第31話「8月9日」
翌日、憂鬱な気分で学校へと向かう。ダンスの練習をするから、半袖半パンのジャージ姿。きっとたくさん汗を掻くだろうから、タオルは3枚。制汗剤であるシーフロ、ボディーシート完備。水は2L。これだけでカバンはかなり重たいのだが、これも致し方ない。今日は行かなければいけない理由がある。
『明日話そう』
『全部知ってるなら、話早い』
私は、携帯電話の画面をつけたり消したりしつつ、アスカとのトーク画面を見ていた。朝送ったメッセージに、“既読”の2文字はまだ見えない。
バスに揺られながら次のバス停を待つ。今日は、キョウコが来られない日だ。キョウコからのメッセージは来ている。
『今日からお盆でおばあちゃんの家行くのー!』
『今日はいけなくてごめんねえ』
メッセージの順番が、倒置法のようにちぐはぐなのは、彼女の中でいろいろ考えながら送ったからに違いない。
――今日もセミの声がうるさいな。
五月の蠅と書いて“うるさい”と読むのに、八月の蝉と書いて“
そう、バスの中が退屈なのだ。好きな人が遠くに出かけているってだけで、日常はこんなにもつまらない。
「バスは五野高校前に止まります――」
――もうすぐか。
今日は話す相手がいないから、車掌の声がよく聞こえる。「止まります」と書かれたボタンを押して、荷物を肩にかける。重みがにわかに左肩にのしかかる。
「ありがとうございました」
白い手袋が私の視界の端に入り、バスの段差を降りた。蝉の鳴き声と共に生暖かい風が顔にぶつかってくる。陽光のまぶしさに、思わず目を細め、高校の門をくぐった。
「さすがいずみん。ちゃんと約束の5分前に来てくれた」
校門をくぐってすぐ。入り口の近くに、水沢アスカはいた。
「やだなあ、バスの時間のおかげだよ」
それもそうね、と一言。汗を掻いているあたり、少し早めに来ていたのだろう。約束の時間は8時40分。夏真っ只中である以上、この時間帯なら涼しいなどと言う戯言は言っていられない。
「自習ブース一個借りてるから、そこで話しよ」
「うん……」
この用意の良さ、もしかして……
「実はさ、昨日の帰りに伝えた約束の時間――いずみんにだけ1時間早く伝えてるんだ」
やっぱり――相当話し込むつもりなのかも知れない。
「話早いってことだったけど……聞かせてもらえるかな」
影が、私の方を向いている。私は、ゆっくりと頷いた。
校舎の中に入る。廊下は気まずい。顔が見えないようにアスカが先を歩いてくれているのは、一つの優しさだろう。そんな普通に優しさを振りまける彼女は、振り返ること無く、私に話しかける。
「野辺ッちに頼んどいて自習ブースに冷房つけといてもらったんだ。私優秀でしょ」
「そ、そうだね……」
野辺先生――自分の女バスの部員相手だってのにうだつの一つも上がらないのだろうか。それとも、彼女がただしたたかなだけなのか。
自習ブースは、一つの机を挟んで椅子が4つならべられており、私とアスカは対角に座った。自習ブースは四方のうち、入り口以外の3方向を壁で囲われているため、仲間内で自習するにはもってこいの場所なのだ。お盆前の朝ということもあって、ここを使っているのは、本当に進学を頑張ろうとしている3年生くらいのものだ。
「よいしょ……あ、飲み物買ってなかったね」
「いや、いいよ……私持ってきてるし」
「あ、そう?」
座って直後、開口一番の会話。私は冷たそうにしながらも、大きなペットボトルをかばんから取り出した。
「ガチやん」
「まあね」
アスカの反応は、気まずさやわだかまりを一切感じさせないいつも通りのものだった。だから私は安心したのか、早速切り出すことにした。
「ごめん、いきなり本題。どこまで知ってるの?」
「そっか……だいたい全部って言っても……どこまでが全部か、わかんないよね」
アスカは、どうやら私に弁明のチャンスをくれている。朝冷蔵庫に入れていたペットボトルに右手首を添え、心を落ち着ける。
「とりあえず……どこまで知ってるかによって言い訳になるかどうかが変わってくるから……教えてほしい」
「……なるほど。いずみんがそう言うなら、先に言うしか無いか」
少し諦めたように、ジャージの袖をまくったアスカ。細くて白い二の腕が見える。
「……橘くんの好きな人って。キョウコだ、って思ってるでしょ?」
「……」
そこも知っていたのか。
「んで、いずみんなりに私に気を遣って、キョウコが橘くんと付き合わんでも住む方法を模索した、と」
なかなか鋭い。どこからの情報なのか気になるのはさておき、彼女の話の続きを聞くことにした。
「でもね……残念なんだけど」
アスカは机の上に両手を出してきた。真っ白な指を組み、顔をぐっと私に近づける。
「橘くんの好きな人は……いずみん。アンタなのよね」
「……」
言葉に詰まった。でも、予想してなかったわけでは無い。
「あは……いきなりこんなこと言われても知らんがな、よね~」
アスカはおどけて笑って見せたが、心当たりがあった以上、同じように笑うことなど出来ない。手に触れたペットボトルの外側のように、私の身体から汗が噴き出ている。
「……もしかして、笑えない冗談だった?」
「……うん」
「ごめん」
なぜ謝られているのだろう。それさえもわからなかった。それくらい、私の思考回路はショートしかけていた。多分だけど……私は気づいていた。というか、気づくヒントはかなりあったはずだ。キョウコとではなく、私と連絡を取りたがった節。2人ではなく、私とエイジくんを含めた4人で遊びたがった節。アスカに話しかけていたようで、私と話していた節。さまざまある。私が距離をあからさまに取ったことが幸いし、どうか最近はほとぼりが冷めていたようだったが――
「だとしても大丈夫だよ。私が橘くんのこと好きになることないし……っていうか、私は今、女の子が好きって“ことにして”振る舞ってるんだから、橘くんは勝手に諦めるでしょ」
「……そう甘くないよ」
えっ?
「だって考えてもみてよ。いずみんがエイジくんと別れたのはおとといのことでしょ? その前からずっと……橘くんはアンタのことが好きだったんだって。自分の友だちと付き合ってる女の子でも、好きだからとアプローチかけるような独り善がりな人が、そんな程度で諦めると思う?」
確かにそうだ。そして、その独り善がりさ、について……私は橘くんのことを責めることの出来る立場では無かったのだった。
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