第16話「7月30日」

 今日の理科の補習は、まるで頭に入らない。多分……昨日のせい。補習を終えるチャイムが鳴った瞬間、私は机に突っ伏し、携帯電話を開いた。


「はあ」


 ため息を吐くと同時に、ラインを開く。松永エイジからのラインだ。


『ごめん』


 たった一言。まあ、昨日のことがあったら……そりゃ謝りたくもなるかな。


 唇に指を当ててみた。


――唇って結構柔らかいんだよな。





 昨日は、結局カラオケに行った。私が聞いた、『好きな人に対してしたいこと』を、エイジくんにしてもらおうとした。予想はできていたけど、予想よりもずっと「こんなもんか」という感想だった。


 部屋に入って早々、私は目を閉じて「いいよ」とただ言うだけ。全てを彼に任せた、ずるい女の典型だった。唇が離れて目を開いた直後の、松永エイジの顔は、とても見ていられないほど、悲哀に満ちていた。少女漫画の主人公たちは、こんな程度のことにキャーキャー言っていたのか、と私は依然として冷めた考えを持っていた。


『……ごめん』


 このエイジくんの一言に、私がものすごいみじめな思いをしたことを覚えている。


『何で謝るのよ。気にしてないって。ほら、歌お』


 そのとき、マイクを渡したが、エイジくんは首を横に振り、出て行った。直後に思い出した小説――読書感想文の課題図書、『拝啓、僕らの夏よ』の一説。




「……普通はつまらないっていうけれど、私みたいな共感してもらうことが生きがいの人間にとって、普通ほど素晴らしいものはない」


 そう、高校生にして天才写真家と言われる主人公が、『ありきたりな普通の写真』を批判する写真通のファンに向けて言った台詞。なぜかこれを今、思い出した。


「あ! いずみんそれ、課題図書のやつでしょ? 私も今ちょうどそこのシーン!!」


 キョウコは私の独り言を聞き逃していなかった。栞が挟まった文庫本を机から取り出して見せてくる姿に、思わず顔がほころぶ。


「あ、今日やっと笑ったね! なんか張り詰めてたみたいだけど大丈夫そ? お昼のあとあっちゃんたちとダンスあるから、元気取り戻しとかないとやばいよ!」


 ああ、あっちゃんは水沢アスカのことか。彼女たちがああやって毎日を楽しそうに過ごせるのは、きっと普通のことに共感できるから。そして、その共感を心地良いと感じることができるから。さらには、その共感に対して、周りが共感してくれるから。

 小説の中の天才写真家は、普通のことに共感できるのに、その共感を心地良いと感じていたのに、周りがそれを許さなかった。「天才なんだから周りと違うべきだ」という強迫観念が、徐々に彼女を苦しめていく話なんだ。


 私はきっと――彼女とは正反対。普通のことに共感ができなくて、その共感さえも必要ないと思っていて、その考えに周りは共感してくれてはいない。同じところと言えば、「普通の考えを持つべきだ」という強迫観念が、徐々に私を苦しめていることくらいか。


「サナ」

「ん?」


 声をかけられた方を見上げて、思わず目を見開く。


「え?」


 思わず声が出た。昨日のことで気まずいはずの、松永エイジが私の目を見ながら、机のそばまで来ていたからだ。


「飯食わねーの? このあと水沢たちとダンスすんだろ?」

「ああ……食べるよ。食べる」


 いつもなら部室で昼食をとるはずの彼は、なぜか教室に残っている。


「部活の時間、大丈夫なん?」

「あ……ほんとだ。やべえ」


「行ってきなよ。あ、心配ありがとうね」


 エイジくんが慌てて背中を向けた瞬間に、私は言った。


「昨日のことは……謝るべきは私だから。気にしないで」

「……うん」


 振り返らずに言った返事を、私は胸に受け止めた。教室から出て行く松永エイジを見ながら、さて昼食でもとりますか、と鞄の中から弁当を探る。


「仲直りできたの?」


 鞄をのぞき込んで屈んでいる状態の私の耳元に、キョウコが小声でささやいた。


「うん。した」


 私のたったそれだけの言葉で、ほっと胸を撫で下ろすキョウコ。こちらもつられて安心してしまう。弁当を開ければ、そこには昨日食べるはずだったお昼ご飯の残りの、肉盛り野菜炒めが入っていた。





 私は、普通じゃない。キョウコを意識するようになって、松永エイジと関わることを通して気づいたことだ。そして、それは――『普通』を地で行く女子たちに囲まれて、余計に洗礼のように刻まれていくのである。


「和泉さん動きのキレいいねえ」

「あ……ありがと」


 ダンスの練習。主に動画を見つつ、水沢アスカの動きを真似ながら動きを覚えていくだけなのだが、これがなかなか難しい。しかし、水沢の周りの“普通”の女の子たちは、慣れるのが圧倒的に早い。動きがおぼつかないのは、流行りの音楽に疎い私と、運動神経のあまりよろしくないキョウコくらいである。あ、動きを褒められたのはきっと……多分、お世辞かなんかだと思う。やる気なくして帰られるのが、一番彼女たちにとっても困るんだろう。


「いずみんはバスケやってたからね! 体幹はあっちゃんレベルだと思うよ!」


 キョウコは片足でバランスを取ることさえままならない。そんな彼女の言葉に、水沢アスカは意外な反応を見せた。


「ええ!! バスケやってたの!? なぁんで女バス入ってないのぉ!?」


 水沢のテンションが急に上がったのは、きっと彼女たちの大好きな『共感』ができるチャンスだからだ。


「まあ……なんとなくもういいかなって」


 本当のことは言うべきで無いことくらい、“普通”じゃなくたってわかる。


「そっかー。ポジションどこだったん?」

「ポジションっていうか……まフォワードだけど」

「うわー、ちょうどウチ今フォワードの先輩ケガしててさあ! 入ってよぉ!! いいじゃんいいじゃん」


 何がいいのかわからない。私にメリットが無いのよ。まあでも彼女にとっても私を誘うメリットなんてきっとない。とりあえず、共通の話題の進め方のテンプレートみたいなものなんだろうきっと。

 私が普通だったら、心の底ではバスケの話が出来て嬉しいくせしながら「えー、もう無理だよー」なんて言って、「そんなことないよー」という深層心理への“共感”を待っていたところなんだろうけど、生憎私はそういうやりとりに興味が無いので、愛想笑いで終わらせてしまう。


「ええ! いずみんがバスケ部入ったら私と放課後も遊んでくれる人いなくなるじゃん!!」

「じゃ、キョウコも入れば良いじゃん」

「いや……キョコちゃんは……ケガしちゃダメだし、やめときな?」


 この水沢の言葉に、キョウコ含め、笑い声が響く。「ひどーい」とキョウコが道化に走って笑ってくれているおかげだ。


「今のひどくない!? ねえいずみん!」

「あはは。まあでもキョウコが運動音痴なのは周知の事実ってわけかー」

「もー」


 頬を膨らませ、顔を丸くする彼女は、やっぱりかわいい。こうやって、彼女も共感を手にして生きてきた、普通の女の子なんだ。


「いずみんは私と遊ぶために部活入らないって決めたんだもんねー!」

「そうじゃないけど」


 また笑いが起きる。そうじゃないけど、悪くない。そう、キョウコは普通の女の子。そんな彼女に対して共感し、彼女が共感してくれる。これだけで十分ではないか。これだけで十分楽しいではないか。




 なんだ。




 前言撤回。私は案外、普通なのかもしれない。

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