出立
まだ東の空も白み始めたばかりの早朝。
真新しい「クラルテアイリス」に袖を通し、その上にいつものように外套を羽織ります。寝巻きを綺麗に畳んでマジックバッグに収納し……これで、もはやこの部屋で行う事は有りません。
「イリス様、忘れ物はございませんか?」
「あ、はい、昨夜のうちに確認は済んでます、大丈夫です」
最後にもう一度、この一月と少しの間、寝泊まりしていた部屋を振り返ります。もともと一時の仮宿であることは承知の上でしたので、嵩張る様な物は何も増やしてはいませんでした。なので、片付けたとはいっても主に掃除であり、それほど風景が変わったわけではありませんでした。
しかし、すっかり綺麗に清掃され、シーツやお布団は畳まれたその部屋は、もう帰ってくる場所ではないのです。その心境故か……同じ部屋であるはずなのに、どこか違う知らない部屋のような寒々しさを感じました。
「……さ、早く行きましょう。兄上様たちも下でお待ちしておりますよ」
「……はい。すみません、行きましょう」
未だに背を引く未練と寂寥感を振り切り……その部屋を、後にしました。
まだ吐く息が白い、澄んだ空気の朝。早い時間であるため見送りの人はそれほど多くありませんが、以前治療した娘達など、それでもまばらに見送りに来た人たちが見えます。
「皆さん、短い間でしたがお世話になりました。この町の為に色々と尽くしてくれたご恩は、決して忘れません」
「いえ、こちらこそ、色々と便宜を図っていただきありがとうございました。私たちにとってこそ、お二人……いえ、この町の皆さんは、恩人です。どうもありがとうございました」
少し離れた場所で、ルドルフ町長さんと、私達の代表として兄様が別れの挨拶をしています。そして、私は……
「本当に……ありがとうございました……っ」
少し、声が震えた気がします。涙声になってはいないでしょうか。まだ我慢しないと。お別れは、笑って終わらせようと決めたではないですか。
「寂しくなるねぇ……元気でやるんだよ。はい、これ持っていきな」
ミランダおばさんから、結構な厚みのある纏められた紙の束、帳面を渡されます。
「これは……?」
ぱらっと捲ってみると、最初に開いたページに書かれていたものは、料理のレシピでした。ぱらぱらと捲っていくと、そこにはたくさんの料理やお薬のレシピが手書きで書き綴られています。
「あの、おばさま、これは……っ!?」
印刷ではない、まだ真新しい手書きのレシピ帳。これだけ書き記すのは、どれだけ手間がかかったのでしょうか。ばっと顔を上げると、おばさんは照れ臭そうに頬を掻きながら笑っていました。
「本当は、もっと色々教えてあげたかったんだけどねぇ……よかったら、持っていきな」
思わぬ贈り物と、優し気に微笑むおばさんに、もう、我慢が出来ませんでした。どうにかずっと堪えようとしていた涙が限界を迎え、あふれ出して零れ落ちます。帳面を胸に抱きかかえ、その懐に思わず飛び込んでしまいました。おっと、と少しだけ慌てたような声が聞こえましたが、もう、止められません。
「私はっ……こうやって、色々教わったのはっ、初めてでっ……まるで、もう居ないお母さんと一緒だったみたいで……っ! 凄く、凄く……嬉しかったっ!!」
まだ子供の頃に死んでしまった母さん。『僕』であったころ、たとえ身体的な理由で世話になる側の身であったとしても、兄として最後の意地として、こういう弱みを見せるわけには――綾芽の前で「寂しい」だなんて、言うわけにはいきませんでした。しかし、その思いはいつしか気が付かないうちに澱の様に底に溜まっていたのでしょう。
だから本当に、嬉しかったし、楽しかったんです。まるで、もう居ない母さんに色々教わっているみたいで。永遠に訪れない筈の機会を体験できたようで。残ることは迷惑になることは重々理解しています。ですが、別れたくない、離れたくない。やっぱり寂しいです……っ!
――だけど、それは絶対に口にしてはいけない事。代わりに、しばらくその胸に抱かれて泣きじゃくります。拒絶はありませんでした。そっと回された手に、背中をぽんぽんと叩かれます。
しばらくその振動に身をゆだねているうちに、徐々に落ち着いてきて、ひっく、ひっくとしゃくりあげるだけになってきました……そうすると、今度はやってしまったという羞恥心がむくむくと頭をもたげてきて、慌てて顔を離しました……鼻水、出てないですよね?
「ご、ごめんなさい、私ったら……迷惑ですよね、忘れてくだ……きゃ!?」
今度は、逆に抱きしめられ、目を白黒させます。そっと顔を上げると、僅かに涙をにじませたおばさんの苦笑いにぶつかりました。
「そうかい……そんな風に思っていてくれたのかい。迷惑なもんかい、こんな可愛い娘なら大歓迎さ。それじゃ、またいつでも好きな時に遊びにおいで……「この子」のお姉さんとして、いつでも歓迎するからね」
「……え?」
ふと耳に飛び込んできた言葉に、思わず涙に濡れた顔を上げます。そんなおばさんは、片手で自分の下腹部のあたりを抑えています……まさか。
「はは……私達は、今までどうにも子宝には恵まれなかったんですが……ここにきて、ようやくです」
「私も、正直30も過ぎて半ば諦めていたんだけどねぇ……きっと、貴女が連れてきてくれたのね」
背後で、照れたように頭を掻く町長さんと、もう片方の腕で私を軽く抱いたままのおばさん。その会話の意味が、じわじわと浸透してきます。
「……それじゃあ、ここしばらく調子が優れなかったのは」
ずっと伏せがちだったのも、食欲がなかったのも。では、初めて会った時にはすでに、そのお腹には……
「心配かけたみたいね……そうだ、お腹触ってみるかい? 貴女に祝福してもらえたら、きっと元気に生まれて来る気がするわ」
「はい……はい、是非!」
涙を指で拭って、そっと、どうか元気に生まれ育って欲しいと祈りながら、促されるままにまだ何も変化のないその腹部に触れます。
……触れた感じでは、まだ何もわかりません。しかし、今この下では新たな命が育っているのだと思うと、生命の神秘というものを感じざるを得ません。
そして、それは、今はまだでもいずれ近いうちには私も獲得するはずの体機能です。今はまだ全く実感は持てませんが、いつかは私もこのように新たな命をお腹に宿し、母親になる日が来るのでしょうか。
「……ここに、もう居るんですね。凄い……」
「そうねぇ……貴女も、いつか、こうして母親になるのでしょうね」
「……えっと、正直、私にはそういう時が来るのが全然想像できません……でも、本当に凄い」
語彙力が低下している気がして情けないですが、それ以外言葉が出て来ません。
「だけど、こういうのは焦ったら駄目よ。一杯色々な人に会って、色々な物を見て、その中で本当に大切な人を見つけて……自分は大事にしないと駄目よ?」
「……はい」
「まぁ、心配しなくても貴女なら大丈夫かしらねぇ」
「……?」
疑問符を頭に浮かべつつおばさんの視線の先を見ると、苦笑している兄様と、そっぽを向いて頭を掻いているレイジさん……って、周囲の皆が生暖かい視線でこちらを見てます!?
途端に恥ずかしくなってぱっと離れます。感情が昂っていたせいですっかり意識から抜け落ちていましたが、ここには見送りの人が大勢いたのに、私はなんという痴態を……!
そんな羞恥に駆られている私に苦笑しながら、レイジさんが私の肩を叩き、出立を促します。
「では、皆さん、お元気で。また今度来たときは、歓迎します」
「それじゃ、いつかまたおいで、今度は……三人で、待ってるからね」
その言葉に、まだ完全に涙の止まっていない顔に精一杯の笑顔を作ります。これ以上、心配はかけたくはありませんから。
「はい……きっと、いつかその子の顔を見に来ます! その時は、この戴いたレシピもきっとマスターして、おばさまたちにも食べて頂きます、きっと……っ!」
「それじゃ……行くよ、イリス。今までお世話になりました」
促され、商隊や傭兵団の皆さんを待たせている町の外への道を、歩き出します。周囲から投げかけられる温かい声、その中に混じる、「ありがとう」という感謝の声。
気が付いたら衝動的に、外では人前では基本的にはずっとかぶっていた外套のフードを取り払っていました。朝日に照らされて、きらきらと淡い虹色に煌めく髪が視界の端で宙を舞います。左右で兄様やレイジさんが驚いていますが……それでも最後だけはちゃんと自分の意志で、フード越しではなく素顔で感謝を伝えたかったと、そう思ったんです。
そして振り返った途端に、一斉に視線が集中します。今回だけは、恐怖心はありませんでした。お腹に力を籠め、できるだけ大きな声で、喉を震わせます。
「皆さん! 本当に……本当に! お世話になりました!!」
深々と頭を下げると、しばらくの沈黙の後、またな、頑張れよ、様々な声援が飛んできました……って、誰ですか、「嫁に来てくれ」って言ったのは、もう!
思わず、笑いが漏れました。その笑いの衝動のままに顔を上げて精一杯の笑顔を残し、今度こそ、私達はここを立ち去りました。
町を出て、商隊や傭兵の方々と合流した後、行商人の皆さんの厚意で宛がわれた馬車の座席の一角に私とレイジさんが隣り合って一緒に腰かけています。やや離れた場所には、私の面倒を見る様に仰せつかっているらしいレニィさんが、極力目立たないように静かに座っています。
ちなみに、私達は今、護衛の傭兵団の馬車に挟まれる形で真ん中に配置された商人たちの馬車に居ます。治癒術の使える私は最も安全な場所を満場一致の賛成で宛がわれ、レイジさんとレニィさんはその護衛だそうです。こうして特別扱いしていただいた以上は、何かあった時は頑張らないと。尤も、その何かあった時が来ないのが一番なのですが。治癒術師は暇であるに越した事はないのです。
現在兄様は傭兵の方々と打ち合わせがあるためヴァルターさんと最後尾の車両に同行しており、ミリィさんも戦力分配の関係でそちらに同乗しています。
……最初は誰がここに乗るかで(主に兄様とミリィさんとフィリアスさんの私を抱っこしたいガチ勢が)揉めていましたが、ひとまず一番騒がなかったレイジさんがヴァルター団長の鶴の一声でこの席を勝ち取り、休憩ごとに交代するということで落ち着いたようでした。そのため、時折同乗させていただいた商人さん達のちらちらと興味深げな視線を感じる以外、静かな時が流れていました。
「……いい人たちだったな」
「……はい。本当に……」
ぽつりと呟いたレイジさんの声に、同意します。正直なところ、この一月は散々な目に逢ったと言っても過言ではない筈です。一杯傷つきました。辛い目にもたくさん逢いました。それでもこうして離れがたさを感じているのは、ミランダおばさんやルドルフさんを始め、多くの人が温かく迎え入れてくれたからでしょう。
旅をしていくという事は、こういった別れも繰り返すことになるのでしょうか……そんな不安に駆られそうになった時、まるでそんな心境を察したかのようなタイミングで頭へといつものように大きな手が載せられます。先程の温かい気持ちと、寂しさがないまぜになった、複雑過ぎて自分でも処理しきれない感情がそれだけで静まっていくようで、素直にその腕に摺り寄せる様に体を預けます。
……ふと、こうして別れを体験した今になって、今更ながら気が付きました。私には、「あちら」の世界に未練はほとんどありません。親族と言えるのは綾芽しかおらず、友人と言える者も玲史しか居なかったから。ですが、家族を残してきた玲史さんは? 「僕」と違って向こうに友人も居るはずの綾芽は?
「……レイジさんは」
「ん? なんだ?」
「……いえ、何でもありません、ごめんなさい」
――聞けませんでした。いいえ、聞くのが怖かった。向こうの家族に会えなくて寂しくないかと、このような事態に巻き込まれて憤りはないのかと。そんな私の疑念を見透かしたかのように、軽くこつんと頭が叩かれます。
「言ったろ。俺は一緒に居るって。多分、ソールもな」
「……はい」
材木の流通ルートであるという事で整備された、辺境という条件の割に驚くほどきれいに整えられている街道を進む馬車は思っていたよりも揺れず、ガタゴトと、穏やかな振動だけを伝えてきます。
私達の宿縁の地であるノールグラシエ王国。その国境まで……あと、三日の予定です。
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