訪れ

 目覚めは、控えめに言って最悪でした。


 下半身に、ごわごわした感触。

 一緒に残されていた書置きを見て、処置はレニィさんが済ませてくれたのだと知り、安堵しつつも申し訳ない気持ちで一杯でした。


 そして、倒れる前の紅い惨事を思い出してしまい、恐る恐る寝間着の裾を捲ってみると……そこはすっかり綺麗に清められており、ほっとしました。

 しかし、下着の内側に何かが取り付けられているのを見て、再びくらりと来てベッドに倒れ込む。 


 ――いつか来るのだろうとは思いつつ、ずっと目を逸らしていたけれど……とうとう来てしまいました。


 むしろ、こちらに来て一月以上はとうに経過していますので、未だに来ていなかった事の方が奇跡的なのかもしれないけれど……ここの平穏な生活に慣れたとたん一気に訪れたらしく、とにかくお腹を中心に体のあちこち痛いわ気持ち悪いわで、起き上がる気力も湧いて来ません。


 結果……目覚めてからずっと、枕を抱いてベッドに突っ伏している羽目になっていました。




 ――ゲーム時代、色々女の子の知識を綾芽に叩き込まれていたけれど、こればっかりはデリケートな部分なので、指導の中で一切触れられていない。


 もしこの手の話題になったら、曖昧に笑うか、俯いて黙り込んで言葉を濁してやり過ごせ、それで誤魔化せる、むしろ進んでこの手の話題に加わるほうが怪しまれる……そういう指導だった。


 だから……「これ」に関しては、本当に何もかも未知の領域でした。





 そうして一人ぐるぐると悩んでいると……コンコンと、控えめなノックがされた。


「ごめんなさい、大事な時に出かけていて」


 そう言って静かに部屋に入って来たのは、所用で出かけていたアイニさん。

 本職のお医者様の登場に、安堵から不覚にも涙が滲み出てきました。


「大丈夫……には、見えないわね」

「……アイニさぁん……何ですかこれ、痛くて、気持ち悪くて、死ぬ……」

「大丈夫、死にはしないわ……でも、結構辛そうね……」


 安心させるように、ゆっくりと背中を叩く感触。それだけで、少しだけ落ち着けた気がする。


「……ごめんなさい、年齢的にてっきりもう来ているものだと思い込んでいたものだから。あらかじめ説明しておくべきでしたわね」


 そう言いながら、テキパキと私の身体のあちこちに触れ、検温などもしていく彼女。私は、黙ってされるがままになっていました。


「いくつか、質問するから正直に答えてね?」


 そう言って、何かメモを取りながら質問してくるアイニさんに、一つ一つ答えていく。

 最初は難しそうな表情だった彼女も、問診が進むうちに安堵の表情を浮かべてきた。


「……うん、病気とかではなさそうね。症状が重いのは多分、ここ最近のストレスや不規則な生活が原因ね。夜遅くまで起きていたり、逆に昼間眠ってしまったり、ご飯を残したりしていたでしょう?」

「……はい、どうにも夜に眠りが浅いし、食欲も無くて」

「そう……だとしても、食べられそうなものだけでも食べておかないと駄目よ?」

「今後、気を付けます……」


 諭されてしまいました。

 優しいお姉さん風の物言いだから怖くはないけれど、それだけに申し訳なさがあります。


 ……ストレスの方も、心当たりはありすぎます。

 こちらの世界に来てからずっと、心的な負担は掛かりっぱなしで……だからこそ、この領都へ到着してからの数日の生活は、穏やか過ぎるくらいでした。


「本当はあまり良くないんだけど……甘いものはどう、食べれそう?」

「無理です……」


 甘いもの自体は食べたくて仕方ないけれど、口に入れる気は全く起きない。

 その様子を見て、アイニさんは何か、お茶……ハーブティ? らしきものを淹れ始めている。透明なガラスのポットに、黄緑色の液体が少しずつ溜まっていくのを、横になりながらぼーっと見つめる。


「……どちらかと言えば食べたくなる人の方が多いんだけど、個人差はあるから……どうやら、イリスちゃんは来ると食欲が無くなるタイプだったみたいね。これはどう、飲める?」


 その言葉にのろのろと体勢を変え、ベッド端に腰かけると、差し出されたお茶らしき物が注がれたカップにそっと口を寄せてみる。


 カップの中に入っていたのは、やはりハーブティー。

 匂いを嗅いでみると、爽やかな檸檬のような香りに、若干のツンとした生姜の刺激……気持ち悪くならない、大丈夫そう。

 口にしてみると、すっと鼻を通る爽やかな香りの中に、ぴりっとした僅かな辛み。それと仄かな蜂蜜の甘味が、胸をほっとさせる。


「……大丈夫、いけそうです」

「そう、良かった。今は初夏だから、こまめに水分を取るように。でも冷たい水はあまり飲み過ぎないように。いくつか調合してティーバッグにしたものがあるから、気分が悪くなったら飲んでみて。それと、本当にダメな時のために、薬も置いていくけど、これは一回飲んだら六時間は飲まない事」


 そう言って、次々と薬の包みを、その一つ一つに服用の方法や注意点を記載したメモを貼り付けながら、枕元の台へと置いていく。


「それと、治癒魔法は禁止。これは正常な体機能による生理的現象だから、それを、無理矢理魔法で止めても、あまり良いことになるとは思えません」

「はい……もっとも、今は何故か、一切使用出来ないんですが」

「それも、今の体調の影響でしょうね。教会に囲われている『聖女』って呼ばれている人達も、似たような症状が出るって聞くわ。体の方が、安全装置を掛けているんだと思います」


 うっかり使用してしまわないように、と。

 たとえそれが他者に施術しようとした際であっても、自分でも治癒魔法の光に触れますから、若干の影響を受けますからね……


「それと……これね」


 アイニさんが、手に持ってきたポーチから取り出したのは……綺麗な薄い布に包まれた、折りたたまれた何か。

 元の世界では実物は見たことはなかったけれど、CMなどで見覚えがある物によく似ている。


「それって……」

「ええ。今あなたが履いているショーツにもセットしてあるみたいだけど……しっかり自分でも使い方を覚えておくように。結構頻繁に交換が必要ですからね」


 そう言って渡されたそのシートを、まじまじと眺める……それは、とても薄かった。

 こんなもので大丈夫なのかと心配になりましたが、中には錬金術師が苦心して作り上げた吸水性の高い粉末が仕込まれているらしく、見た目以上に長持ちするらしいです。


 ……スライムの体組織を構成する粘液から保水成分だけを取り出した粉末らしいです。ちょっと気味悪く思えてしまいました。 


 そしてこれが……今は薄手の物ですが、多い時用や夜用など、また別の種類が結構あって、本当に大変なんだなと心底痛感する羽目になりました。


 とはいえ、薄いと言っても股間とショーツの間に一枚余計なものが挟まっている、ごわごわとした感触は、どうにも気持ちが悪い。これが数日続き、しかも毎月訪れるという事に、酷く陰鬱な気分になっていく。


「……という感じだけど、分かったかしら」


 そうこうしているうちに説明が終わり、実際にそれ用の下着に取り付けて、すでに血をだいぶ吸っていた今のそれと取り替えて……講義が終わり、そのシート一式の詰まった小さなポーチみたいなものが渡されました。


「はい……ありがとうございます」

「イリスちゃんは初めてだから、それほど多くは無いと思うけど……足りなくなる前に、すぐに言うように。それと、漏れてこなくても一定時間置きと、夜の就寝前には交換するように。良いわね?」

「はい……色々と、ありがとうございました」


 これで少ないんですか……先程処理する際に目にしてしまったシートの惨状を思い返して更にげんなりしながら、自分の体についてのお勉強は終わりました。





 アイニさんは、隣の部屋に控えているから何かあったら言うように、と呼び鈴を置いて退室し、再び一人静かな部屋に取り残される。


「身体が、子供を作る準備が出来た証……かぁ……」


 凄く変な感じがする。

 元の世界に居た時は……まだだった時は、自分の子供を作る事すら諦めて居たのに。


 それが、今は自分のお腹で赤ちゃんを育てることの出来る身体になっている……なった、という事にまるで実感が湧かない。


 今は実感は無いけれど……いつかは、子を宿すその日が来るのだろうか。

 未だ重苦しい感じがする下腹に触れながら、そんな空想を……


「――っ!?」


 跳ね起きた。心臓がバクンバクン鳴っている。


「――何で、私、なんて事を考えているの……?」


 脳裏に自然と浮かんで来たのは……レイジさんに支えられている、お腹の大きくなった自分。

 以前にも、話の流れから似たような想像をしたことはありましたが、その時はまるで想像もできなかった事が、今は……


「……寝よう」


 ぼすんと再び寝台に体を預け、考えるのを止めて逃避するように眠りに落ちるのでした――……








 ――不意に、かちゃかちゃとなる陶器の音に、再び目を覚ます。


「……ああ、悪い、起こしてしまったか」

「……兄様?」

「うん、夕飯を持ってきたんだけど……どう、食べられる?」


 その言葉に外を見ると、すでに窓の向こうの景色は赤から黒に変じ始めており、だいぶ日が傾いていました。どうやら数時間眠ってしまっていたらしいです。


「もうこんな時間……はい、食べます」


 あいかわらず気分は悪いけど、それでも今は少しだけ落ち着いている。

 アイニさんも少しだけでも食べた方が良いと言っていたので、ちょっとだけ頑張ってみようと体を起こし……


「……あれ?」


 そこに並んでいるメニューに吃驚する。

 テーブルに並んでいるのは、鶏肉と大根の煮物。お醤油と生姜の香りが空きっ腹に程よい刺激を与えて来る。それと……


「お赤飯?」


 懐かしい、日本の料理。

 小豆と共に炊かれたご飯が、器に盛ってありました。


「はは……まぁ、女の子の日が来たら私が……って約束だったし、有言実行ってね」

「あ……じゃぁこれ、兄様が?」


 いつぞやの結晶の魔物と戦って一度敗北を喫した際に、朦朧とする意識の中でそんな事を言っていた気がする。


 あれ、本気だったんですね……と思わず苦笑が漏れた。


「でも、よく材料がありましたね?」

「うん、この前街に出た時に、東の諸島連合の行商人が餅のようなものを取り扱っていてね。もしかしたらと思って聞いてみたら餅米みたいな物があったから、少し売ってもらったんだ」


 そう私を席へと導き座らせながら、兄様。

 箸を取り、目の前の煮物、抵抗感が少ない大根から箸を入れる。

 よく煮込まれているらしく、すっと箸で切れたそれを、恐る恐る口に含む。


「あ……この味」

「どうかな……自分では、よく出来たと思っているんだけど」


 とても、覚えのある味でした。

 良く具材の味が滲み出た汁を一杯に吸った大根はほんのり柑橘の酸味があり、思ったよりもさっぱりしていて、あまり抵抗なく飲み込めました。


 この味は……


「これ……もしかして、お婆ちゃんの?」


 遠い記憶の中、日本の祖父母の家で食べていた鶏肉と大根の煮物の味にそっくりでした。


「……ふふ、どうやら上手く出来ていたみたいね。私も、始めてが来た時はこのメニューだったのよ」

「そうなんですか……うん……美味しい。綾芽、ありがとう、すごく美味しい」


 自分でも制御出来ないほど感情が不安定で、ぽろっと涙が溢れたけれと、箸は止まりませんでした。

 お赤飯も、懐かしさに思ったより食が進み、久方ぶりのまともな食事にほっと一息をつきました。


「……結構、大変みたいだね、その身体」

「はい……綾芽の時はどうだったんですか?」

「私は……結構重めだったかな、もしかしたらうちは家系的にそうなのかもしれないね。でも、イリスは案外落ち着いているね、私の時はイライラが酷かったんだけど」

「それは……まぁ、これでも元は20代ですしね」


 一度思春期を終えているせいか、心理的にブレーキが掛かって周囲に当たり散らそうとする気は今のところ起きてはいなかった。


「……そう、だよね。お兄ちゃんは、社会人の男の人だったんだもんね」

「綾芽……?」


 不意に、向かい合っていたその顔が翳る。


「……本当は、おめでたい事なんだけれど……この場合は、ちょっと複雑だね」

「……複雑、ですか?」

「イリスは、なりたくて女の子になった訳じゃないからね……だから、お祝いしてもいいものか、無神経なんじゃないかって、ふと考えてしまってね……」

「……気にしないで、私はもう、受け入れているし、この世界に来たのだって綾芽のせいじゃない」

「……うん」

「それに……皆が元の世界に戻ったときに姿が戻っているかどうかは分かりませんが、私は……私だけは少なくとも、もうこの姿から戻ることは無いと思います」


 それは、確信。

 この身は肉体も、精神も、あの元の世界に居た時とは違ってしまっているという確信。


「それは……あの転生の時の事?」

「はい……あの、おそらくは白の書を前にした際に、私ははっきりと自分の存在が書き換えられていくのを感じていました。そして今はもうこの体であることにも違和感はありません……コレは、ちょっと堪えましたけど」


 そうお腹を指差して苦笑する。

 その私の表情を見て、兄様は一つ、そうか、とだけ零し、空いた皿を集めて席を立つ。


「それじゃ、そろそろ失礼するよ。ゆっくり休んで、早くレイジにも元気な顔を見せてやりなよ、凄く心配そうにしてたから」

「あっ……この事は、レイジさんには……?」


 無性に、男性には知られたく無かった。その中でも特に彼には。


「大丈夫、知らせてないよ、男には知られたくないだろうと思って」

「そう……良かった」

「それじゃ、今度こそ……おやすみ、イリス」

「はい、おやすみなさい、兄様」


 パタンと静かに閉じられた扉。

 それを見届けて……私も、この日はもう休養に努めることに決めて、就寝の支度をするのでした。

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