183_深淵に邂逅す1
出口へ向け棟内を歩く俺とビョルン。
ここを出たら、改めて味方との合流を目指すのだ。
学術院東端の講堂で散り散りになった後、俺たちは北側を通ってこの西棟へ来た。
ここから南側を探せば、味方に会えそうだ。
実際、リーゼらは南へ向かったと、途中で助けた侍女が言っていた。
ひょっとしたら、リーゼは王女たちと合流しているかもしれない。
「…………」
そこにエミリーも居るのだろうか。
障壁を張れる以上、俺のように木片で腹を抉られるようなことも無いはず。
熱波と爆風の直撃を受けていなければ、きっと無事だろう。
「敵に遭わぬな。やはり構内においては指揮系統が死んだと見える」
周囲を見まわしながらビョルンが言った。
俺たちは五階から一階まで下りてきたが、その間、会敵しなかったのだ。
敵は、組織的な動きが出来なくなっているらしい。
「だが、さっきのヴィルマルは、指揮官ではあっても首謀者じゃない。現在の優先事項は要人の保護だが、敵の首魁も押さえたいところだ」
俺が言うと、ビョルンは片方の眉を上げ、こちらを見る。
「首魁が別に居るとして、今この学術院に来ているのか?」
「はっきり首魁と聞いたわけではないが、敵の中級指揮官と思しき者たちが、それらしいことを言っていた」
この学術院からは脱出しなければならない。
だが、分からないことを残したままここを離れるのも危険だ。
この陰謀を暴き、敵を知っておかなければ、次は無いのではないかと感じる。
知るべき何かが、まだここにはある筈なのだ。
「憂いは足に絡む蔦のようなもの。除かぬまま進むことは出来ない」
俺の口から、そんな言葉が漏れ出た。
むかし読んだ書物にあった台詞だ。いまの事態に合致している。
書物と言えば、あの書庫は惜しかった。
交戦後、すぐに立ち去ってしまったが、こんな状況でなければ暫く留まりたかったところだ。
書庫には、蔵書室に置かない本が収められている。
中には、学徒が閲覧出来ないような、貴重なものもあるかもしれない。
そんなことを考える俺の横で、ビョルンが立ち止まった。
見開いた目をこちらに向けている。
「ビョルン? どうした?」
「今の言葉……」
口元と、そこを飾るカイゼル髭が、僅かに震えていた。
今の俺の台詞は独り言のようなものだったが、それを聞いて何かを思ったようだ。
「以前に読んだ騎士物語からの引用だ。主人公が憂いについて論じた一節だが、それがどうかしたか?」
「そうか……騎士物語。そうだったか」
重々しく言い、そして大きく息を吐き出すビョルン。何らかの大きな感情を吐き出しているようでもあった。
その様子に、俺は続けて問うことを止め、そして待つ。
ビョルンは暫し床を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「かつて、同じ言葉を聞かされた。息子からだ」
その表情は、彼が今日初めて見せるものだった。
何かを、恐らくは悲しみを堪える表情である。
「そうか……ご子息から」
俺はそれ以上を口に出来なかった。
ビョルンも語ろうとはしない。
それから、互いに無言で歩きだす。
敵も現れず、靴音だけが妙に響いた。
「…………」
「…………」
ビョルンが告げた、息子という言葉。
その時の、彼の表情。
俺には、その意味が分かるようであり、しかし恐らく何も分かりはしない。
誰にも歴史があるが、ビョルンの年輪は確実に俺の倍以上だ。
彼の中には、俺では想像もつかないものがあるに違いない。
だが、聞けなかった。
彼の息子について何かを問うことは出来なかった。
「…………」
「…………」
それから俺たちは、学術院の長い廊下を、ただ歩く。
俺はやや思考を乱していたが、周りへの警戒を怠りはしない。
現在地と、周囲の状況と、目指す先と。
それらを明確に意識していた。
だがそれでも、想定外の事態は起きる。
「……?」
視線の先に、おかしなものが見つかったのだ。
下りの階段である。
おかしい。
あれは地下への階段ということになるが、この学術院に地下など無いのだ。
情報のうえでは、そうなっている。記憶違いは無い。
王国の側でも、同じ認識のはず。
そう考え、俺はビョルンに目を向けた。
「ビョルン……?」
居ない。
隣を歩いていた彼が見当たらなかった。
探しに戻るべきか?
しかし地下が気になる。
情報に無く、入念な索敵でも見つからなかった階段が、何故か目の前にあるのだ。
「虎穴に入らずんば……か」
言って、俺は階段へ足を踏み出す。
そして慎重に下りて行った。
階段はかなり長い。
折り返しながら、どこまでも下りる。
◆
「少し冷えるな……」
辿り着いた地下は、明らかに上階と違っていた。
肌寒く、また地下であるため当然だが、暗い。
そして薄暗い中に浮かび上がる壁は、石壁だった。この地下は石造りになっている。
壁にぽつぽつとかけられたランプが、廊下を照らしていた。
「…………」
寒いにも
俺は立ち止まり、自身を落ち着ける。
それから改めて周囲を見まわした。
「ランプが灯っているし、床には人が通った跡もある」
やはり虎穴、ここは敵の懐なのか?
だが留まってもいられない。
俺は再び歩き出す。
或いは敵の策なのだろうか?
進路の分からぬ道に誘い込み、迷わせて時間と体力を吸い上げるという術策もあるにはあるが。
そんなことを考え、俺は延々と同じ石壁が続く光景を想像したが、そうはならなかった。
幾つかの角を曲がった先に、両開きの大きな扉が現れたのだ。
「…………」
意を決して、扉に手をかける。
扉はあっさりと開いた。
軽い扉だ。まるで歓迎されているかのようである。
「ここは……」
広い部屋だった。
いや、部屋と言うには何の調度も無い。
だだっ広い只の空間である。
広く、薄暗く、そして天井が異様に高い。二十メートルにも及びそうだ。
「…………」
今回の陰謀。
先行して索敵が為されていたにも関わらず、何処からとも無く敵たちが現れた。
その答え合わせが、いま済んだようだ。
敵兵たちは、ここに居たのだ。
「おっ、来たか」
その空間の最奥部に、彼は居た。
男が一人。四十代ぐらいだろうか。
笑顔をこちらへ向けている。
「待ってたぞ。話してみたかったんだよ、ロルフ」
男は俺の名を呼んだ。
どうも俺は、
「……ご招待頂き光栄だが、どちら様だろうか?」
「段階を踏めよ、段階を」
男は、卓上に行儀悪く座っていた。
俺が近づくと、楽し気な様子で床に下りる。
「俺が誰かは、お前それ割とメインだろ。先ずはここが何なのかとか、なあ?」
「魔法によって隠蔽されていた地下室だろう」
教会によって秘匿された魔法の存在は、元より前提されていた。
会談場爆破の実行犯、ミルドの爆発もそうだ。
彼は体に巻いた火薬によって爆発したが、その火薬に着火する術は無いはずだった。リーゼが一瞬で彼を絶命させていたのだから。
にも拘わらず、彼は爆発した。
俺たちの知らない何かがあり、それが要するに教会の魔法だったのだ。
この地下空間が隠されていたのも同様である。
この石の床。ランプで照らされた壁。
極めて広くはあるが、別に何か異質な空間という訳ではない。
地下室だ。
だが誰もその存在を知らず、索敵でも見つからなかった場所である。
魔法による隠蔽なのだろう。
「でもお前、説明のつかない事象を、すぐ秘匿魔法と片付けちまうのはどうなんだ?」
「一様に、ある種の者たちに益する事象であれば、そいつらの仕業と見るのが妥当だ」
俺が答えると、男はにこりと笑った。
見る者によっては、人好きのする笑顔にも思えるだろう。
「ふふ。その可愛げの無さがたまらんな」
男は、背後のテーブルに両手をついて、体を預ける。
まったく緊張感の無い、見るからにリラックスした態度だった。
「この地下な、認識を阻害する魔法で隠されてるんだよ。ずっと昔から、普通に地下への階段があるんだけど、誰もそこを下りられないのさ」
「…………」
「人の魔力に反応して効果を発揮するんだ。てことは、お前に対しては無効ってわけ」
ビョルンと
敵の手に、どんなカードが何枚あるのか分からないという点は、やはり厄介だ。
「昔からあったと言うなら、俺以外にも魔力が無い者の目に触れていそうだが」
「まあ普段は一応、遮蔽物で隠してあるし、学術院という場所に十五歳未満の者は殆ど来ないしな」
学徒は多くが三十代から四十代だ。
二十代の者も中には居るが、
「凄いだろ、あの魔法。認識阻害なんて他に見たことあるか? 索敵にあたった先遣隊も、まるで近づけなかったんだよ、あの階段に」
男は
カードの中身が分かるのは有り難いが、不快感も募る。
俺は、請われもせずにやたらと手品を見せたがる輩が好きではない。
相手を愉しませることではなく、技を見せることを目的としているからだ。
皆が皆そうではないし、また自負あるプロの奇術師は別物だが、とにかくそういう印象である。
目の前の男もまさに、
「年食うと、物事をシンプルに楽しめなくなるのさ。
「…………」
「心を読んだ訳じゃないぞ。そんなこと出来ないしな。予想しただけだよ」
自らを
この状況を心底から楽しんでいるように見える。
「まあ何にせよ、会えて嬉しいぜ」
「それなら先ず名乗れ」
「俺が誰なのか。お前、うっすら分かってるんじゃないか?」
男は、笑みを浮かべたまま、弾むように問いかけてくる。
にも拘わらず、底冷えのする声音であった。
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