第28話「奈落の回廊」

 彼は暗く果てしない石廊を歩き続ける。聖剣は曇り、足は鉛のように重い。傷はなく、空腹も感じないが、ただ無為に過ぎていく時間に、精神だけはゆっくりと摩耗していった。


「何日経った。どれくらい、俺たちは歩き続けてる」

「さてね。もう時間感覚も方向感覚もなくなった。数日かもしれないし、数時間かもしれない。もしかしたら、数年かも」

「私たちはまだ揃ってますが、他の勇者はほとんど……」


 メルトが背後を振り返る。

 何もない、ただ等間隔で置かれた篝火が照らす石廊に、勇者たちが座り込んでいた。

 あてもなく進み続けることに心が折れ、足が動かなくなったものから、少しずつ脱落していった。そうして気がつけば、立っている者はごく僅かに数人を残すのみになっていた。


「ほんとに、なんなのよ、ここは」


 ティナが力なく石の壁に手を当てる。

 ひんやりと冷たく、そして硬い。勇者たちが力任せに打ち込んだ剣も棍棒も、魔法でさえも、傷一つ付けることは叶わなかった。上下左右を取り囲む石によって、勇者たちは前後のどちらかへ歩くことだけを強要されていた。


「大魔王だ。……アレが復活して、俺たちは呑み込まれた」


 生気を失い、虚ろな目を空中に彷徨わせながら、レオンハルトが回想する。

 何故か第一迷宮〈骨骸の門〉の魔王が不在で、代わりに黒い龍がいた。はじめに立ち向かった勇者三人のパーティは殺されたが、それ以降に守護者の間に立ち入った勇者たちは、奇妙なものを目にした。

 広間の床に開かれた、黒い穴。それは第七迷宮〈古龍の祠〉に通じていると、黒龍は言う。

 敵の言うことを信じるのは愚かだが、勇者たちには“光の女神の加護”がある。前代未聞の大規模な勇者団を結成したレオンハルトたちは、一息に穴の中へと飛び込んだ。果たして、龍の言は事実であり、そこには無数の龍が待ち構えていた。

 しかし、勇者たちは数え切れないほどの犠牲を払いながらも、龍たちを退けた。そして、魔王城へ向けて軍を進めていた。


「突然だった。突然の、闇だ」


 飛ばした間の迷宮の魔王たちの抵抗を押し退け、順調に進んでいた。しかし、突然空にアレが現れた。

 四本の腕に、二本の槍と、一冊の本と、一つの果実を持っていた。赤い双眸の上に黒い単眼があり、青白い肌に黒い血管が浮かんでいた。赤く錆び付いた牙が口から覗き、首には怪しげな首飾りがあった。

 八枚の黒い翼で空を飛び、彼女は勇者の群れを睥睨していた。


「そう、丁度――ッ!」


 急速にレオンハルトの思考が加速する。鈍り固まった歯車が動き始め、聖剣も銀の輝きを取り戻す。


「ティナ、サラ、メルト!」

「なぁっ」

「ここは……。さっきまで歩いていた石廊は……?」

「言ってる場合じゃないよ。前を見なさい」


 レオンハルトの激しい声で、彼の仲間たちも覚醒する。魔法使いと聖職者が周囲を見渡し、驚愕の表情を浮かべる中、格闘家の女だけはただちに拳を構えて臨戦態勢を整える。

 果てしない石廊は霧のように消え去り、周囲は姿を変えていた。足を止め座り込んでしまった勇者たちの姿も見えない。

 レオンハルトたちは、禍々しい悪魔の石像が並ぶ荘厳な聖堂の中に立っていた。


「驚いたわ。随分とタフな勇者もいたものね」


 勇者たちに声が降りかかる。広い空間に反響し、どこか現実離れした幻想的な声だ。

 ここが光の女神の聖堂ならば、彼女の石像が置かれている台座に、不遜にも腰掛ける女。いや、その姿はあまりにも、勇者たちの知る人の形からはかけ離れている。


「お前が、大魔王か」


 油断なく聖剣を構えたまま、レオンハルトが誰何する。

 四本の腕と三つの目を持つ女は、背中から生えた八枚のカラスのような翼を畳み、妖艶に唇を曲げた。錆び付いた鉄の牙が僅かに覗き、血の臭いを想起させる。


「大魔王ではないわ。ミラは魔力を収めるだけの器だもの。私はあくまでも私。――貴方たちもよく知っているはずよ」


 ルビーのように赤い瞳が怪しく光る。それを見て、勇者たちは同時に思い出した。


「そんな、いや……まさか……」

「でも、あれは……」


 困惑する仲間たちの中から一歩前に出て、レオンハルトはその名を告げる。


「お前は、魔王ルビエラか」


 それに彼女は微笑みを深めることで答える。

 大きな翼を広げ、黒い羽を落としながら赤い絨毯の上に降り立つ。

 瀟洒なワインレッドのドレスに、輝く長い銀髪。白い肌。女性らしい艶やかな体。

 大きな変化がいくつもあるが、その中心にあるものは変わらない。しかし、だからこそ勇者たちには信じがたい事実だった。


「なぜ、第一迷宮の魔王がここに……」


 第一迷宮〈骨骸の門〉の魔王ルビエラ。

 その存在は、ある程度経験のある勇者ならば一笑に付す程度のものだ。霊錠魔術によって不死者アンデッドを呼び出すが、彼女自身は脆弱。運が良ければ迷宮に初めて立ち入るような駆け出し勇者でも倒せるほどの、木っ端のような存在。

 そんな彼女が、なぜこの謎めいた空間で勇者を待ち構えているのか。思考するほどに、レオンハルトの脳内には無数の疑問符が浮かび上がった。


「まず一つ。ここは〈骨骸の門〉ではないわ。――第八迷宮〈奈落の廻廊〉よ」

「第八……?」


 レオンハルトは訝しむ。

 魔王城へ至る道程にある迷宮は七つだったはずだ。第八迷宮など、教会の書物庫にあるどの文献にも記述されていない。


「知らないのも無理はないわね。ここへ勇者がやってくるのは初めてのことだもの」


 どことなく嬉しそうに、ルビエラはレオンハルトのもとへ数歩近づく。

 驚いて勇者が武器を突き出すと、すぐに立ち止まる。


「ここは魔王陣営の最後の砦。そして、貴方達勇者が辿り着くべき目的地。望むモノは、ここにある」

「迂遠な言い回しね。つまり、アンタを倒せば光の女神の願いは成就するってこと?」


 杖を突き出したままティナが問いただす。ルビエラはすんなりと頷く。


「私を殺せば、永遠の命が手に入る。迷宮の外でも、貴方達人間は不死の魂を得られるわ」

「それなら――!」


 火球が勢いよく放たれる。

 完全な不意を狙った、卑怯と罵られても仕方のない攻撃。周囲の仲間たちでさえ驚く、非情な魔法。


「ただし、私を殺せたらの話よ」

「なっ」


 しかし、燃え盛る火球は一瞬にして霧散する。

 ルビエラが何か行動したようにも見えず、ただ火球が掻き消えた。理屈の分からない怪奇な現象を目の当たりにして、魔法使いは困惑する。


「私はルビエラ。でも、魔王ではないわ」


 黒い八枚羽を広げ、彼女は高らかに名乗りを上げる。


「遙か太古の時代、混沌だけが世界を構成していた原初の季節。何にでもなかった泥の中から、光と共に分かたれた片割れ。死と闇と不浄の守り手。あえて対比するように言うなら、そうね。――闇の女神ルビエラ」


 聖堂の空気が激変する。

 腐った血と臓物の匂いが充満し、湿った風が吹く。

 数多の勇者たちが最弱の烙印を押してきた小さな魔王はそこにはいない。妖艶に笑みを浮かべ、翼を広げる美しい女神が、濃密な殺意を吹き出していた。

 彼女がその名前を告げた瞬間、勇者たちの体に金色の光が纏われる。胸の底から滾々と魔力と活力が湧き出してくる。経験したことのない、激しい怒りにもにた、強力な“光の女神の加護”だ。


「やっと見つけたのね」


 光と共に力を増す勇者たちに、ルビエラは笑みを深める。

 彼女の目は勇者たちを見ていない。その背後に立つ、自身の片割れを注視していた。


「さあ、降りてきなさい」


 そうして、最後の戦いが始まった。

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