第32話「8月9日②」

 アスカの見解がもし当たっているのならば、橘エイジは、アスカのことを振り、キョウコに告白した上で、私――和泉サナのことを好いているという複雑な恋路を持つ男になってしまう。


「いずみんはさ、橘くんがいずみんのこと好きってことまでは知らなかったんだね」

「……うん」


 アスカの言葉に力なく頷いた。冷房の風が縦に動きを変えている。ふと寒さを感じたのか、それとも何かを感じて震えてしまったのか、私にはわからなかった。


「……でも、橘くんがキョウコにコクってたことは知ってた、と」

「……うん」


 いたたまれなかった。アスカに申し訳なくって、ここにいるのが申し訳なく感じた。ペットボトル越しのゆがんだ彼女の顔しか、私は見ることが出来なくて、突っ伏すように背中を丸め、机と、ペットボトルを――交互に見る。多分、そんな私の視線にも、水沢アスカは気づいている。


「……うーん、でもさ、私はそんないずみんのこと、悪い女だとは思わないよ。あの場で私に『でも橘くんてキョウコにコクったんだよ』なんて、言えないもんね」


 アスカの言うとおりだ。私の弱さを、彼女に見抜かれている。申し訳なさこそあったが、彼女は私を楽にしてくれているのだ。甘えよう。


 アスカはさ、それでも橘くんのこと好きなままなの? と純粋な疑問が湧いたが、それを訊くのは無粋なのだろうか、と踏みとどまった。


「……私も言うか迷った。いずみんにも、キョコちゃんにも。でも……キョコちゃんは私の思い知ったら、引き下がりそうだから、ずるいことしてるみたいで言えなかった。正々堂々、私は私の思いを伝えるしかないって」


 強い人間の思考回路だ、私はペットボトルに右手をかける。


「あ、ごめん……私ばっかしゃべって」

「ううん……多分、アスカの言ってることは、合ってる」


 だよね、という無言の圧が、彼女の机に置かれた肘から伝わってくる。


「いずみんは察しが良い」


 これでも私は、勘が良い方なのだと思う。アスカは、私をどうにか取り込もうとしているのだ。橘くんにアスカ自身を向いてもらうために、“橘くんが好きな”和泉サナという子と、仲良くなろうとしているのだ。


「……でも、私のやりたいことは変わらない」

「えっ」


 私がここで何かを発する、ということが、彼女にとって予想外だったのだろう。


「私は、ほとぼりが冷めるまでは、キョウコのそばにいる。キョウコのことを守る。アスカは、キョウコのこと助けてくれた過去があるから、全部打ち明けるけど、私はキョウコが悪い噂の的になるのを防ぐためにエイジくんと別れて、キョウコと付き合っていることにしようとしてる」

「……ま、マジ」


 防音性能の高い自習室――おそらく1年生はこの部屋にはいない。それら全てを踏まえた上で、盗み聞きなどされないことを自負して、この場でアスカに打ち明けた。



 アスカは、突然の私の発言が冗談だと思っているのか、眉毛があらぬ方向を向いているし、右目は訝しく細められ、左目は驚きから見開かれている。


「きょ、キョコちゃんはさ、それで納得してるの?」

「……納得させた」


 私が親友だから信頼してくれている、と付け加えようとしたが、やめた。


「え、エイジくんは……納得したの?」

「ううん……納得はしてくれなかった」


 けど、別れたという噂が、きちんと流れているということはそういうことなのだろう。エイジくんが悪い人じゃなくって、本当に良かった。


「え、エイジくんかわいそうすぎない?」

「そこに関しては、悪いのは完全に私だから。私のエゴで振ったから、キョウコは関係ないよ」

「……あ、危なすぎるよ……いずみん」


 アスカとは、これでも仲良くなった自負がある。こうやって心配してくれるのも、想定内だ。そして、私の覚悟も、十分伝わったであろう。


「大丈夫。私は絶対に大丈夫。キョウコさえ守られれば、それでいい」

「……じゃ、じゃあ私はどうしたら良い?」


 特段何かしてほしいということはなかった。けど、強いて言えば――


「交換条件が出せたら良いんだけど、アスカはまだ……橘くんのこと、好き?」

「えっ?」


 驚きを見せるアスカ。


「うん……橘くんのことは、入学したときから、いいなと思ってから。女子にモテることも知ってたし、今回みたいな件も珍しい話じゃないとは思ってたから……」

「ちょっとやそっとのことで、思いが変わらないの、良いね」


――橘ヨウキには、もったいなすぎるくらい良い子だ。


 そして、私にとっても、もったいなすぎるくらい良い友だちだ。


「んじゃ、交換条件。と言ったら聞こえ悪いかもしれないけど……。橘くんとアスカが付き合えるように協力させて」

「……!」


 私は、アスカに計画を伝えることにした。

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