第27話「8月5日③」

 金魚が跳ねる。私は知っていたから――なんとかその金魚を拾おうと、しゃがんで手を伸ばした。浴衣だからしゃがみにくい。下駄だからバランスが取れない。私は、慌ててアスファルトに手をついた。掌に、アスファルトの凹凸と、昼間に散々日光に当てられて温まった熱の残りを感じたが、その一方で流れ出た水の湿りを感じて、気持ちが悪かった。


「い、いずみん……知ってた? あっちゃん……橘くんのこと好きだったの」

「……」


 返せなかった。きっと、知っていたらキョウコは自分の恋などさっさと諦めて、彼女を応援したであろう。だって昨日聞いたんだ。水沢アスカは、キョウコにとっての恩人だから、絶対にキョウコはその恩があるから身を引くと、予想できていた。知っていたも同然なのだ。


「実は、こないだダンスの練習して、ジュース買いに行ったときに、聞いた」


 嘘をついたって何にもならない。この私の動揺が、知っていると物語っているからだ。跳ねていた金魚は、早くも力を失いつつある。


「そっか」


 ひねり出すように出たこの一言が、彼女にとって、どれほど辛いモノだろうか、計り知れない。そしてそれは、ある程度察しのいい後ろの男も気づいていた。


「きょ――」

「き、聞こえなかったフリして遠くいこッ! 今ならまだ間に合うから」


 エイジくんの声を遮って私は立ち上がり、キョウコの肩を揺らした。幸い、バスケ部の集団は、告白したアスカと、された橘くんに興味が集まっていて、少し離れた私たちの存在など、気にもとめていない。

 とは言いつつも、無駄なのはわかっていた。キョウコは正直者だから、こんな程度のごまかしが通用しないのは、わかりきっていた。


 ざわめく集団の声の中に、一際大きな声で叫ぶ声があった。


「わりぃ!! 俺にも好きな人っつうか、気になってる人いるんだ!!」


 心臓をどん、と突かれたような衝撃が走った。橘くんの声だ。まさか……やめて! ここでは……


「そ、そっか……」


 アスカだって、聞きたくないよね。そのとき、橘くんがキョロキョロと辺りを見渡し始めた。


「……んで、今……返事待ち」


 このとき、私にも、おそらくキョウコにも、そしておそらくアスカにも、同じように胸に衝撃が走っただろう。雷に打たれたように、四肢は動かなくなり、急に走って立ち止まった後のように、呼吸が荒れた。

 私が当の彼女を見るまでも無く、キョウコは私の浴衣の袖口を握りしめていた。


「私、どうしたらいいと思う?」


 潤んだ目。引きつった笑顔。無理をしているのは火を見るより明らかであった。横の屋台では焼きそばを焦がしたと慌てる声がする。たった今すれ違ったカップルが「花火楽しみだね」と呑気に空を見上げている。必死に目を泳がせた私が行き着いた先は、もう動かなくなった2匹の金魚だった。


「いこ」


 私には、キョウコをこの場から遠ざけることしかできなかった。






 祭の屋台を下に眺め、通りから離れた山の上へと登っている。私はどうやら疲弊しきっているらしく、さらには下駄の鼻緒が指の隙間を赤くさせていたらしい。


「だ、大丈夫? いずみん……」

「な、情けないな……」


 連れ出したクセに……道中でへばっちゃって、心配しなきゃいけないキョウコに心配されている始末だ。気を遣うつもりが遣わせてしまっている。もう、力尽きた金魚のように、私は動けなくなっている。


「……」


 私の情けない背中をさするキョウコ。


「みて、いずみん……あんなに明るいよ」

「え……」


 上を見上げると、とてつもなく暗い夜空。藍など通り越して、もはや黒い空。明るさなどどこにあるのか……と私が横を見ると、キョウコは笑っていた。


「違うよ。下。下だよ」


 下を見ると、まるでそこが燃えているかのように明るい。屋台の並んだ通りが輝いていた。


「私たちもさっきまであそこにいたんだけどね。こうやって見ると……すごい綺麗に見えるよね」


 ああ、確かに……あんなに居づらさを感じた屋台の通りが、輝いている。


「いずみんが私をここに連れてきてくれた理由、わかるよ」


 かれこれまだ数ヶ月の付き合いだが、そりゃばれているよな、と私も半ば諦念を含んだ笑みで応えた。


「いやあ……にしても……あっちゃんがまさか橘くんのことが好きだったとはねえ」


 さっき、あんなに深刻そうな顔をしていたくせに、「知ってたの?」なんてすごく不安そうな顔で私の方を見てきたくせに、そんなこと忘れたかのように明るく振る舞うキョウコ。

 そう、辛さをごまかそうとしているのである。見え見えだ。


「キョウコ」


 私はなんとか頑張って身体を起こし、キョウコと目を合わせる。彼女の目がさっきよりもより潤んでいるのがわかった。


「返事どうしようかな……断っちゃおうかな……あっちゃんのためにも、良いよね。その方が良いよね! いずみんもそう思うよね!」


 同意を求める言葉に、私も内心では同感だった。「付き合うな」と声を大にして言いたい。でも、それはただただ、彼女の我慢を助長させるだけで、何にもならない。現に、確かに、今キョウコは、橘くんのことを完全に好きになっていたからだ。


「あのさ……正直さ」


「ん?」


 大げさに首を傾げたキョウコの両肩に、私の手を置いた。とくにキョウコの左肩に置かれた私の右手に、大きく力が入る。


「……多分だけどさ、私が『諦めなよ』って言ったら諦めるよね」

「え?」


 意表をついてやった。これで私のペースで話ができる。私は私の小賢しさに辟易しながら、言葉を続けた。


「橘くんは、ほかに好きな人がいるって言ってた。それって、キョウコのことで間違いないのよね?」

「……」


 キョウコは俯いた。確信が無いのだろう。告白されたとは言ったって、あまりに突然のこと過ぎた。


「キョウコが断れば、橘くんはさっさと心変わりしてアスカと付き合うと思う。多分だけど……アスカがそれを許すかはわからないけど」


 だから、橘くんのことなんか考えなくて良い。あんな思わせぶりなカス男、相手にしちゃダメなのに、キョウコはまんまと好きになってしまったのだ。でも、それはアスカもそうで、二人の女の子を手玉にとった橘くんの罪は、私の中では計り知れない。


「あの流れで好きな人が誰かって話はしないと思う。少なくとも。でも、エイジくんや私は事実を知っているし、橘くんがキョウコにコクったってことを知っている人は他にもいるかもしれない。噂はすぐに流れるから……アスカはどちらにせよキョウコが原因で振られたって思う……と思う」


 みんなから好かれるアスカのことだ。それくらいでキョウコのことを嫌いになったりなどしないだろう。それよりも心配なのは彼女の周りである。ミッチーやハナコといった私やキョウコとも仲の良いメンバーならまだしも、彼女の取り巻きですらない者たちにとっても憧れの対象であったアスカの失恋は、衝撃的なニュースだ。

 キョウコは間違いなく、「アスカが振られた橘くんが、惚れた女子」という認識をされ、中学時代のように悪い意味で目立つ存在となる。おそらくきっと、彼女はそちらへの恐怖心の方が大きい。


「だからさ……」


 私は決意した。


「二人で事実を塗り替えちゃおうよ」


 キョウコのことが好きだ。だから彼女を守ると。


「いずみん……」

「二人で、だよ」


 その言葉と共に、キョウコの目から涙が一筋流れた。今度は一人じゃ無い。助けてくれる恩人のエイジくんやアスカだけじゃない。今は親友の私がいる。けれど……


 キョウコの肩をぐっと自分の身に引き寄せ、抱き締めた。そのとき、私の左肘に提げてあった小物入れの中で携帯電話が震える。キョウコは背中でその震動を感じているはずだが、「鳴っているよ」などと無粋なことは言わない。涙が私の右肩に零れる。


 私はもう……キョウコと親友で居続けられる自信がない。

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