隣の席のひと

教室の一番奥の列、

前から4番目、

窓際、の





隣に座るそのひとは、授業も受けずにひたすら眠る。

そんな彼女から話しかけられたのは、現代文の授業が終わった後のことだった。


「ねえ、千葉さん、私たちって、確か同じ名前だったよね」


自分の机に置かれた英和辞書に頬をべったりくっ付けて、私を見つめながら言った。

薗田さんと話すのは、それが初めてだった。


「え…?」


「ほら、下の名前。私もサキで、千葉ちゃんもサキ」


「あ、ああ」


初めて話すのに、名前の話か、と思った。

私はあまり自分の名前が好きじゃなかった。


「これから紗季って呼ぶね、だから私のことも咲希って呼んで」


「いや、いいよ、私のことは。チバのままでいいよ。名前、あんまり好きじゃなくて」


クラスのみんなは、私のことを委員長、とかチバ、とか呼び捨てにする。男女関係なく。名前では呼ばれたことがない。そこに見えない壁かあるかのように。

でもそれでいいと思っていた。それが普通だったから。


『いいんちょー!次、移動教室だよー!』


ほら、やっぱり。


「あ、薗田さん、次の授業、化学実験室だから教科書ちゃんと持ってきてね。私鍵開けなきゃだめだから、早く行かなきゃ」


「今日はいいやー、あのなよなよしたセンセーの声、眠くなるもん」


「そんなの、私に言われても、」


「私、保健室行くからさー、あのなよなよセンセーに適当に言っといて」


「は、適当って、何言って、困るよ、」


すっと彼女が椅子から立ち上がって、綺麗な薄茶色の長い髪が、ふわりと広がった。


綺麗だな、と思った。


『いいんちょー!早くー!』


遠くで女の子が急かす。

すると、ゆっくり薗田さんが、呟いた。


「でもさ、紗季って綺麗な字だよね、私、好きだよ」


鼓膜から転送されたアルトの声。

好きだよ、と、言った。私の名前を。


ぎゅ、と胸の奥から音がした。

どこかの少女漫画のヒロインになったみたいに。


「じゃあまたあとでね」


私を遠くで呼ぶ女の子の横をさっと通り過ぎて、教室を出ていった。


甘酸っぱい香りときらきらをそこら中に漂わせて歩いていく彼女は、まるで舞台女優みたいだった。


『いいんちょー?どうしたー?』


「あ…、今行くー!」


檸檬をかじったような、シュワシュワする駄菓子を食べたような、そんな感覚を残したまま廊下へと向かった。


彼女の席の、隣の窓は開いていた。

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