解決
「……う」
ぼんやりと意識が浮かび上がる。
知らない天井だ。寝かされているベッドは清潔で、陽光の元で干された物特有のふかふかの感触といい香りを伝えて来る。少なくともあの場所でないことに安堵を覚え、体を起こそうとして
「……いっ、くぁ……っ!」
動かそうとした部分からびりっと痛みが走り、全身の力が抜け再びベッドに体重を全て預ける。気分は決して良くない。頭には靄がかかったようにぼーっとするし、魔力がまだ半分も戻ってなさそうな、体の中の何かが足りていない脱力感もあり、加えて全身から疼くようなじりじりとした疼痛と、熱っぽさを感じる。どうやら、全身熱を持っているのかコンディションは最悪らしい。
「……あ、お兄ちゃん、目覚めたんだ」
入り口であろうドアから入ってきた人影……綾芽、いや、今はソールか。が、桶に組んだ水をこぼさないように小走りに駆け寄ってきた。
「……どうしたの、どこか痛い?」
気遣わしげなその言葉にふるふると首を横に振る。また会えた……その思いが、胸を一杯にし、あふれた滴が優しく頬を濡らしていた。
全身に巻かれていたらしい包帯と、その下のガーゼ類が外されていく。
絞った柔らかな布切れで、傷口が痛まないように優しく体を拭き取られる。
今の状況を対外的に見たら、イケメンの兄が思春期くらいの妹を裸にして全身を拭いているという中々にインモラルな光景なんだろうなぁと熱に浮かされた頭でぼんやりと考える。
「ごめんね……本当は傷薬を使ってあげたかったんだけど、それだと傷が残るかもしれないから……」
自分が目覚めて回復魔法を使用するのを待っていたらしい。
あれからすでに三日も経過しているということに驚く。
何にせよ、治療だ。
部分的に化膿している所もあるので、最初に浄化魔法『ピュリフィケーション』で全身を清め、その後念のため、高位の『アレスヒール』を使用する。みるみる全身の傷は嘘のように跡一つなく消え、もとの傷一つない白磁の肌が現れる。
しかし、次の変化がすぐに表れた。急激に体温が上がったように気分が悪くなり、ふらふらと再び寝台に倒れこむ。
怪我の治癒に少なからず体力を消費することと、もしかしたら病原菌を活発化させることもあるのかもしれない、今後は病人への使用は慎重に行なったほうが良さそうだな、とぼんやりと考える。
「……これ、薬。飲んで」
予想していたらしく、あらかじめ用意していたらしい小さな錠剤が口に入れられた。固形のそれをゆっくりと匙で含ませられた水で嚥下する。
乾ききった喉にややぬるめの水が心地よく、貪るように、次を催促すると、一口分ずつ、落ち着くまでゆっくりと水が口に含まされる。
そうして人心地着くと、全身の疼痛が無くなったため多少楽になったが、それでも全身の熱っぽさはどうにもならず、顔に触れる手のひんやりとした心地よさに、たちまち睡魔に飲まれていった。
次の目覚めは、割とはっきりしていた。ベッドの左右には武装を解いた街服姿のソールとレイジが居り、それぞれ片手ずつ手を握り、それぞれ心配げにこちらを覗き込んでいる。
「良かった……目が覚めたか」
「お兄ちゃん、まだ具合悪くない、大丈夫?」
深く安堵の意気を吐き出すレイジと、こちらを心配げに覗き込むソール。熱は引いたらしく、多少の気怠さは残るものの、特に問題はなさそうだ。
「……帰って……こられたんだ……」
もう、駄目だと何度も思った。
慣れない本物の血の通った少女の体のまま、知らぬ男たちの慰み者にされ、壊れていくのかと怖くてたまらなかったが、それでも僕はここに……二人のところに帰ってこられたのか。
再度安堵と嬉しさの涙が頬を濡らし、たちまち嗚咽が止まらなくなる。
「ごめんね……一人にしてごめんね……!」
「ああ、悪かった……今度こそ、一人になんてするものか」
すっかり体格の逆転したソールに優しく抱き止められ、嗚咽の止まらぬ背中をレイジが優しく擦る。
辛かった。
恐ろしかった。
けれど、それ以上に心細かった。
変わってしまった世界で、変わってしまった体。そのうえ、二人がこちらに来ているかどうかも分からない。
連絡手段がない以上その疑念を拭うことは不可能で、もしかしたらもう会えないのではという不安。
――その不安が春の雪のように溶けていく。もはや自分の意志で感情はどうにもならず、しばらく、二人に抱かれたままわんわんと子供のように大泣きしてしまった。
「……ごめん、もう大丈夫……ありがとう、二人とも」
落ち着くと、先ほど泣いていたことが気恥ずかしくなってしまう。
「それで……」
「起きたばかりで悪いんだが……お前に、どうしても会いたいってのがいてな」
途端、真剣な顔をする二人。僕に逢いたいという他の人。その言葉で脳裏に浮かぶのは一人しかいない。体がびくっと震え、手がかたかたと震えだす。
「無理だったら、言ってね……?」
「一応、言っておくと、こいつが俺らを呼んだから、お前を助けに行けた……それだけは、尊重してやってくれ」
正直に言えば怖い。もしかしたら、顔を見た瞬間心無い言葉をぶつけてしまうかもしれない恐れに、決して短くはない時間逡巡する。……しかし、そんなレイジの言葉に……僕は、はっきりと首を縦に振った。
入ってきた人影に、視界がぐぅっと狭まる。
耳から入る音がやたら遠くに感じる。
心臓がばくばくと早鐘のように打ち、だらだらと嫌な汗が伝い始める。
全身の震えが止まらず、震えを抑えようと我が身を抱くも当然ながら効果は無い。
呼吸が乱れ、息苦しさを感じる。
二人以外の人物が視界に入ったとたん、逃げたくてたまらないのに、腰から下、下半身からすうっと力が抜けていく。もうこの体にあの傷は無いというのに。
昔と同じだ。周囲の誰も……祖父母と、綾芽と玲史以外を拒絶していたあの時と……いや、あの時よりも悪化しているかもしれない。
違うのは、脳裏に浮かぶのが包丁を構えた男だけではない。ニヤニヤと好色そうにこちらを見下ろすあいつらだ……怖い。たまらなく怖い。かちかちと、歯が鳴る音がやけに耳に響く。
「……おい、大丈夫か。無理すんなよ?」
……きっと、よほど酷い有様らしい。だけど、やらなければ。きっと、ここでこのまま震えていたら、彼は二人に追い出され、二度と会話する機会は無い気がする。
「だい、じょうぶ、話をさせて……?」
心配げに、今は止めておくかと告げるレイジに、首を横に振る。
確かに、たまらないほど恐ろしい。
だけど……どれだけ怖くても、逃げては誰も救われない。
怖くても、一歩踏み出さなければ彼は救われない。
それにここには二人も居る。あの時とは違う、大丈夫、頑張れる。自らを抱く腕を、逃げようとする体をぎりぎりと押しとどめ、そっと床に足を下す。
――三日寝たきりというのは、相当体力を削り弱らせているらしい。わずかにも体を支えきれなかった脚ががくっと砕ける
「嬢ちゃん!?」
慌てて抱き留めた、首を垂れていた人物……スコットさんの腕が触れたとたん、先ほどに増す恐怖感が背筋を駆け巡り、ひぅ、と悲鳴のなり損ねのような音が喉の奥から漏れる。
「あ……す、すまねぇ、怖がらせるつもりじゃ……」
慌てて離れようとするその手を、咄嗟に掴む。震えはさらに増し、顔からは血の気が引いていく。駄目だ、まだ倒れるな。
「や、やめるんだ嬢ちゃん、無理は……」
慌てて離れようとする彼の手を、両手で優しく包む。舌はカラカラに乾き、幾度か声を出すのに失敗するが、そっと肩に添えられた二つの手の感触に後押しされ、必死に喉に力を込める。
「痛、かった、です」
「……え?」
「……噛まれて、すごく……痛かった、です」
傷は消えても、あの痛みは心の奥底にこびり付いている。言葉にするだけで、あの時の恐ろしさは容易く再生されてしまう。だからこそ。
「す、すまねがった、この通りだ……!なんだってする、殺してぇってんならそれも……!」
「なんだって、する……ということは……あなたへの罰は、全て私の一存でいい……あなたの不平不満は関係ない……ということですね?」
「もちろんだ! なんだって構わねぇ!」
よし、言質は取った。
「はい……それでは」
あーん、と口を開く。
この体の口は小さく、それほど大きく開かないが、これくらいであれば大丈夫だ。
「……? 嬢ちゃん、何を……っでぇ!?」
かぷり、と、疑問符を浮かべるスコットさんの手、親指の付け根に力いっぱい噛みつく。ぎりぎりと力いっぱい。
「いででででで!? やめ、嬢ちゃんなにを……っでぇ!?」
たっぷり10秒くらいか。噛みついていた歯を外す。この体の顎の力は弱く、かえって顎が痛い。肉を食い破るほどにはならず、ただ綺麗にそろった歯形が並んでいるだけだった。
「な、なにを……」
「痛かった、ですか?」
小首をかしげ、問いかける。
「……いや、こんなもの、嬢ちゃんのあった目に比べれば」
「……痛かったですか?」
僕の聞きたかったものはそんな言葉ではない、被せる様に、同じ問いを返す。今度は笑顔もつけて。尤も、青ざめて引きつったそれは大層出来損ないな気がするが。
「……いや、こんなもんでおらの罪は」
「…………痛かったですか?」
上目づかいで、三度問いかける。じぃっと。じぃぃいいいいいっと、睨み続ける。
「……う、まぁ……痛がった……な」
「はい、では、これでもう水に流しましょう」
ようやく、望んだ答えが聞けた。
一度とはいえ同じ目に遭わせたのだからもう気は済んだ。
気力を振り絞って笑顔を作り笑いかけると、数言、言葉を紡ぐ。スコットさんの体の周囲を舞った回復術の光が真新しい手の歯形……のみならず、全身の傷という傷を消し去っていく。
……そもそも、裏切られたと言うほうが間違いなのだ。
多少の恩があったとはいえ、あの時のスコットさんは所詮数言交わしただけの他人で、裏切られたというのは「助けてやった」という考えに根付いた僕のエゴでしかない。
なのに……それでも、彼は自分が傷ついても助けを呼びに行ってくれたのだ。
まだ握った手を擦る。ごつごつ、ざらざらした手だ。引っ掛かりなくすべすべで、重い物も持ったこともなさそうな今の僕の手とは違う、この世界で生きてきた人の手なのだ。
彼はNPCではない、ごく一般の、僕が思うほど善人ではなく、しかし僕が思うほど悪人でもない、ごく普通の人間なのだ。
それが、自分の身を挺して助けようとしてくれたのだ。だから、僕の言いたかったのは恨み言ではない。
「……あなたのおかげで、また二人に逢えました……本当に……本当に、ありがとうございます」
声が、どんどん掠れていく。必死に集めた喉の力は激しい勢いで削られていく。他者に触れる恐怖感が消えたわけではない。今も、気力を振り絞らなければ倒れそうだ。それでも……これだけは、伝えなければいけなかったのだ。
「嬢ちゃん……おらは……」
ぽたぽたと、彼の目から大粒の滴が垂れる。最後の気力を振り絞り、どうにか笑顔を維持し微笑みかける。それが、僕の身を案じ、身を尽くしてくれた彼へのきっと最大限の礼なのだから。
「ほんに……ほんに無事で良かった……よがったよぉ……!!」
……あぁ、彼はこんなにも、心配してくれていたのか。
僕を思って流された彼の涙に、胸の内に暖かいものが去来し、僅かに……ほんのごく僅かながら、心の傷が癒されていく、そんな気がした。
そうして彼の慟哭は、僕がついに限界を迎え卒倒し、慌てた後ろの二人にベッドに戻されるまで続いた……と、次に目覚めたときに聞くことになるのだった。
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