第11話「7月27日」

 完全にやってしまった。


「はい、この時の光源氏のきもち、この言葉を訳することで――」


 自分の気持ちすら整理つかないのに、1000年以上も昔の人――ではなく、その人が作った創作上のキャラクターの気持ちを察しろなんて不可能な話なんだ。


「……所詮、私は理解していた気になっていただけだったんだ」


 松永エイジの頭の中なんて、わかりやすいもんなんだって思ってた。初対面の時から。


 男の子らしく、ちゃんとプライドがあって、でも弱さがあって、こういうときに初めて、私以外の人間も生きてるんだなって思えるよね。そして私の横に座る少女は、まるで死んでしまっているかのように机に突っ伏したまま動かない。昨日の夜――私は思い切って打ち明けたんだった。



『エイジくんと喧嘩した』

『えっ?』


 確か、コンビニのイートインコーナーで、補習のわからないところを聞いてたら、いつの間にか夜になったねーなんて言って笑い合ってたときに言ったんだった。


『どんなことで?』

『4人で遊びに行こって話で。色々こじれちゃって』


 まあこんな言い方をしたらキョウコが罪悪感を抱いてしまうことなんて、簡単に予想がついたのだが、事実を言うほかなかった。そうでなければ相談する資格など無いからだ。


『そっかー』


 キョウコの反応は思ったよりも淡白で、なんなら薄情にさえ思えてしまうような薄さだった。


『まあ、そういうときもあるんじゃない? 付き合ってるんだし』

『そ、そうなのかな』


『うん、私としては、ちょっと不安だったんだよ。エイジくんが恥ずかしがってないでちゃんと思ってること言えるのかとか、いずみんが気にしすぎて思ってること言えないんじゃないかとか』

『……うん』


 彼女の楽観的思考にはイマイチついていけなかった――が、どこか救われた気持ちはあった。


 しかし、いつもはすぐに帰ってくるはずの松永エイジからの連絡は、昨晩はめっきり途絶えていた。橘くんからのラインは、何話してたっけ。


 橘くんは、斜め前の方の席に座っている。まあ私の席から彼の表情を窺うことができるのは、せいぜい彼が後ろを向いた時くらいなので、こうして彼を一方的に見ていても、何も窺うことはできない。


『エイジくん本当に反対してるわ』

『こりゃ説得難しいかもね』


 そう、私は確か、当たり障りのない返事をしたんだった。返しにくいメッセージを送ったので、橘くんもそうそうすぐに返してくることは――ないはず。とまあ、色々なことを考えている間に、補習の時間が終わる。


「それじゃ、終わりましょうか」


 チャイムが鳴りやむ前に国語の担任の先生は帰っていき、教室には生徒だけが残る。ざわつく教室。今日は金曜日。月曜日まで補習はお預けなのである。


「キョウコ」

「ん?」


「遊びに行きたい」

「だね」


 私はキョウコを誘って、席から立ち上がる。松永エイジは、部活の友だちと共に教室を小走りで出て行く。橘くんも同様だ。


 おそらく、今私がクラスの中で普通に話すのは、彼氏である松永エイジと、キョウコが片思いするクラスの人気者である橘ヨウキくらいである。そして、この二人ともと、私は蟠りを抱えてしまい、なんとなく居心地が悪い。このことをキョウコに打ち明けるべきかは、正直まだわからない。


「はやくいこーよ」

「ああ、うん! いこっか」


 ぼーっと窓から真っ青の空を見ていた私の肩を揺らすキョウコ。誰かが教室の扉を開けた瞬間に、熱気が冷房の効いた教室内に流れ込んでくる。


「うわッ……外暑そ」

「外見てたらみんなそう思うよ」


 木がアスファルトからの熱が起こした蜃気楼に当てられて揺れている。廊下を歩いていても、どこか落ち着かない。



「……」

「いずみん最近なんか元気ないよね」


 ばれちゃうか。


「……うん、夏バテ気味……」

「……違うでしょ」


 時々鋭い所があるのが、このキョウコという女の子なのだ。


「昨日言ってたエイジくんのこと? 大丈夫だって。エイジくんはいずみんが一番なんだから」

「う、うん……」


 知ってるよ。正直、そんなことは。


 でも、私にとっては……そうじゃない。


「……だから衝突した。そうでしょ?」

「う、うん……」


 この子はどうしてこんなところで冴えてるのに、勉強はてんでダメなんだろう。私はもう、あきらめがついていた。


「……キョウコには敵わんね。その通り。あと橘くんも一枚噛んでる。話、聞いてくれる?」

「私の家、お母さん仕事だし、弟部活1日練だから今日は一人だよ!」


 キョウコの無垢な笑顔につられるように、私は彼女の軽い足取りにせっせとついていく――



 バス停には、屋根があるから陽光を防げるけれど、やっぱりアスファルトから照り返すように私たちの肌を突きさす熱戦は防げない。


「暑い……」

「なんかもう陽射しが痛いよね」

「わかる……」


 暑さも真っ只中だ。バスが待ち遠しい。



「……私さあ。初めていずみんと会った時の事ちょっと思い出しちゃった」

「……えっ」


 奇遇だな。


「最初は美人さんだなって思ったよ。エイジくんに至ってはほぼ一目ぼれみたいなもんだったしね」

「ふふ、やっぱり」


 キョウコの話は、他愛もなくて、でも悪意も無くて、一番安心して、一番落ち着いて聞ける。どんなに悩みを抱えていても、この子といるときだけは、辛いことも、一瞬だけ、忘れられた。


 だから、私は……この子が一番好きなのだ。


「しかしまあ、いずみんがエイジくんと喧嘩かあ」

「意外だなって? それ学校でも言ってたじゃん」


 ようやく来たバスに乗り込む。ドアが開くと同時に、独特のにおいと冷房の風が一気に私の鼻に当たる。


「すずしい……」


 バスの中――という決して広くはない空間内。乗客は私たち二人だけだった。夏の暑さから逃れるかのように入ったこの空間内は、狭くとも開放感にあふれていた。




 バスに揺られること15分ほど。バス停を降りると、またいつもの暑い空の下が待っている。


「あ、私の家。もうそこだよ」

「えっ、もうそこ?」


 バス停を見渡すと、住宅街――普通の一軒家が何軒か建ち並んでいる。キョウコの歩みの後ろをついていくと、『新津』と書いてある表札が見つかった。


「あ、新津」

「そう、ここが私の家」


 シンプルな一軒家。うん。普通の家庭。まあ今時“普通の”家庭なんて珍しいもんなんだろうけど。


「コメントしづらい」

「でしょー。よく言われる」


 キョウコがにこやかな表情で扉の鍵を開けた。扉の開く音と共に、キョウコの家の内側が見える。


 私は息を呑む。そう、気づいてしまった。今はこの家に……私とキョウコ、二人きりなのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る