心的外傷
悲痛な、女の子のしゃくりあげる泣き声が、部屋に嫌に響いている。
「ひっく……ごめ、なさい……兄様、兄様ぁ……ごめん、ひっく、なさい……」
汚れた服を脱がせ、身を清めて新しく清潔な部屋着を着せている途中でようやく意識を取り戻したイリスが、ソールに抱き留められて泣いている。
しかし……様子がおかしい。あいつ……柳がこんな泣き方をするだろうか。
どう見ても、イリスの状態は演技ができるような状態ではない。ならば、この次々とあふれる大粒の涙を手の平でぐしぐしと拭い泣きじゃくる子供のような泣き方は、本当にあいつのやっているものなのだろうか。知らぬ他人のような……まるで子供の、10代に入って間もない見た目相応の普通の女の子のようだ。
嫌な予感が、止まらなかった。
泣き疲れて眠ったイリスをベッドに横たえ、廊下に出た俺とソール。先程から何か考え込んでいたソールが、先に口を割った。
「レイジが言っていた今までのイリスの状態と、さっきのイリスの様子を見て、一つ思うものがある」
「本当か?」
「……多重自己状態。専門分野じゃないし、ちょっと見たことがあるだけだから間違ってるかもしれないけど」
そう前置いて語られたものは、こういうものだった。曰く、人は、状況や相手によって使い分ける複数の人格をもともと有しているものだという。しかし、同時に、異なった自己状態における複数の視点や感情状態を、同時に抱えることができる機能も俺たちの精神はもともと有しているのだという。そのため、大抵は、それらは認識や記憶が共有されているものらしい。つまり、人はみな多重自己状態というものがあるということだ。
しかし、通常であればそれぞれの自己状態間の相互連結が容易に可能なのに対し、心的外傷を受けた場合、この行動が行われないことがある。強いストレスなどを受けた際に、自己の防衛のため、その共有された認識や記憶を断絶させ、「これは現実ではなく、自分に対して起こっていることではない」と、現実から逃避する別人格を作ることがある、というものだ。
「つまり、さっきのあの……まるで普通の女の子にしか見えないイリスは……あの時大きなダメージを受けた部分を『イリス』という女の子の物として切り離された人格……ということか?」
「そう、多分……主人格として表に出ているお兄ちゃんの部分は、『元が男だったから、自分がそんな目に遭うわけがない』 そう思い込んで他人事にすることで、PTSDを軽減してるんだと思う」
思えば、外に出ずに俺たちとだけあっていた時のあいつは、あの時の記憶のことをそれほど気にした風ではなかった。それこそ、どこか他人事のように。
「でも、当時の状況……複数の人間に囲まれて視線が集中している状態に晒されてしまうと、恐怖心のほうが肥大して、それを抱えた『イリス』の人格部分が表面化して……」
「それで、あのパニックか……じゃぁ、それ以外の時は? あの状態になるまでにも、色々しんどそうにしていただろ?」
「それは……多分、慢性的なものだと思う。『お兄ちゃん』のPTSDは、それこそ十何年も苛まれてきたものだから」
悪化はしたものの、あれはまだ今までの物の延長線上のものでしかない、と。つまり。
「今度のアレは、新しく負った別の心的外傷……ってことか」
女の子になってしまった直後に……というよりも、変わってしまったこと自体もか。そのことを受け入れることもできないまま、逃げ場のない恐怖と絶望的な状況で痛めつけられ貞操を失いかけるという、突然加えられた強いストレスが、新たな心的外傷を作り上げてしまった、と。
「問題は……あれまで慢性化しちゃうと……まずいかもしれない」
あの反応はとても凶悪なものだった。あれが恒常化して、常に心の休まらぬ日が連続してしまえば、いつ、心が限界を迎えるか分かったものではない。一度であれだけボロボロなのだ、すぐに力尽きるのは目に見えている。
「それに、『無事な部分』の大部分を占めているのが男の部分というのも問題なんだ。今はまだ自分の体を認め切れていないから、どうにかなっているけれど……今の『イリス』の体は完全に女の子だから。体機能も、多分体でやり取りされている化学物質とかも全部女の子の物。今の体に慣れれば慣れるほど、主導権は『イリス』の側に傾いていくんじゃないだろうか。危ういのは、不安定なのは、逃避先のはずの『イリス』の人格じゃなくて、お兄ちゃん……『玖珂柳』のほうの人格のほうだと思ってる」
「じゃぁ……このままだと」
「いつか『イリス』のものに全部置き換わってしまうという可能性があると思う……『玖珂柳』っていう人格は消えるか、分からないほど小さくなって、あの傷だらけの『イリス』だけが残ってしまう……」
背中に冷や汗が伝う。それほど時間が残されているようには到底思えない。
「なら、どうすれば!?」
「分からない! 私が知りたいくらいよ!!」
焦って答えを求める俺に、吐き捨てるように、激高してソールが叫ぶ。ぎりぎりと血が出るまで自分の指を咥えるソールは、本当に悔しそうだ。
「……悪い、一番心配してるのはお前なのに」
「こちらこそ、冷静さを失ってごめん……けど、一つ言えるのは、多分またあの症状が出るたび、どんどん『お兄ちゃん』の人格は飲まれていくと思う……それだけ、あのショック状態はイリスには強烈すぎる」
「つまり、あの症状を治すか……もうああいうことが起こらないように守るしか、俺たちにできることは、無いのか」
最良は、意識の断絶を解消し元の正常な状態に回復することだが、それには一歩間違えれば取り返しのつかなく恐れが高く、俺たちには、どうやったら治療できるかなんてわからない。であれば……。
いつのまにか、一人で歩いていた。
まるで氷のような質感の、結晶のような物体でできた建物。
たしか……ノールグラシエ首都にある、王宮の離れの一つがこんな感じだったような気がする。
目の前を、見た目20代後半から30代前半くらいの、体格の良い威厳のある男性が、誰かをエスコートして歩いている。
こちらは10代のように見えるが、妹か、娘か。全体的な印象は先ほどの男性とあまり変わらないように見える。
仲睦まじく歩く二人の視線が、不意にこちらを向く。
……
…………
………………どうして。
どうして、あなたがここに居るんですか。
僕の知っている姿よりずっと若いけれど、見間違えるわけがない。
僕を庇って刺されたあなたの、それでも僕を安心させようと微笑んだあなたの顔は。
ほとんど残っていなかった事件の記憶の中で、強く僕の脳裏に焼き付いているのに。
――母さん!!
――待って、どうしてあなたがこちらの世界にいるの!? 答えて!!
必死で歩を進めるも、連れ添って歩く二人に追いつけない。
母さんはゆっくり歩いているのに、なぜか距離が縮まらない。
それでいて、付かず離れずの位置を維持したまま、まるでどこかに僕を誘導するように。
ここは、どこだろう。
長い長い、螺旋階段を下ってきたような気がする。
真っ暗な闇の中に、小さな傷だらけの女の子が座っていた。
膝を抱えて泣くその女の子からは、時折ひっく、ひっくとしゃくりあげるような声が聞こえる。
――ごめんなさい。
――何故、泣いているの。
――あなたを、消してしまうから。
――僕を?……君は、誰?
――私は……
顔を見ようと、手を伸ばしたところで、ふと気が付く。
見たことのある髪だ。仄かに虹を纏うそれは……
気が付いたら、目の前に座っていたはずの女の子が居ない。
……居ないのは、
「……あれ。ここは」
いつの間にか、見慣れた天井の部屋に寝かされている。頬を、何か液体が伝い、枕を濡らしている感触がする。
確か、帰り道に、誰かとぶつかって……以降の記憶が飛んでいる。
どこか、不思議な場所に居たような気がする……しかし、目覚めると同時に記憶はみるみる霧散し、もはや何も思い出せない。
「……起きたか」
「レイジ……さん、それにソール兄様も。……どうなさいました、怖い顔で」
暫く、何か言おうとしては、止めるレイジ。その歯切れの悪さに首を傾げていると、一つ大きなため息を吐いて渋々と語りだす。
「……明日からは、被害者の治療に回るのは休もう」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……休むって、なんでですか?」
「まったく依頼をこなさないわけにもいかないから、私たちは留守にすることも増えるだろうけど、ミランダさんにはもう伝えてある、イリスはしばらく安静にしてるんだ」
目を逸らし、苦悩の表情で告げるソール。すでに、その方向で話が進められているようで。
「ま、待ってください、なんでもう決まったように話してるんですか!? 私が倒れたから? で、でも、ほら、もう特に問題は」
「問題は……あるんだ」
ぎりっと拳を握りしめたソールの口から、僕の身に起きていることが、二人の口から語られる。
……何を言っているのかよく分からない。いや、分かるけれど、理解を拒んでいる。このままだと、『僕』が消える……?
「あくまで可能性の話だ。落ち着いたら、一緒に解決方法を探そう……だから、まだしばらくは安静にしていてくれ、頼む……お前の、ためなんだ」
その言葉に、僕は呆然と頷くことしかできなかった。
――ごめんなさい
誰かが、耳元で何かを言ったような気がした。
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