第29話「8月7日」

 拝啓、私の夏よ。ついに、私の思いは本懐を遂げることができました。とは言っても、これが“本懐を遂げた”と言えるのかはわかりません。きっとこのくだらない疑似恋愛は、この夏の終わりと共に、めまぐるしく変わる噂話のように跡形も無かったかのように消えていくのでしょう。

 それでも私は、キョウコを助けるためにという大義名分のもと、私の気持ちに嘘をつかないために、この思いから逃げないために、先に進めることを決めるのです。


敬具



「ということだから……別れたいんだ」


 私たちは、そんなにたくさんの頻度で遊びに行っていたわけではなかった。もちろん、学校では毎日顔を合わせていたからそれに気づいているようで気づいてはいなかった。

 この喫茶店のアイスティーの味を思い出したときにそれを感じた。


「ちょっとさ……わりぃ。なんでそうなったの?」


 ちょうど今、松永エイジ――私の彼氏に位置づけられているエイジくんが疑問を呈してくれたところで、時を戻して振り返ってみよう。今、この喫茶店でアイスティーの味を思い出した経緯を。


 昨日……というかおとといの夏祭りで、水沢アスカが橘ヨウキに告白した。アスカの好きな人が橘くんだって知っていた私は、キョウコが橘くんの事を好いていて、なんと橘くんから最近告白があったことも知っていた。


「エイジくんってさ……私よりキョウコとの付き合い長いじゃん?」

「ん、まあそうだけど」


 納得いかないといって不満げなエイジくんは答えた。


「キョウコに中学時代、何があったかも知ってるよね?」

「……まあな」


 自分が原因だから、とぼそっと呟いた松永エイジ。「サナが今、同じ目に遭ってないの、奇跡って思うくらい」とも続けた。そりゃそうだ。周りから勝手に憶測されて噂を立てられるのと、松永エイジが告白したという事実が元にあるのとでは、外野を黙らせられる度合いは大きく変わってくる。


「おととい、キョウコにとって同じようなことが夏祭りで起こりそうになった。橘くんは『コクった人がいて、返事待ち』と、アスカに伝えてる」

「……だな」


 彼も彼とて頭が悪いわけでは無く、察しよく話を聞いてくれるので、続きの言葉は私が言わなくても大丈夫だった。


「その相手が誰なのか、はヨウキも言ってねえ。また『噂』でキョウコが悪者にされる可能性があるってことなん?」


 アスカは人気者だ。男女問わず、クラス外にも、学年外にも知り合いが多くいる。そんなアスカが振られたというニュースは、瞬く間に学校中を駆け回るだろう。


「噂って、知ってる人と、知らない人が半々くらいのとき、一番尾びれ背びれが着きやすいと思うの。だから私は考えたの。変な憶測をされてキョウコが悪者にされるくらいなら、私が事実を塗り替えてやるって」

「……」


 というのは建前で、私は私の気持ちに嘘をつきたくなくて、こういう名分の元、私の気持ちの行き先を作りたいだけなのだ。だから――


「サナがキョウコのためにそこまでしてやりたいって……想う気持ちはわかる。けど……わざわざ俺と別れてする理由があるか?」


 エイジくんがこういうのもわかるのだ。


「昨日、キョウコとちゃんと話したの。噂には説得力がいるって。あと、インパクトがある方が噂の塗り替えは簡単だから」


 私はアイスティーのストローを口に含んだ。紙ストローを咥えての感触は、口当たりがあまりよろしくない。冷房があまりきちんと効いていないのか、正面に座るエイジくんのてのひらの置かれていた箇所が汗でぬれていた。


「……ってことは」

「うん」


 説得力がある、かつインパクトのある噂の塗り替え。


「彼氏である松永エイジくんと別れ、キョウコと私が付き合ったことにする。キョウコも私も同性愛者だったってことも、クラスに、同じ学校に、レズがいるって言うことも、みんなにとってはかなりの衝撃だと思うの」


 悪い話じゃないでしょ、というのはあくまで私“のみ”にとっての話なのだが、それは置いておいて。


「キョウコは多分、あのままほっといたら橘くんの告白を断って終わる。それは、キョウコにとっては自分の恋心を優先するよりもすごい簡単なことだから、きっとそうする」

「……だろーな」


 キョウコにとって、アスカがどんな存在かはエイジくんにとっても想像が易い。


「でも、そんなことしても、アスカは喜ぶような人間じゃないし、下手をすればキョウコに気を遣うと思うの」

「……」


 エイジくんもそう思うなら、私のこの推測は間違いじゃないのだろう。


「誰にも気を遣わせない方法……ってことなのか?」


 エイジくんがひねり出すように言ったこの言葉に対し、私は首を横に振る。


「みんなのキョウコを見る目が、変わらないための方法」

「納得できない!」


 立ち上がったエイジくん。机に膝をぶつけたせいか、カタンとガラスが揺れた。


「そんなことをしても、好奇の目に晒されるだけだぞ!? 下手をすればキョウコは同性愛者のレッテルを貼られて、この高校生活一生普通のまともな恋愛を出来ないかも知れない! みんなのキョウコを見る目が、一番変わっちまうじゃねえか! それに……お前も――」

「私はいいの!!」


 だって……


「私は、最初から“普通じゃない”から。“まとも”じゃないから」


 最初から茨の道だった。キョウコが好きだと気づいたあの日から、茨の道だった。


「アスカが橘くんから振られたっていう噂のほとぼりが冷めた頃に、『何冗談信じちゃってんの』って思いっきり笑ってやる予定だから。キョウコと付き合うって設定は、夏休みが終わるまで」


 エイジくんは、私の言葉に少々納得したのか、ゆっくり座り込んだ。机の上に置いてあるカフェオレに手を伸ばし、ストローを使わず、喉に通した。ガラスをゆっくりと置いて、彼は言った。


「……じゃ、じゃあさ……俺と別れるっていう“設定”だよな? 夏休みが終わったら、また……」


 言いかけてやめた。確かめたって意味が無いことを、彼は本能的に察したのかも知れない。私が“まとも”じゃないって言ったから、きっと彼も先の言葉を反省したのだろう。


「ううん……でも、これだけは言わせて」


 私は伝票を取り出し、自分のオーダーの『アイスティー  440』のところを見た。最近始めた電子マネーアプリを開き、『松永エイジ』に440円分の電子マネーを送った。


「エイジくんのことは好き。悪い人じゃないし、話通じるし、思慮深くて気を遣えて、たまに強引に男らしくて。私が彼女なのがほんとにもったいないくらいだよ」


 私よりいい人いるって、と言ってしまうと、彼の気持ちをただ否定するだけになる気がするからやめた。


「……もっと、私が“普通”だったら良かったんだけどね」


 そのまま、席を後にするように立ち上がった。アイスティーの味を思い出したのは、ここが、エイジくんと付き合って初めて来た喫茶店だったからだ。最後に少し残ったアイスティーを口に含めば良かったかな、と思ったがそれも無粋だ。彼がどんな表情をしているのか、見てしまうのは申し訳なかったのもある。けど、それだけじゃない。

 きっと溶けた氷で、その味を薄めてしまっているだろうから――

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