未だ癒えぬ傷跡

「イリスちゃん……大丈夫、イリスちゃん?」


 控えめに肩を揺さぶられる感触に、酷く浅い眠りから目覚めた。

 重い瞼をどうにか持ち上げ、顔を上げると、僅かに寝癖がついた髪が頰を滑り落ちた。


「あ……すみません、寝てしまっていましたか……」


 椅子に座ったままベッドに突っ伏して寝ていたせいで、体の節々が痛みを訴えていた。

 すっかり強張ってしまっていた体を伸ばし、居住まいを正す。


「また、一晩中こちらに居たのですか。レニィさんがおかんむりでしたよ?」

「アイニさん……ごめんなさい、休まなければいけないというのは分かっているんですが……」


 何度も休むよう言われて部屋に戻っても、結局は落ち着く事ができなかった。

 だから、こっそりと自分に割り当てられた客室を抜け出しては、こちらの部屋へと訪れていた。

 何故ならば、ここには……


「まぁ……他に代われる人が居ないのだから、仕方ないとは思うんですが……先に貴女が体を壊したら、意味は無いんですからね?」

「はい……もう一度治療をしてみたら、今度こそ部屋に戻って眠りますので……」


 ちらりと、今まで頭を預けて伏せていた寝台へと目を移す。

 そこには……未だ目覚めず、時折苦悶に顔を歪ませるレイジさんとソール兄様が、横たわっていました。






 てきぱきと診察し、点滴を替えているアイニさんの様子を、寝不足で上手く働かない頭でぼーっと見つめる。


「二人とも、負傷自体はもうすでに元通り完治しています。これならば、眠っている間の筋力低下以外、何らかの後遺症が残ることも無いでしょう」

「そうですか、良かった……」


 ほっと、安堵の息を吐く。


 二人が倒れてから、すでに三日。


 心身ともに弱り切っていた私は、ブランシュ様を看取ってすぐに昏睡し、目覚めた時には丸一日が経過していました。


 その後、目覚めた後からずっと二人のところに通い詰め、つきっきりで看病と治療を行っていた事が幸いし、二人の体にはもはや傷一つ残っていません。




 ――二日。私がつきっきりで治療して、肉体の治療が完了するのに二日も要してしまった。




 普段であれば一瞬で治るはずの怪我でした。

 しかし今は、二人に対しての治癒の光の効果が妨害されており、思うように治療できずにいました。


 そして、二人が未だ目覚めないのは……


「……こんなに……瘴気が強いなんて」


 あの敵……『死の蛇』の操っていた瘴気は、私の治癒魔法よりも強力だったようだ。


 それでも継続して治癒と浄化の魔法を施すことによってその効力を弱め、無理やりに治癒魔法を届けさせることによって少しずつ、少しずつ治療して……ようやくここまで回復させたのだけれども。


 しかし……傷は癒えても、まだその体内に根深く潜む瘴気を除去しきれていませんでした。

 そのせいか、二人は未だに昏倒したまま、目覚める気配がありません。


「私が、『聖域』を使用できれば良かったのですけれど……」

「……やはり、駄目ですか」


 そのアイニさんの言葉に、苦々しい思いで頷く。


 あれからすでに三日。


 本来であれば十分に再使用可能なはずの『聖域』は、あの日以降全く展開できなくなっていました。


 そしてその原因は……あのように『聖域』が破られ、その反動を受けて苦痛に晒された事が、恐怖心として心の奥底に残ったためではないか……との事でした。


「……使えないものは仕方がないです、今は出来る事をしないと」


 頰を叩いて気合いを入れ、ベッドの上の二人へと向き直り、深呼吸を一つすると、口を開く。



 まず最初に唱えたのは、対象数を複数へ変更する補助魔法。

 対象指定型の魔法を範囲魔法へと変換し、範囲魔法は効果範囲を拡大する『スペル・エクステンション』もありますが、効力が多少なりとも拡散してしまうために今回は使えない。

 なので今回使用しているのは『マルチターゲット』という、単体を対象とする魔法を同時に複数人へと使用するためのもの。


 両手の内に白く光る魔法陣が現れ、次に発動する魔法の対象数が二人に変更されたのを確認し、改めて解呪魔法を唱え始める。


「……『イレイス・カーズ』……!」


 両手に灯った解呪魔法……直接対象に触れなければならないという、効果範囲が著しく狭い欠点を抱える代わりに、私が有している中で最も強力な浄化の力を持つその光を、両脇のベッドに横になる二人の胸のあたりにそっと近付けていく。


 ――その途端。


「……ぐっ……うぅぅ……っ!」


 両手に灯した解呪の光が二人の体に触れるか触れないか……といったところまで接近した時、その体内から滲み出して来た蛇のように蠢く闇が、激しく白黒に点滅する閃光を発しながら私の治癒魔法とぶつかり合った。


 今までは、この闇を削り取るので精一杯だった。


 しかし今回は、その小さな蛇のような闇の幾つかが消滅し、幾度も試みてようやく二人の体に届いた浄化の光がその触れた周辺に巣食う闇を吹き飛ばし、溶かしていく。


「もう、少し……っ!」


 ずっと、治療は進んでいるのか不安で仕方がありませんでした。


 しかし、もう少しだとようやく今回で確信できた。

 急いで更に力を込めようとした時……視界が、ぐらりと揺れた。


「……そこまでです。午前中はもう休んでください」

「……っ、はぁっ……はあっ……はっ……はっ……」


 私の額から、汗が滝のように流れていた。

 上位治癒魔法を倍掛けするというのは、自分で思っていた以上に体力の消耗が早かった。


 ……こうなると、二人よりも遥かに多量の瘴気に侵されていた私を助けてくれたブランシュ様は、いったいどれだけの労力とを費やし、どれほどの苦悶を耐えていたのか……尋ねることも叶わぬ今となっては、想像を絶する苦行だったに違いないとしか予想できません。


 それでも……今回は、手ごたえがありました。

 あと少し、今日中には浄化し切って二人を助けると、決心を固める。


「意気込みは結構ですが、せめて午前中はしっかりと休みましょう? 二人は私が診ておくから……ね?」

「はい……ありがとう……ございます……」


 実際、目眩がする上に凄まじく瞼が重い。

 大人しく自室へと戻ろうと、ドアノブに手を掛けようとした時……


「……口惜しいですね。こうした時、イリス様のように治癒術を使えない私は、ただこうして経過を診察している事しかできません」

「アイニさん?」


 ぽつりとつぶやかれた声に、思わず振り返る。

 その視線の先では、穏やかなその顔に僅かな陰りを覗かせた彼女が居ました。


「……私の家系の遥か先祖は、貴女のように治癒の力を持っていたそうです。それが、何故失われてしまったのか……もしその力が今私の手元にあれば、と……自分ではどうにもできない患者を前にするといつも考えてしまいます」


 目線は眠る兄様に向けたまま、その汗で額に張り付いた前髪を除けてやりながら、滔々と語るアイニさん。

 その目には……私の見間違えでなければ、悔しさのようなものが滲んでいました。


「……だめですね、言っても詮無い事です。私には治癒術が使えない、であれば私の力が……錬金術や、医術が必要になった時のために備えておくだけです。さ、早く休んで来てくださいな?」


 そう、いつもの柔らかな笑顔で休息を勧めるアイニさん。

 しかしその言葉は、まるで自身に言い聞かせるかのようでした。






「あ、姉ちゃん」

「……ハヤト君?」


 ドアを開けて廊下に出ると、そこには行儀良く座っていた仔セイリオス……落ち着いたら、名前を付けてあげないと……と一緒に、しゃがみ込み、その毛皮をわしゃわしゃと撫で回しているハヤト君が居ました。


「こいつ、大人しいなー。実は嫌がっているとか、無いよな?」

「あ……うん、大丈夫みたいです」


 仔セイリオスからは特に悪感情は感じない。

 むしろ、目を細めてじっとしているのを見ると、どうやら気持ち良いらしいです。


 それより……


「その、格好は……?」


 久々に姿を見たハヤト君は、今は仕立ての良い半ズボンに白いシャツとベストという、このお城で働いている年少の男性の使用人……従僕の格好をしていました。


「はは、ここで手伝いをするなら……って渡されたんだけど、似合ってねぇよな……」

「いえ、そんな事はない、格好いいですよ?」


 ――ただ、まだ少し服に着られている感はあるかな?


 と、思ったのは黙っておく。


 プレイヤーであり、アバターの再現である彼の容姿は……ソール兄様など、華のある者が近くに居たためあまり目立ちませんでしたが……かなり整っています。


 やや浅黒く日焼けした肌に、漆黒の艶のある髪。

 いつもはややボサボサな髪にしっかりと櫛を通し、一房だけ長い後ろ髪を綺麗に束ねて肩から前へと垂らしたその姿は……こうして見ると、オリエンタルな雰囲気を醸し出す美少年でした。


 きっとあと数年経って身長が伸びれば、女の子が放って置かないんじゃないかな……と、そんな事をぼんやり考える。


「……そう言う姉ちゃんは、さっさと寝たほうが良いな。すげぇ顔してるぜ?」


 こんな感じに……そう言って彼は顔をしかめ、眉間に皺を寄せて目の下を引っ張り変な顔をしたもので、思わず吹き出してしまいました。


「……ふ、ふふ……っ、そっ……そんなっ、変な顔でしたか……っ」

「ああ、変だ変。隈も浮いてるしな。だからさっさと部屋に帰れって」


 そう言うと、どうやらエスコートしてくれるらしく、明後日の方向を向きながらもこちらへと手を伸ばすハヤト君。

 一人では途中で眠ってしまいそうな気がするので、ありがたくその手を取ると、こちらへ飛んできた仔セイリオスをもう片腕に抱いてついていく。


 このイリスの身体よりも若干背の低い、その彼の背中を微笑ましく眺めながら、部屋に向かう廊下を歩いていると。


「……?」

「ん? 何かあったか?」


 部屋に戻る途中、ふと、窓から見える景色の中に違和感を感じ、立ち止まって外を覗き込む。


「あれは……大弩砲バリスタ……?」


 以前空中庭園に出た際は見かけなかった、無骨で巨大な弩。

 それが無数に、庭に並んでいるのが遠目に見て取れた。


 ……その向きを、城の背後、山の方へと向けて。


 しかし、その事に疑問を感じるも、眠気に支配された頭はまともに働かず、ハヤト君に何でもないと言うと、再び部屋に向かい歩き出す。









 そうして、二日ぶりに自室のベッドへと横になった私でしたが――その、体が沈み込むような柔らかさに、ひとたまりも無く睡魔に負けてから、ほんの数時間後。


 突如城内に鳴り響いた警鐘の音に、再び叩き起こされる事となるのでした――……

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