185_深淵に邂逅す3

 六百年前、心優しい青年、ラクリアメレクは、山間やまあいの集落で静かに暮らしていた。

 家族は足の悪い母のみであった。


 ある日、集落が魔族の襲撃を受ける。

 ラクリアメレクは母を惨殺され、自らも重傷を負うのだった。


 以降、彼は日々の大半を祈りに費やすこととなった。

 母の魂の安寧を祈った。

 悲しみが繰り返されないことを祈った。

 そして、理不尽に抗う力を求めた。


 雪が降り積もる日も、嵐が吹き荒ぶ日も、だるような酷暑の日も、彼は祈り続けた。

 祈る姿は、苛烈ですらあったと伝えられる。


 そのすえに、彼は天啓を得る。

 力強く暖かい、女神ヨナの声を聞いたのだ。

 女神は言った。

 秘奥を授けると。それを用いて邪に立ち向かって欲しいと。


 それこそが、人に魔力を与える『神疏しんその秘奥』であった。

 その後、ラクリアメレクは各地を巡って人々に秘奥を施し、魔族に立ち向かう力を与え続けた。

 魔族に蹂躙されるばかりだった人間は、ついに獲得したのだ。家族や隣人を守る、そのすべを。


 ラクリアメレクは、人々が感謝と共に差し出す地位や財をすべて謝絶し、市井しせいの人であり続けた。

 感謝されるべきは女神ヨナであると言うばかりであった。


 そしてラクリアメレクが没した後、彼と女神ヨナを愛する者たちはヨナ教を作る。

 その教義と共に、女神ヨナとの間に繋がりを得る秘奥を、人々は連綿と伝え続けていくのであった。


 それが聖者ラクリアメレクの伝承。

 知らぬ者など一人も居ない"正史"である。



 ………………。


 伝承を思い出す俺の眼前で、男は笑っている。

 そして笑顔のまま、弾むように言うのだった。


「よし、改めて自己紹介をしよう。俺はラクリアメレク。お前らの歴史に登場する聖者だ」


 その言葉を、俺は事実と捉えていた。

 馬鹿げた話のようだが、しかし俺は冷静だ。


 冷たい感覚が思考を鮮明にしていく。

 俺は奴の、ラクリアメレクの出方を見ることにした。

 その考えと呼応するように、奴はこちらへ歩いてくる。

 剣を構える相手に対して、まるで遠慮せず近づいてきた。


「それで、お前に一つ教えたいんだが、神は居るぜ」


 俺は奴の考えを知らなければならない。

 理解を共有したい相手ではないが、この敵を知らねばならないのだ。

 からめ捕られぬよう、奴のペースに嵌らぬよう、細心の注意を払いながら、俺は訊いた。


「……女神ヨナが存在すると言うのか?」


「居ないよ、そんなもん。"ヨナ"って、俺が飼ってたウシガエルの名前だし」


 ウシガエルね……。

 それを皆が崇め、とうとみ、振り仰いできたわけだ。

 そして何もかもを捧げている。


「なあ、ロルフ」


 ラクリアメレクは立ち止まり、両手を大きく左右へ広げた。

 顎を引き、俺を見ている。


「人は、か弱い種だ」


「だから何だ」


 弱いから神が必要。その種の議論は今、関係が無い。

 まして欺瞞の神に世界を好きにさせる理由にはならない。

 俺はそう考えるが、そこへ向けられるラクリアメレクの視線は、何かを見透かすようであった。

 彼は話し続ける。


「文明が生まれる前、より大きな生物が溢れる世界で、力なき獣でしかなかったお前らの祖先は、どうやって猛獣たちを制し、大地に覇を唱えるようになったのか。分かるか?」


「獣が人になったと言うのか? それは神を否定しているように聞こえるが」


「いいから答えろよ」


 ラクリアメレクは、俺を知りたがっている。

 俺が奴の考えを知ろうとしているように、奴もまた、俺の心中を覗こうとしているのだ。

 それを警戒しつつ、俺は答えた。


「……想像するに、集団を為した。巨象にも勝てるように結束したんだ」


「おお、やっぱり優秀だなあ。嬉しくなっちまうよ。じゃあ、どうやって結束したんだ?」


「知性を獲得した。だから結束出来た」


「知性をどう使って結束に至ったんだ?」


「…………」


 ただ知性があれば結束出来るというものではない。

 共有する何かが無ければ。


 獣は、血縁によって結束する。

 さらに利害によって群れを成す。


 だが、それまでだ。ごく小さいコミュニティを作るのみ。

 人だけが、その先に至った。

 どうやって?


「こんな感じで、何度も答えを掘り下げていくことが大事だ。智者へと至る唯一の道だぜ」


「で、答えは?」


 俺が問うと、ラクリアメレクは嬉しそうに破顔した。

 そして、勿体ぶるように間を置いてから話し出す。


「原始宗教だよ。神があったから、獣でしかなかったお前らの祖先は結束し、集団性を獲得し、進化の道を踏み出したんだ」


「………………」


 俺の脳裏に、ある光景が浮かぶ。


 太古の時代。どこか暗い洞窟の奥。人にならんとする者たちがそこに居た。

 彼らは未だ言語を持たず、意思の疎通が殆ど出来ない。

 だが、暗闇の中で彼らが交わす視線の中に、共通する何かがあった。

 彼らの精神の奥底に、共通して存在するものがあった。


 おそれである。


 ことに、生と死に縛られないものへの畏れは巨大だった。

 それが火のようにゆらめき、そして。

 彼らに世界を共有させた。


「………………」


「人が世界を作り、そこで神を考え出したと思ってるんだろう? 逆だ。まさしく、神がお前らを人たらしめたのさ。神が人と人の世界を創ったってのは、神話なんかじゃない。事実だよ」


 神学や哲学ではない。

 それは歴史における事実だと、ラクリアメレクは語っている。


「……だとしても、人は神から自由になれる」


「なれないよ」


 両手を広げたまま、奴はまた数歩、歩み寄る。

 響く靴音が冷たい。


「ロルフ、お前だけだ。お前だけが例外だった」


 不意に、奴の顔から笑みが消えた。

 真剣な表情を作り、俺に語りかける。


「ほんの僅かにでも神への依存心があれば、神疏しんその秘奥は効果を為す。それが全く無い人間なんぞ、居るはずが無いんだよ」


「居たんだから仕方が無い」


 俺は特別な者ではない。

 奴が知らなかっただけで、人にはそういう可能性もあったのだ。


「罰当たりだとは思わねえのか? 信仰心ってのは尊いものなんだぜ?」


「俺は信仰を否定してなどいない。人は生き方を選べると信じているだけだ」


 だが目の前の男は、人を信じていない。

 人には神が必要であると、人は神なくして歩めないと、そう考えている。

 人の精神には、太古から神が食い込んでいて、それは離れようが無いのだと。


「あんたに言わせると、まるで神こそが原罪であるかのようだ」


「……ふふ、ははははははは!!」


 ラクリアメレクは爆ぜるように笑い出した。

 人々が想像する聖者像には、到底結びつかない笑い声である。


「いやあ……気に入ったぜ、お前を」


「たいした精神攻撃だ。吐き気がするよ」


「そう言うなって」


 それより、まだ聞くことがある。

 この男が世界に対して何をしているのかは、大まかにだが理解出来た。

 だが、肝心な点が分からぬままだ。


「結局……あんたの目的は何なんだ」


「だから何でもいいだろ? どのみち、たいして価値ある世界でもねえしさ」


「………………」


 その時、轟音が響いた。


 音は上階からだ。

 あの尖塔でも聞いた音。爆発音である。

 音は続けざまに何度も響き、この地下室を揺らした。

 ぱらぱらと、高い天井から砂埃が下りてくる。


「大詰めだぞ」


 俺が向けた視線へ答えるように、奴は言った。

 この西棟で爆発が起きたらしい。

 しかも、かなり大規模な爆発が幾つも発生している。


「何のためにここを壊す?」


「せっかく準備させた火薬だし、使わなきゃ勿体ないだろ」


 奴が言うと同時に、石壁の剥落が始まる。

 この地下室も崩れるようだ。

 上階の建物もここも、古い歴史を持つはずだが、気前よく壊すものである。

 もっとも奴にとって、歴史など無価値なのかもしれないが。


「何が勿体ないだ。ふざけたことを」


「いや、あと邪魔の入らない舞台を作ってやろうと思ってよ。今日ここには、お前と戦いたがってる奴がまだ居るからさ」


「偽りの聖者が、今度は劇作家気取りか」


「なかなか良い演出だろ?」


「どうかな。目新しさを感じない。俺は、炎に崩落する中での戦いを少し前にもやったからな」


 天井が崩れ落ちてくる。

 この地下は、いよいよ炎と瓦礫に呑まれつつあった。


「ああ、バラステア砦か」


「知っているなら変化をつけたらどうだ。これでは三流の舞台だ」


「ははっ! そこは演者に期待させてくれ!」


 崩落は続く。

 俺と奴の間を、燃える瓦礫が塞いだ。


「今日は話せて良かった。やっぱり会いに来て正解だったぜ」


「…………」


 これ以上、ここには留まれない。

 なお笑顔を浮かべるラクリアメレクを最後に一瞥し、俺は背を向ける。

 そして出口へ向けて走り出した。


「じゃあな!」


 背後に奴の声が聞こえる。

 俺は返事をしなかった。


 ◆


 階段にも火が回り始めている。

 ずいぶん派手に爆破したようだ。

 奴はさっき、会談場のついでにこちらを爆破するようなことを言っていた。

 だが明らかに、こちらに使っている火薬の方が多い。


 今回の陰謀の残滓もろとも、この西棟を破壊しようというのかもしれない。

 まだ奴の仲間も残っているだろうに。

 いや、奴にとっては仲間ではなく、ただの駒か。


「く……」


 長い階段を駆け上った結果、脇腹の傷が強く痛んだ。

 今回も派手に負傷したものだ。


 だが、一階に戻ってくることは出来た。

 ビョルンは脱出しただろうか。

 彼とも再合流したいところだ。


「こちらは駄目か」


 廊下は炎で塞がれていた。

 俺は迂回すべく、横合いの広間へ入る。

 ここから反対の廊下へ出られるはずだ。


 広間はまだ火の周りが少なかった。

 突っ切って抜けられそうだ。

 そう考え、走り出そうとする俺の目に、人の姿が映った。

 反対側の入口から入ってくる者が居たのだ。


「よう」


「……ああ、なるほど。あんただったか」


 俺は得心した。

 手にした戦鎚をこちらへ向ける仕草と、そして殺気が伝えてくる。

 ラクリアメレクが言っていた、俺と戦いたがっている奴。

 彼女だったようだ。


「でくの坊。お前を殺しに来たぜ」


 ラケル・ニーホルムは苛烈な笑みを浮かべていた。



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