第20話「8月2日」
昨日のことは、悪かったと思っている。けど、埋め合わせをしなきゃいけないことに、私は納得していない。
「いくら何でも、何も言わずに出てくのはどうよ? まるで逃げてるみたいだっただろうが」
こんなときでも松永エイジが優しい口調なのは、それでもまだ私のことを好きでいてくれているからだろう。いつまでこの偽りの好意に対する行き詰まりの厚意が続くか、正直わからない。
今日は8月2日、木曜日。サッカー部は午前練で終わった。近くのフタバコーヒーで甘い甘いカフェオレを飲みながら、松永エイジと話している。
「正直言わせてもらうと、逃げる必要があった。エイジくんは何も悪いことしてないよ? 橘ヨウキだよ。あの陽キャの皮を被ったクソ野郎が」
「おいおい、俺一応友だちだよ。反応困るって」
笑いながらストローを口に運ぶエイジくんは、優しい口調を続ける。
「……もしかしてさ、ヨウなんか変なことした?」
「……私じゃ無いよ、キョウコにね」
私は――キョウコに送られてきたラインのやりとりを、そのままエイジくんに伝えた。
「うわー。あいつやっちまってんなあ」
引き気味の表情と、面白がってる表情が、半分ずつ。ああ、これがそっちの友だちの反応か。
「いやー、実はさ」
エイジは続けた。
「……昨日、俺ら横の教室行ったじゃん? あの後、実はヨウとキョウコのこと話してたんだよ。『俺、コクった』って言われた」
「うそ……」
なるほど、さっきの反応は、『事情を知っている者』の反応というわけか。「やり方は聞く限りだとまずいな」なんて、ストローを咥えながら話しているエイジ。
「どんな話してたの? 横の教室で」
逃げといてなんだけど、気になった。
「フツーだよ。キョウコにコクったこと言われた後、俺結構驚いてたんだけど、ラインしてることとか、バスケの話してることとか、映画行ったときの話とか、結構詳しく教えてもらってさ」
うん、やっぱり。
「サナはさ、やっぱ複雑なん? いいじゃん、キョウコだってヨウのこと好きだったんだろ?」
「……うん。それはそうだけど」
目の前の鈍感な男は、気づいているのかしら。今の会話を聞くからに、橘ヨウキは、キョウコのことを好きになったわけじゃ無い。キョウコが橘ヨウキのことを好きだと言うことに気づいているから告白したのだ。そんなの……ずるいし、キョウコが振り回されて、絶対に悲しい思いをするに決まってる。
何より――キョウコが誰かのモノになってしまうのが嫌だ。
素直になれたら話は早い。私がエイジくんに対して歯切れの悪い返事をしているのは、この醜い独占欲と、独善的な思考回路が故だ。私の頭の中は、必死にキョウコのことを考えているフリをしている。しかし、目前の松永エイジからしたら、違和感が拭えないのだろう。カフェオレのプラスチックのカップにまとわりついた水滴のように、私の思考回路を違和感が覆っている。
「まあ……多分、あいつも友だち多いわけじゃないし、サナが付き合うなっていえば、きっと従うと思う」
そんな気はしてる。なんだかんだでキョウコは、私のことを信頼してくれている。嬉しいことに、一番の友だちとまで思ってくれている。これ以上何を求める? 私はどうしてここまで思われておきながら、まださらに上でいたいと思っている? 普通の幸せを享受できていることを認識できていない私が、どうして至高の喜びを手にできると思っていた?
そんな私に、松永エイジは言葉を続けた。
「けどさ……サナ、俺がコクったときにOKしてくれたじゃん」
「……」
なんとなく。だって、キョウコのことは好きだったけど、そういうのじゃないって思ってたから。私はあのとき、自分が思っているよりも普通だと思っていたんだ。
「そんときにさ。呟いてた言葉覚えてる?」
「私が? 何を……?」
記憶を思い返すが、はっきりとは思い出せない。ああ、こうしてまた私は私に失望していく。
「『ま、付き合ってみないとわかんないこともあるか』って。俺、あれめっちゃ嬉しかったんだよ」
そんなに? 多分、仕方なく付き合うなんて言えないかわりの理由付けだと思うんだけど。まあ、そんなこと考えるのは、言ったことさえ思い出せない私がしていいことではない。
「キョウコにとっちゃ、ヨウめっちゃ相性いいかもしれないし、どこの馬の骨かもわかんねえやつより良いだろ?」
恥ずかしいことに、私はここで気づいてしまったんだ。私の二つの卑しいところに。
一つ目は、エイジくんがこんなに推してるのは、橘くんが私の周りをうろちょろすることが無くなるから。橘ヨウキは、キョウコと付き合ったという名目がほしいんだ。それが一番の牽制になると思っているからだ。そう、私がそうだと理由付けしてしまうところが何よりも卑しい。
そして、もう一つは、私と橘ヨウキの共通点。相手の好意に気づいた上で、なんとなくで付き合おうという卑しい姿勢。エイジくんが推すのもわかる。だって、エイジくんはそれで私と付き合えたんだから。キョウコにも同じように橘くんと付き合ってもらえたら彼女なりの幸せなんだろうと、本気で信じてる。
つまり、私は独占的で独善的であることに加え、棚上げクソ女ということである。少女漫画だったら間違いなく悪役じゃん、私。つまり――キョウコの幸せを邪魔しようとしているクソ女である。私には決められない。私の頭の中に、『普通』の価値観がほしい。『普通』を判断できる機能が欲しい。私がどこかで普通の道を間違えた、その日まで戻れる何かがほしい。
そのとき、私のポケットの中が震えた。机に震動が伝わり、エイジも思わず手を止めた。
「ライン? 見ていいよ」
私がふと、そわそわしたことに気づいたんだろう。彼は私のことを、よく見ている。携帯電話を開くと、『水沢アスカ』という名前。
『明日、練習するよ!!』
このメッセージを見て、私は思い出した。
アスカは普通の子だ。普通を突き詰めた完成形だ。そう、この子に相談したら良い。私にとっても、キョウコにとっても友だちで、橘ヨウキとも面識があるじゃないか。この子以上の適任はいない。
私の口元は緩んでいた。口角はにわかに上がっていた。その状態で返信を送る。
『もちろん!』
『あと、明日相談に乗ってほしいことがある!』
『お願いしてもいい?』
涙目のスタンプを送る。私には普通がわからない。ならば普通の人の価値観をインストールするしかないのだ。
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