇはぁと、離れた場所で荒い息を吐いているレイジさん。

 近くにあった熱が離れて行ったことが無性に悲しくて、手を伸ばしてももはや何も触れず、目にじわりと液体が湧き出てくる。


「お前も、頼むからふざけてないですぐ止めてくれ、今回のは本気で洒落に……なら……」


 両眼からポロポロと、次から次へと頰へ零れ落ちる雫。それは制御が利かず、一向に止まろうとしない。

 レイジさんが私の方を見て固まっていますが、それが無性に面白くなくて……


「なん止めるんですか、レイジさんの馬鹿ぁっ!!」


 バン! と、子供の頃に癇癪を起こした時のように抑えきれない衝動を、ソファに叩きつけて起き上がる。


「私はぁ、真面目に言っているんす! 何逃げるんすかぁ!」


 バンバン、とイライラをソファに叩きつけながら、なぜか逃げるようにソファ上を遠ざかっていくレイジさんを追いかける。

 しかし狭いソファはすぐ行き止まりで、その引き締まった筋肉に覆われた胸の中に潜り込み抱きつきます。

 途端に霧散していくムカムカした衝動。代わりに満たされていく安堵感。あと、なんだかおかしくてたまりません。


「た、頼む、離れてくれ、この密着はマズい……!」

「ふふふ、めーれすぅはなれませんー、逃げちゃ駄目すからねぇ、あはは」


 腕の中のレイジさんの身体がガチガチに硬直しているのが面白くて、その逞しい太腿を自分の太腿で挟んで振り落とされないように固定し、ぴったりと身体を密着させるように押し付けて抱きつきながら、笑い転げる。


「……ま、待て、いくらなんでも変だぞお前、いったい何を飲んだ!?」

「何って……テーブルにあったリンゴジュース、すけどぉ……」

「なん……だと……!?」

「あ、も、なんか変な味がしましたねぇ、あはは」

「くそ、それか……っ! 性別変わっても相変わらず酒癖悪いなお前ぇ!!」


 先程の衝動から一転し、ふにゃふにゃする頭で答えると、急に慌て始めたおかしなレイジさん。

 しかし次の瞬間、しなだれかかるように寄り掛かっていた身体が突然無くなり、代わりにソファに優しく横たえられました。少し本気を出した彼に、あっという間に引き剥がされたのだと遅れて理解し、ムッと頰を膨らませます。


「そんな顔をしても駄目だ、いいか、ここでおとなしく寝てろよ! いいな!?」

「……? はぁい……」


 言われた通り、柔らかなソファに身体を預けて目を閉じる。


 そういえば……何故、眠れなかったんでしたっけ。

 目を閉じた瞬間襲って来た睡魔に意識を持っていかれながら、変なの、と首を捻ります。



「レニィさん、来てくれ! イリスが間違えて酒飲んだ!」

「お酒!? 何故そのような物があったんですか!?」

「悪ぃ、俺が昼間の残りの果実酒シードルを自分用に分けてもらったやつ、こっそり持ち込んでたんだが、間違えて飲んじまったみたいだ……!」



 遠くで誰かが何やら口論している声を聞きながら……そっと、先程吐息が触れ、しかしそれ以上をお預けされた唇に、指先で触れてみる。


 ……何故、これほどまでに残念に思えているのでしょうか。


 寂寥感にぎゅっと寝間着の胸元を握り締めながら、いよいよ耐え難くなって来た睡魔に身を委ねる。


「……レイジさんの……馬鹿……」


 なんとなくそんな事を呟きながら……私の意識は、ふわふわとした感覚に溶けていくかのように、真っ暗に塗り潰されていくのでした――……











 ――ちなみに、その翌朝。


 可憐な少女の声に似つかわしくない、この世の終わりを見たかのような絶叫が、爽やかな夏の朝空の元に響き渡り、その後、半日の間来賓の一人が自室に引き籠って出てこなくなるという事件が起きるのだが……それはまた、別の話。









【後書き】

 余談ですが、レイジさんは初めてイリスのアバターを見て一目惚れしてしまった際に、自分はロリコンではないと自分に言い聞かせるため巨乳系のグラビアに傾倒していた時期があります。

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