第26話「8月5日②」

 祭に来ていたことは、エイジくんが言ってたから気づいていた。


「バスケ部か? あれ」

「そう……みたいだね」


 視線を思わず落とした。そして、周囲の喧騒が、私たちが黙っていることを教えてくれた。


「向こうから回るか?」


 路地の方を指さすエイジくん。


「え、ああ……うん」

「……ほら、冷やかされんの、好きじゃないだろ」

「あ……ありがとう」


 なんでこんなに気遣いが出来て、選んだのが私だったんだろう。彼は恐ろしく女を見る目がない。少し明かりが遠ざかった路地に入ったところで、キョウコにラインを返す。


『おいで! キョウコの家からだとどれくらい?』

『3分くらい! 通りについたら連絡するね!』


 すぐに返事が来たので、私はほっと胸を撫で下ろした。


「キョウコ、なんて?」

「来れそうだって」

「そっか」


 にかっと白い歯を見せて笑ったエイジくん。明かりの影になって目元がよく見えなかったが、彼も安心しているようだった。

 そのまま私は、路地の向こう側に視線を向けた。


「あっち、どんな店あるんだろ」

「行ってみよっか」


 私はエイジくんに右手を引かれたまま、細い路地を歩く。鼻緒が足の指の付け根にこすれて痛む。


「ちょっとごめん……」


 私が足を止めると、引っ張るエイジくんの左手の力が緩んでいるのがわかった。


「わっ、ごめん……歩くのはやかったよな?」

「ううん、ごめん。慣れない下駄でくんなよって話だよね」


 浴衣だって歩きにくいし、とエイジくんには聞こえないよう心の中で悪態をついた私。そんな私と正対して、彼は立っていた。


「んなことねえよ」


 って言うって……わかってたよ。


「最初に言っただろ。かわいいって。浴衣着てんのも、下駄はいてんのも、髪いつもと違って結んでんのも」

「う……ううん……ごめん結局迷惑かけてるし、気まで遣わせてるし」


 私ってダメだな。情けないな。そんなマイナスの感情は、どうせ否定される。エイジくんから視線をそらし、建物の真っ黒な壁に顔を向けたとき、彼の気配がぐっと近づいたのがわかった。


「あっ……」


 私がふと顔の向きを前に戻そうとすると、唇をぎゅっと塞がれた。エイジくんの唇で。歯磨き粉のミントの匂い。

 その柔らかな触感は、一瞬だった。哀しそうに、私を見つめる整った顔が、目の前数センチの距離にある。


「きょ、今日はえらく……強引じゃないですか、エイジくん」


 動揺はしている――が、ドキドキとまでは言ってない。私は苦笑いとも愛想笑いとも言えない表情で、彼を見つめ返した。

 夏祭りになると浮かれるのか。エイジくんも例外ではないのか。みんなみんな、キョウコも、橘くんも、アスカも、みんなみんな浮かれるのかな。


「うん。ええと……ま、好きな子がかわいい服装して、頑張って歩いてるとこ見たら……誰だって惚れ直さね?」

「あ……うん。確かにそうだね」


 なんか。ごめん。



 また携帯電話が震えた。キョウコからのラインだ。


『ついた!』


「キョウコ……ついたって」

「そっか。んじゃ、迎えに行くか」


 エイジくんは、ほんの数秒前に私に対してなかなか恥ずかしいことを言っていた。そのはずなのに、そんなこと一切感じさせないような爽やかな笑顔で、来た道を戻っていった。キョウコと合流するためだ。もう、バスケ部の集団は通り過ぎてるかな。


『どのへんにいるの?』


 キョウコからラインが続いて送られてくる。私は計らずとも浮かれていた。ああ、私もしっかりと浮かれているじゃん。キョウコを好きだと思えば思うほど、キョウコのことを思えば思うほど、私は私が馬鹿にしているような人間へと、変化していく。


 通りへと出た。喧騒と明かりが、再び私たちの視界に広がる。キョウコはおそらく、通りの入り口からこちらへ向かって突き進んでいる。左側を進めば会えるはず……。


「あっ!」


 高く、澄んだ声。そうだ。この声は間違いない。


「キョウコ!」

「いずみん!」


 良かった。なんとか合流できた。キョウコだ。浴衣は着ていない、いつものかわいいワンピース姿だけど、いつものキョウコだ。


「良かったー! 合流できたね! キョウコが一人でふらっと回ろっかなって言ったからさ~、さみしがって死んでるんじゃないかって思ったんだよぉ」

「えー、いずみん私をウサギか何かと勘違いしてない?」


 冗談を交えながら談笑する私たち。その後ろにたたずむエイジくんは置物のように私たちのやりとりを眺めている。先にそんな彼に気がついたのは、普段から人に対して自然に優しさを向けられる子なのだ。


「ご、ごめんエイジくん! 二人のデート邪魔しちゃって……ほんっとごめんね!! 私いずみんとちょっと話せたらそれで良いから! ちょっとだけ! ごめん!!」


 そうやってキョウコが下げた頭の前に祈るように重ねられた両手がある。左手の中指にひもがついた袋が引っかけられており、何事かと視線をやや落とすと、金魚が2匹、泳いでいる。透明なはずの水は、屋台の明かりに照らされ、橙色と藍色を混ぜ合っていた。

 キョウコが――彼女がたった一人で、待ち人を待ちながら金魚を捕っている姿を想像したら、胸が締め付けられる。この金魚は、言うなれば彼女の我慢の結晶なのだ。


「……」


 正直なところ、今、彼女の気持ちを聞いてしまえば楽なのだ。キョウコが何に苦しんでいて、何に悲しんでいるのか、きっと私たちに出会ってほっとしているから、聞けばきっと教えてくれる。けど、それが正しいのかはわからない。傷口にずかずかと薬を塗り込めば、沁みて痛いのは当然だからだ。


「ねえねえ」


 キョウコに話しかける。しょうもないまじないの方が、案外痛みは飛んでくれたりして……と、安易な思いに馳せながら。


「私も金魚すくいしたい」

「へ?」


 一言目がそんなことだと思っていなかったであろうキョウコはえらく気の抜けた顔を見せた。眉が八の字に曲がっている。


「ねえ、いこ」

「え、良いの? え、エイジくんは?」


 キョウコは私ではなくエイジくんの方に視線を送る。私も首をきゅっと振り向け、エイジくんに視線を送った。彼は私に逆らえないだろう。


「ほら、良いって」


 屈託なく笑ってやった。これくらいしないと彼女の後ろめたさは消えないだろう。


「行くよ」


 強引に手を引こうと左手を掴んだ。キョウコの捕まえた金魚が揺れる。



 そう、その揺れたその瞬間だった。私たちの背後――そう遠くない背後から、喧騒とは違う、確かなざわめきがあった。しかも、知った声で知った名前を呼ぶ声がしたのである。


「あ、あれって……」


 先にその音に気づいていたエイジくんが指を差した。さっきのバスケ部の集団である。橘くんや、水沢アスカもいる。


「あ……」


 私は勘づいた。アスカが橘の方を俯きながら向いている。顔の赤さは、この距離からでもわかった。何か言う――私の、こういう勘は悪くない。


「あ、あのさ橘くん!」


 アスカが無理して大声を出している。長身の橘くんは、背中を丸めて、やや困惑していた。


「私……」


 キョウコに聞かせちゃまずいか、離れるか、そんなことが頭の中を巡ったが、どう考えても間に合いそうも無かった。


「橘くんのことが好き! 付き合ってほしい!!」


 普通を突き詰めたシンプルかつガツンとくる告白に、周りは喧騒を呑んで大きく騒いだ。私は、時が止まったかのように、同じく時が止まったキョウコと目を合わせ、口をあんぐりと開けるしか無かった。それしかできなかった。

 左手の袋が落ちる。アスファルトの凹凸面に袋が刺さって破けた。水がぱちゃりとはじける音。キョウコが捕まえた金魚が、アスファルトを力なく跳ねていた。

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