第18話「8月1日」

 8月だ。8月がやってきたのだ。


 蝉がうるさいのは、もう毎日のことで、それよりもわずかに自己主張を抑えている冷房の音こそが、今私の命をつなぎ止めている。そんな暑さ。


「びーびーうるさいんだよ。そんなだから早死にするんだよ」


 蝉に対して文句を垂れてみたは良いが、そんなことで蝉が言い返すわけもなく、私の独り言など意に介さないと言わんばかりにわめき続けている。あ、あと実際、蝉は一週間以上生きるんだとか。


 読書感想文が進まない。『あらすじの列挙は読書感想文とは言わない』という、国語科を担当する先生の意向もあり、少しずつ読みながら、読みながら書き進めていくしか無い。

 えっ? そんなこと気にしたこと無いって? そりゃそうなのだ。先生の意向程度、無視したからと言ってなんのデメリットもない。今こうやって、貴重な高校1年生の夏休みを、机の前で浪費していることの方が、よっぽどデメリットだ。


 まあ、言ってしまえばこんなことを考えながら読んでいるから、進まないのだ。




 夏休みが本格的に始まり、私の起床時間はだいぶ遅くなった。どれくらいかと言うと、松永エイジからの「部活行ってくる」というメッセージの送信時刻が3時間前と表示されるくらい。


「サナー、お昼ご飯何がいい!?」


 下のリビングから母の呼ぶ声。まだ起きてから1時間と経っていないが、お母さんはもう昼食の支度を始めている。


『お昼食べたら学校集合ね!』


 キョウコからのメッセージが来ていた。『はーい』という返事だけ送り、スタンプに会話の終了を頼った。


「サナー!」

「そうめんか肉―!」

「またー!?」


 夏と言ったらこの二択じゃないかなと思うのは私だけなのだろうか? そんなことないとは思うんだけど……。




 昼食を終え、私はバスに乗り、学校へと向かった。蝉は相変わらずうるさい。イヤホンの中で響く音楽に、夏というエッセンスを加える程度なら、心地良いのに。

 しかし、バスは好きだ。冷房が効いていて涼しいし、一人での考え事が捗る。そして道中。私が乗ってから、二つ目のバス停で停まると、私の大好きな人が乗ってくるのだ。――私は、ここで乗ってくる人の顔を見るために、窓に向いていた顔を、前に向けた。


「よっ、サナ」


 ここでの一言目で、違いに気づいた。私のことを「サナ」と呼ぶのは、両親と、松永エイジくらいである。そう、ここで乗ってきたのは、部活が終わって、一度家に帰っているはずの、松永エイジだ。


「やっほーいずみん!」


 聞き慣れた声が、その男の後ろから聞こえてくる。


「あー、びっくりした!」


 エイジくんの背後からひょっこりと顔を出すのは、新津キョウコ。私の大事な大事な“友だち”である。松永エイジの大きな背中の後ろでは、細身で小柄なキョウコの身体は簡単に隠されてしまう。そんな様子が、かわいらしくて、愛おしくて、思わず微笑んでしまった。


「……」


 本当は気まずいはずのエイジくんは私が座っている席の後ろに座った。


「キョウコ、ここ座れよ」

「うん、ありがと」


 私の隣を指さして、キョウコを座らせる。キョウコの短めの髪が座った瞬間にふわっと揺れ、私の好きな香りがふわっと漂う。


「……」

「どしたのいずみん」

「……いや、シャンプー良い匂いだなって思って」

「あ、変えたの! わかる? すごーい。ワンちゃんみたいな鼻の持ち主だねえ」


 わしゃわしゃーと言って私の頭と顎を、飼い犬のようになで回すキョウコ。エイジくんは後ろから顔を覗かせている。


「サナはどっちかっていうと猫っぽいけどな」

「ええ、犬だよ! こんなにかわいいんだよいずみんは」


 昔からの付き合いの二人は、会話に違和感が無い。スムーズだ。


「かわいいのは認める……けど、ちょっと自由人で振り回すところがある!!」

「どこが!? あ~、それはエイジくんがいずみん命過ぎるからだよ! いずみん命過ぎていずみんを困らせてるからだー!」


 いやいや、ちょっと待てちょっと待て。松永エイジよ、それは私がいる前で話すことじゃないだろ。酒の席じゃ無いんだから。ま、酒の席なんか知らないけど。

 そしてキョウコ。どうして私が言えないことをこうもズバズバと言ってしまうんだ。私が地雷を踏まないよう気をつけて歩いているのが馬鹿らしく思えるくらい、二人は琴線ギリギリ――地雷原をチキンレースしているかのように走り回る。


『えー、バスは、五野高校前……五野高校前に停車します』

「降りるよー!」


 車掌の声に反応して、キョウコが元気に叫ぶ。幸い、車内には私たち3人しかいない。そういえば――思い出した。蝉、鳴いてたんだった。



 そして、学校についてもう一つ思い出したことがある。


「エイジくん、なんで部活終わってるのに学校来てんの?」


 普通のジャージを着ているエイジ。しかし、これはサッカー部がよく着ているジャージというよりかは、彼の普段着としてのジャージに近かった。


「いや……なんつーか」


 照れるエイジくん。まあ、言いたくないんならいいんだけど。


「それはね! エイジくんが帰り道にたまたま私とすれ違って、いずみんとダンスの練習すること伝えたんだ!! 目ぇバッキバキにして『いく!』って言ってて、かわいいやつだなーこのこの」


 キョウコがエイジくんの脇腹を肘で小突く。ちょいちょい演技チックな一挙手一投足が、愛しさの対象になる。


 ――別に、二人きりの時間を邪魔されて嫌だとかない。何度でも言うが、別に松永エイジのことは、嫌いじゃない。


 自分の中で感情を整理するたびに思わずため息が出る。はあ……私が普通の女の子だったら、こうやって照れる松永エイジを見ているときも、それをいじる親友のキョウコを見ているときも、幸せな気持ちで一杯なんだろうけど……。

 ゆっくり歩きながら、空いている私たちの教室につく。利用証は玄関でもらえた。すると、ここで松永エイジが、キョウコに聞こえないように耳元でささやいてきた。


「おっ、愛のささやきかー!? このこのー」


 キョウコはもはや手がつけられないテンションになっている。エイジくんの言葉に、私は目を見開いた。


「……キョウコと橘、どーなったんだ結局」

「……!!」


 目を見開いたのは、確かにエイジくんの言葉のせいでもあった。しかし、それだけではなかった。示し合わせたのではないか、と言わんばかりにちょうど良いタイミングで現れる男がいた。


「あー! エイジ~。それに和泉と新津さんもいんじゃーん」


 橘ヨウキが、このタイミングで現れたのである。

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