『イリス』
ソール→イリス→???の順に視点が変わってます
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十分に離れた場所で、腕に抱えたイリスを下ろし、民家の壁を背に座らせる。
腕に抱いているときからずっと、生きているのか不安になるほど冷たく体温が凍り付いていた。
顔色は青く、桃色だった唇も紫色に青ざめている。はだけた服の隙間から覗く肌には所々締め付けられた跡があり、中には骨折しているのか酷く腫れた場所もある。
みすみす一人を危険に晒した。
盾職としてあるまじき失態だった。
痛々しい様に自責の念がぎりぎりと胸を締め付ける。
マジックバッグの中から小指ほどの大きさの小さなビンを取り出す。いざというときのお守りとして常に持っていた『世界樹の滴』、ゲームの時でも最高クラスの回復アイテムだった。
アンプル状のそのビンを折り、イリスの口に含ませようとして……意識の無いこのまま飲ませるのは不安だと思い直し、失敗して吐き出した場合の事を考え、止める。
一部レイドボスのドロップ品で、ゲームの時はハズレ扱いだったとはいえ、今となってはとても希少な薬で、これを失敗したら他に今使えそうな物は持っていない。
ならば少しも無駄にするわけにはいかないと、自分でその中身を口に含み、そのままイリスの口をぴったり覆う形で唇を重ねる。
そうして、舌をイリスの小さな口に差し込み、舌の上に集めたそれを喉の奥に流し込む。
一度吐き出そうと咳き込む気配があったが、跳ねる体を押さえつけ、舌で奥に押し込んで無理やり押しとどめる。やがて、こくりと喉が鳴り、間違いなく嚥下したのを確認してから、ようやく口を離した。
「……んぅ……くぁ……っ!」
嚥下した直後、何かに耐えるような呻き声をあげ、イリスの体がぴくん、ぴくんと跳ねる。今嚥下した薬と、奴に流し込まれた呪詛が戦っているのだろうか。あとは……無事に効いてくれればいいのだが。
ゲームの時と同じ効果とは限らない。奴に荒らされ乱れに乱れた衣服を直してやりながら、祈る気持ちで、苦し気に呻くイリスの容態の経過を見守る。
……その効果は、劇的だった。
肌蹴た服の内に覗いていた、痛々しい痣が淡い光を放って消え、青ざめていた顔はすぐに血色を取り戻し始める。睫毛を震わせて、ゆっくりと、瞼が持ち上がる。
まだ体の自由は戻っていないようで、のろのろと上がる小さな手が私の服を掴む。その焦りに揺れる目は、一人戦場に残った玲史さんへの心配故だろうか。安心させるようにその頭に手を載せる。
「心配しないで。私は玲史さんを助けて来る。体が動くようになったら、お兄ちゃんは町のみんなと一緒に避難して」
頭を撫でながら告げると、びくり、と服を掴んでいる手が揺れる。
「聞いて。私達だけでは足りなかった。きっと、こういう事は今後沢山あるんでしょう。なら、一緒に戦ってくれる仲間を集めるの。きっと私達みたいにこちらに飛ばされた人はまだまだいる。信頼できる人も中にはきっといるはずよ」
イリスがイヤイヤと首を振る。その縋るような目が己の失言を悟った。これではまるで死にに行くように聞こえただろうか。まったく、そんなつもりは毛頭ないというのに。相変わらず臆病なお兄ちゃんなんだから。
「安心して、まだまだやりたいことは一杯あるもの。お兄ちゃんを色々着飾りたいし、愛で足りないわ。抱き枕にして寝てもみたいし。一緒にお風呂もまだだし、お肌や髪のお手入れの方法も教えてない。お化粧のしかたも、スキンケアも。女の子の日が来たらお赤飯を炊く役目も誰にも譲るつもりはないし。こんなところで退場なんてしてられないわ。あいつを連れて必ず帰ってくる。だから……信じなさい?」
ようやく、おそるおそる手が離れた。若干恐れのような引いたような視線が混じっている気がしたが多分気のせいだ。ああ、本当、こんなところでなんて死んでいられない。やりたいことは山積みだ。
「……なん……でも、してあげるから……お願い、ちゃんと……無事に……」
ようやく、口も動くようになったらしく、弱々しく紡がれる言葉に、内心ガッツポーズを取る。
よし、言質は取った。
これで恥ずかしがって拒んでいたあれこれもこの言葉を理由に強制できる。絶対に履行させるのだ。帰ったらあれもこれもしよう、ああ、凄い楽しみ。やばい鼻血でそう。
「……その言葉だけで負ける気がしないわ。じゃぁ、ちょっと行ってくる!」
あの無茶な馬鹿の襟首をひっつかんで、今度こそ一緒にいるために。
遠ざかっていくソールの背中を眺める。
嘘だ。
死ぬつもりはないというのは嘘ではないだろう。
だけど、勝てる見込みがあるとも思っていない。
十何年も一緒に居たのだ、綾芽の癖なんて、本人が知らない物でも知っている。最後、左の頬を指で搔いた。あれは自信が無いのを誤魔化すときの癖だ。
こんなところで座り込んでいる場合じゃないのに。さっきの、あっというまに無力化され、許容範囲をはるかに超えた苦痛に晒され、まるで紙屑のように純潔まで奪われかけた記憶は体に焼き付いており、自分が捕食される側でしかない事を思い知らされ、立ち上がることができない。
レイジはまだあの場で傷つきながら戦っているのだろう。
ソールも、勝てる見込みは殆ど無いのに、その場へと踏み出した。
なのに、僕は、動きたくても、心が折れて動けない。
この世界に来た時の記憶がふと蘇る。あの自分が作り変えられるような感覚。本当は、きっとあの時に僕は消え、『イリス』として生まれ変わっていたのだろう。ずっと目を逸らしていたけど、本当は『僕』がここにいることが本来の予定と違うのだ。
ねぇ、イリス。君なら……『イリス』だったなら、二人を助けることができたのかな。
僕は駄目だったけど、君に任せたら……本物の『光翼族』である君だったら、皆を助けてくれるのかな。
もしできるなら……僕が消えたって構わない。僕の持って行ったすべてを返すから、お願い、助けてよ。
救いを求め伸ばした手が、誰かの手に触れた気がした。
……真っ暗な闇の中に、小さな傷だらけの女の子が座っていた。
膝を抱えて泣くその女の子から、時折ひっく、ひっく、としゃくりあげるような声が聞こえる。暗い闇の中で、その女の子は膝を抱えて泣いていた。その白い裸身は全身くまなく無残な傷に覆われ、弱々しく明滅する小さな光る翼は今にも消えてしまいそうだ。
自分には無理だ、だから彼女に助けてほしい。そう思った。
だけど、『イリス』は、こんな傷つきやすい小さな女の子でしかなくて。
ああ、そうか。僕は、こんな小さな、儚い子にすべてを押し付けて、逃げようと、消えようとしていたのか。『僕』だけでも、『私』だけでも抱えきれるはずが無かったのに。
――ごめん、一人にしてしまって。
女の子は、涙を流しながら首を横に振る。
本来、僕ら二人分で持つはずだったものを一人で占有し、君をこのような暗い場所に押し込め、辛い物だけを押し付け続けたのは僕。謝る必要なんてないのに、消してしまってごめんなさいと泣き続ける君。
なんとなく、理解する。君が、あの時消える僕を逃がしてくれたんだ。本来自分の物であったものを僕に明け渡して。
――僕は、君から奪ったものを物を返しに来ただけ。
――だけど、そのせいであなたは消えてしまう。
――違う。これはもともと君のくれたものだ。そして……もともと、僕らに境界線は存在しなかった。
君は、『イリス』を演じる僕から生まれた存在なのだろう。僕の思い描いた架空の女の子が、大勢のプレイヤーの望みを糧に、そうありたいと思った僕の意志で。だけどその本質は変わらず僕であり、故に消えるんじゃない、一つに還るだけなんだ。君も、僕も、きっと望んでいる物は同じで。同じ方向を向いて。同じものを見ている。僕と君が僕たちを分けてしまっただけで、元々は同じ
――だから……協力してほしい。二人を……
正面へと回り、手を差し出す。
女の子が、一瞬ぽかんとした表情でこちらの手と顔を凝視したあと……ふわりと、花の綻ぶような微笑みを浮かべて手を取った。
僕が、消えていく。
僕が、彼女に変わっていく。今度こそ。
怖くなんて無かった。まるで足りない場所が埋められていくようで、こんなにも……安心するなんて――…………
――不思議な、感覚でした。
元々の『僕』だった記憶は確かに存在し、それは全て自分の体験してきた事、自分のものだという自覚は変わっていませんでした。
僕は僕。それはきっと間違いないのでしょう。
しかし、同時に、『イリス』という女の子であるという自覚もこの胸には存在している。今までは、どうしても心のどこかで自分のものと思えずにいたこの体も、違和感なく受け入れていました。
背中に、熱を感じました。全身、特に背中の感覚は鋭敏になっており、今までは不鮮明だった自身の中の力の流れを鮮明に感じとれます。
軽く意識をするだけで、今までよりずっと自然に光翼が出現しました。ここしばらく身を苛んでいた違和感は完全に消え、今は自分の体の一部として自在に操れます。
震えは、止まっていました。やるべきこと、やりたいこと。そして……やれること。それが、今はとてもよく見えます。
「……さぁ。二人が待ってます。助けに行きましょう――『私達』で」
『私』は、未だ戦闘の続くその場所へ、最初の一歩を踏み出し始めました。
【後書き】
ここから、主人公視点の地の文の口調が変わります
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