この教室の中で
雪平 蒼
前の席のひと
教室の一番奥の列、
前から4番目、
窓際、の
そのひとは、いつも窓の外を見つめている。それか、窓のほうを向いて、居眠りをする。
「薗田ー。この問題解け…、……薗田ー、起きろー…薗田ー…」
気の弱そうな声で化学の先生が彼女を呼んでいる。何度名字を呼ぼうと、彼女は突っ伏したまま動かない。
「…薗田さん、呼ばれてるよ、ほら、起きて」
隣の席に座っているチバさんが、小声で彼女の背中をトントン、と叩いた。が、それでも彼女が起きる気配はない。
「あー、チバ、もういいよ…ありがとな……、それじゃあ薗田の後ろの坪井、この問題解けるか」
「え」
…当てられてしまった。さっきも当たったというのに、まさかまた回ってくるなんて。僕は化学が得意じゃない。
「あ、えっと…、…わかりません」
「………うん、難しいけど、よく出る応用だから、みんなよく聞いとけよー。……それじゃあ、まずはさっき俺がやった化学反応式を参考に―――」
右から左へと聞き流されていく数字、アルファベットたち。洗脳するように僕の脳みその周りをぐるぐる回って、ぱたりぱたりとノートに落ちていく。
教室を見渡しても、ほとんどの生徒は寝ているか机の下で携帯電話をいじっているかのどちらかで、教科書を開いてノートをとっているような真面目な生徒は僕とチバさんくらいしかいなかった。
黒板に浮き立つ白い暗号を写し終えた左手は、無意識にシャープペンをもてあそぶ。余った右手で頬杖を付いて窓の外を見た。
空の色はやはり少し寒そうで、日差しはもう春なのに風がきついのか雲の流れは速い。
透明なガラスの中で自分の無気力な色の目と合った。なんだか情けなくなって、すぐに逸らした。
ガラス越しにうっすらと映る前列の薗田さんのほうを眺める。相変わらず綺麗な寝顔。僕はこの席になってから(まあ五十音順なんだけど)、暇になればいつもこんな風に彼女の寝顔を盗み見ていた。
上下に揺れる肩のリズムはゆっくりで、窓から差し込む午後の光が綺麗な薄茶色の細い髪をより一層きらきらと引き立たせる。
…もし触ったら、どんな反応するだろう…びっくりして起きるかな…
髪の毛はどんな感触だろう…サラサラしてて、気持ちいいんだろうな……。
そんな妄想を広げつつ、薗田さんの顔にもう一度視線を戻した。やっぱり何度見ても端正な顔立ちをしている。胸の内側が掻きむしられるみたいだ。
瞬間、彼女の瞼がぱちりと開いて、ビー玉みたいな茶色い瞳と僕の黒目が、ガラス越しにぶつかった。
「‥‥…」
息を飲んで、視線はそのまま。
心臓がこんなに大きな音を立てて鳴るのを僕は知らない。
全身を巡る血液の音が僕をひどく焦らせた。
なにか、言わなければ。彼女へ、なにか、早く、早く、なんでもいい、さあ。
体中の細胞がそんな風に言ってる気がした。
「…あ、えと、あ―――」
キーンコーン――キーンコーン――
その鐘が鳴るのと同時に薗田さんはゆっくり微笑んで席を立ち、教室の外へと歩いて行った。
綺麗な髪をなびかせて、まるで舞台女優みたいに。
遮られた言葉は喉の中で乾いてしまって、カバンの中でおもむろに掴んだペットボトルは柔らかく感じた。
流し込んだ水は少し甘かった。
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