本能
相変わらず天気の悪い日だった。
書類整理の合間に、窓から水たまりの広がるグラウンドを見つめていたときのこと。
ドアの開く音が聞こえて振り向くと、少し緩めたネクタイが目に入った。
「失礼します」
少し鼻にかかったアルトの声を聞いてわかった。薗田サキ。一年ほど前、保健室の常連だった。
もう授業が始まるというのに、俺の顔を見るや否やゆっくりと戸を閉め本棚の横にあるソファーに座った。
「あー、やっぱりこのソファー…いつ座ってもかたいね」
少し毛玉のできた布のシートを優しくなでて、俺のほうを向く。彼女がいつも座るその場所は俺が作業する机に一番近い位置だった。彼女はそこでいつも体育座りをしながら俺に話をしていた。
「先生、なんか久しぶりだね」
「保健室に入るときはノックしろって何回も言ってるだろう」
「もう常連卒業したから関係ないよ」
「はいはい。それより授業は?」
「化学の先生の声、なよなよしてて眠くなるから欠席」
「お前なあ、こんな事言うのもあれだけど、寝てても席に座ってたら出席になるんだぞ、前にも言ったろう?」
「いいのいいの、新しい学年になってからはこれが初のサボりだから」
にんまりと笑って俺を見る。
「単位厳しくなっても知らないぞ」
そうこうしているうちに授業開始のチャイムが鳴った。
「先生、今日はね、せっかくだから真面目なこと話したい。聞いてくれる?」
「まあ……次からはちゃんと授業受けるって約束したら」
「わかった、約束する」
真面目な顔で、小指を突き出された。『指切りげんまん』をしてから、彼女は話を始めた。
進路についてのこと、新しいクラスのこと、友達のこと、勉強、趣味のこと。
一年前の薗田とは明らかに違う、未来を持った話。消えたいと言わなくなった目。彼女は努力をして前に進んでいるようだった。
「へへ、改めて先生に話すの照れくさいな。でもね、自分でもこんなに前向きになれるなんて思ってなかったの。前の私だったらこんな目標持ててなかった。きっと先生のおかげなんだって思ってる。ありがとうね」
「俺は何もしてないよ」
コーヒーに口をつける。彼女のほうは見ずに、日誌を書く。
「ねえー、タカヒロせんせー」
ペンを動かす手は止まらない。彼女からそう呼ばれるのには慣れていたからだ。
「タカヒロさん」
甘いアルトがツーンと響いた。胸の奥がざわついた。
「どうしたの」ペンを置く。なんだか胸騒ぎがする。
呼吸の音が聞こえるくらいに、彼女が息を吸った。
「あたし、タカヒロさんのこと、すきよ」
ビー玉が弾けて割れたような目。まっすぐに射抜かれる。
彼女の言葉が連れてきたのは沈黙。生ぬるい空気の遊ぶ密室、ふたりきり。
流れる時間はどこか息苦しい。
秒針は絶えず、動く、動く、動く。
時計の音だけがこの部屋を支配していた。
「タカヒロさん」
アルトが鼓膜を揺らした。
「タカヒロさんから見たら、きっとあたしは大勢の中の一人だと思う。だけど、あたしにとっては、神さまみたいに尊いの」
声は微かに震えていた。
「サキ」
彼女の瞳は美しい。ふたりの心臓の音が重なったような気がした。
「学校ではそういうこと言わないって約束しただろう」
「だって」
「だってじゃない」
俺は彼女の口を塞いだ。窓から差し込む橙色の光が彼女の長い睫毛を染めた。
「こういうことしたくなるだろう」
彼女にうっとりとした表情で見つめられる。俺が彼女のネクタイを外したからだろう。
「タカヒロさん」
耳元で囁く。
「して」
俺はドアの鍵をかけた。
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