果ての子守歌

 頬に、僅かに湿った柔らかいものが触れる感触に、意識が戻る


「う……」


 気を抜けば閉じようとする瞼を、難儀しながらもどうにかこじ開ける。

 薄く目を開けると、まず目に入ってきたのは白い毛で覆われた小さな脚。

 視点を少し上にずらすと、仔セイリオスが心配そうにこちらを覗き込んでいた。

 どうやら先程の頰への感触は、この子が舐めていた物らしい。

 そして……それ以外にも、温かい、ふさふさしたものに包まれている感触がした。


「ここは……」

「……良かった、目覚められましたか……ここは、ローランドの城の庭です、ご安心ください」


 頭上から、レオンハルト様の声。

 どうにか首を動かすと、ここ数日ですっかり見慣れた景色。

 どうやら、意識を失っているうちに運ばれて帰ってきていたらしいです。


「他の皆は……?」

「ソール様とレイジ君は意識がまだ戻らず、部屋で寝かせています。そちらは今はアイニ嬢が診ていますので、任せましょう。ヴァルター団長は『死の蛇』の追跡に、あの後すぐに発ちました」


 もっとも、何も得られるものは無いでしょうが……そう締めくくるレオンハルト様。


「そうだ、二人の治療をしないと……」


 二人とも、酷い怪我を負っていた。聖域も途中で破られてしまったため、まだ治療が必要なはず。


 ……そう気は急くのに、体に力が入らず起き上がる事ができない。


『待て、まだ無理だ』


 それでもどうにか起き上がろうともがいていると、襟のあたりが何かに咥えられ、元どおりふさふさとした物に寝かせられてしまう。

 そして、背後から聞こえてくる厳かな、しかし今にも消えてしまいそうな声。


「あ……一体、あなたは何を……!」


 ようやく、自分の体に起きている事に気がついた。

 体内から、澱の様に積もった冷たく昏い感触が抜けていく。

 その進行に合わせ、徐々に身体に力が戻って来ている。


  体内の毒が、抜き取られ、吸い取られていくように。


 今自分の身に行われている事が、浄化ではないのはすぐに分かった。

 これは、私の体内に溜まった瘴気が抜き取られ、別の場所に移動されているだけ。


 別の場所……つまり、私を抱くように横たわっている、セイリオスの体に。


『じっとしていろ……お主の体の瘴気を全て抜き切るには、時間がギリギリという所だからな、あまり問答している余裕はない』

「だけど、それじゃ、あなたが……!」


 いくら人よりもずっと頑強な幻獣とはいえ、寿命間近で、決して軽くはない手傷まで追った身体で持つはずが無い。

 必死に止めようとするも未だ体はまともに動かせず、何より向こうにその気がまったくない。


『……我の時間はもともと殆ど残っておらん、なれば、大差はあるまいよ』

「だけど……」

『あと僅かの命で、の残したお主を助けることが出来る……永き生の果てとしては、なんとありがたい事よ』


 そうこちらを見つめている彼女の目は優しく、それだけで、何も言えなくなってしまう。


『故に……好きにさせてくれぬか? 言葉も、できれば謝罪のもの以外が良い』

「……ありがとう、ございます」

『うむ……それでよい……』


 そう言って、黙り込んでしまうセイリオス。

 どうやら、私から瘴気を抜き取る事に専念しているらしい。


 そんな時間がしばし続く。


『……ブランシュ、だ』

「……え?」

『我の名前だ。リィリスが付けたものだがな。出会ったときは昼間だったからな、毛皮が白かったんだ。安直だろう?』


 そう苦笑して言う彼女、ブランシュ様。

 だけど、その様子を見れば、彼女がその名をいかに大切にしているかが良く分かりました。


『……悪いな……色々話してやりたいことはあったのだが、どうやらそれももう無理なようだ』


 ふと、そのような事を彼女が漏らしました。

 その彼女の言葉に首を振る。これだけ恩を返しきれない程に助けてもらったのに、これ以上の事を望むなんでできない、バチが当たってしまう。


『だが……行き先を示すしるべくらいは残して行くとしよう。退屈凌ぎに聞いておけ』

「……標、ですか……?」

『うむ……この大陸の首都、人の暮らす大きな街よりさらに北へ行くと、人の立ち入らぬ霊峰がある……そこに、一頭の竜が居る』


 竜……ドラゴン。

 言わずと知れた幻獣の王で、中でもエルダーと呼称される者となると、神聖視されるほどの存在。


『とても老いた竜だ。もうすでに空も飛べず、食事さえも麓に暮らす竜信仰の信者達の僅かな供え物だけで済ませ、ごくまれに目を覚ましてはまたすぐ眠る……そんな日々を繰り返している老骨だが……この世界が作られた時から生きているという』

「世界が作られた時……?」


 この世界が作られた、とはどういうことだろう?

 星が生まれた時……という事は無いだろう、その時点で生物が発生しているわけが無いのだから。


『気が向いたら、会いに行ってみると良い…………リィリスも、一度話をしたことがあるそうだ。もしかしたら、何か聞けるかもしれぬ……』

「あの人も……解りました、心に留めておきます」

『うむ……終わったぞ』


 話をしている間に、私の体内から瘴気を抜き取り終えたらしい。

 体を起こしてみると、酷いだるさこそあるけれど、問題なく動かせる。


『調子はどうだ? 力の方は、問題ないか?』

「少し待ってください、試してみます」


 一つ呪文を唱え、問題なく手の内に現れた治癒の光をセイリオスへと触れさせてみる。

 ぱっとその体が燐光に包まれるのを、固唾を呑んで見守る。


「……どう、ですか?」

『ああ、暖かい光だ……そして、この感触もリィリスによく似ている……』

「……そうなのですか?」

『だが……うむ、お主の光の方が優しいな。あの娘は、どうにも天真爛漫過ぎてせわしなかったからな、安定しなかった』

「な、なんだか彼女のイメージがどんどん崩れていく気がします……」


 私の中で、彼女はおっとりとしており、周囲をほっとさせるような穏やかな気質の、聖女然とした人というイメージだったのだけれど……実は、結構おてんばな人?


『ふ……あの娘は、一見するといかにも聖女らしく見えるらしいが、実際は周囲を振り回す天才だぞ?』

「そ、それは意外ですね……」

『うむ、本当に、ギャップの酷い娘であったわ……』


 そう言って、目を細めるブランシュ様。

 その様子は穏やかで、どうやら苦痛を和らげる役にくらいは立てているらしいが、しかし……


「傷の治りが悪い……」


 というか、ほとんど塞がる気配が無い。

 穴の開いたバケツに水を注ぎこんでいるかのような、そんな手ごたえ。


 ……これが、寿命。


 生命力が尽きている以上、傷が治ることはもう無いのでしょう。

 もはや、私に出来ることは少しでも安らかに旅立てるよう、見送る事のみ。


 仔セイリオスも、それを分かっているのでしょう。

 傍に寄り添って、じっと母親を見つめている。


 そんな様子を外から眺めていたレオンハルト様が、傍に寄ってきて、最敬礼を取る。


「……では、私もこれで失礼しましょう。長い間、この街の背後を守護してくださった貴女に、感謝を。お疲れ様でした」

『なに……我も、人を疎んでいたところに、静かで良い寝床をずっと提供してもらった……代々のお主たちの献身には感謝している』

「……勿体ない、お言葉です」


 そう言って、一礼して立ち去るレオンハルト様。

 残されたのは、私と仔セイリオスのみ。


『次代の御子よ。我に恩を受けたと思うのであれば、一つ最後に頼まれてくれぬか?』

「……私にできる事であれば、なんでも言ってください」

『この子を、頼む。まだ独り立ちには少し早い故、側で共に学ばせてやってくれ』

「はい……わかりました、責任を持って、お預かりします」

『感謝する……お前も、聞いていたね?』


 その言葉に、隣に座る仔セイリオスが、しゅんと項垂れる。


『……母とは、ここでお別れだ。彼女と共に行くが良い……』


 その言葉に……仔セイリオスは顔を上げ、一つ、おんっ、と小さく鳴く。

 その様子を満足そうに見つめて、白い巨体がゆっくりと目を伏せ、横たわった。


「……ブランシュ様?」




 ――呼びかけに、もはや返答は無かった。






 ◇


 ――お疲れ様、ブラン。最後まで、助けてくれてありがとう。


 声が、聴こえた。

 懐かしい……本当に、懐かしい声。


『あぁ……そうだな……リィリス、君にも感謝を……おかげで、良き……生であった……向こうで、また逢おう‥…』


 ――うん、でも……ごめんね? 私は、まだそっちには居ないから、少し待たせちゃうかも……


 その言葉に、内心目を見張る。


『そうか……お主は、そうだったのか……』


 ああ、今、もう少しだけ行きたくないな、と思ってしまった。

 ほんの僅かにでも時間があれば、あのどこか頼りない御子と、一途すぎて暴走している阿呆に、この言葉を伝えることが出来たというのに。


 だが……それでもその言葉は、彼女を失ってからのここ数百年ただ空しく生きていた末に聞いた、紛れもない吉報であった。


『それは……最後に朗報が聞けたな……しばらく、枕にされずにゆっくり眠っていられる……』


 そんな憎まれ口に、彼女がくすくすと笑っている。

 とても……とても、懐かしい空気だ。


 ――おやすみなさい、ブラン。また逢う時まで、良い夢を。


『あぁ……しかしすぐには来なくていいぞ……我は……日向ぼっこにでも興じているとしよう……天上というからには、さぞや向こうの日差しは気持ち良かろう……ゆるりと待っているから……のんびりと来るがいい…………』


 そうして、瞼を閉じる。


 歌が、聴こえた気がした。


 周囲に懐かしい子守歌が響く中……意識は、ただ静かに深い眠りへと落ちていった――……






 ◇



 ――すっと、その白い毛皮に包まれた巨体から力が抜けた。


「……逝って、しまいましたね」


 私の腕の中で、仔セイリオスが、クゥン、と小さな鳴き声を上げる。その小さな身体を、抱きしめる。


 まるで何か良い夢を見ているかのように、穏やかな表情で目を閉じた彼女……ブランシュ様は、今度こそ……もう目覚める事は、ありませんでした――……

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