162_講和会談3

 エミリーの剣は、その一振りで一個小隊を轟雷に呑みこむ力を持っている。

 そのことは誰もが知っており、魔族側の文官二名などは、肝を冷やして腰を上げていた。

 アルバンは椅子を蹴って立ち上がりこそしなかったが、やや身を乗り出している。エミリーの剣がリーゼに向くことを警戒したのだ。

 リーゼが易々やすやすと害されるはずは無いと分かっていても、そこは親である。


 そして当のリーゼは座ったまま、ただ正面を見据えていた。

 その視線の先で、エミリーは静止している。

 立ち上がり、腰の剣に手を伸ばした彼女だったが、その手が剣のつかを握ることは無かった。

 震える手が、柄の数センチ手前で止まっている。


「ふぅー……! ふぅー……!」


 歯を食いしばり、息を荒らげるエミリー。

 この会談の場で攻撃行動を取る。当然のことながら、それは極めて重大な行為だ。彼女も理解している。

 ゆえにギリギリで踏みとどまったのだ。


 だが、あちらは踏み止まれなかったようだ。

 王国側、端の席で、武官が立ち上がっている。

 おそらく五十台前半の男。古めかしいカイゼル髭など生やし、いかにも武人という風体である。

 彼の手は剣の柄を握っていた。


「異物どもめ……!」


 武官は顔を憤怒の赤に染め、俺たちを睨みつけている。

 あとほんの僅かなきっかけがあれば、彼は剣を抜くだろう。

 それを恐れたらしく、王女が慌てた様子で声をあげる。


「ビョルン! 落ち着いてください!」


「殿下……! この者たちは、対話をするに値しません!」


「それは貴方が決めることではありません!」


「自らの愚かさは分かっています! ですが、殿下の御座おわす場を軽んずるかのようなげんの数々! 我慢なりません!」


「ビョルン。その忠義を私は喜べません。剣から手を放しなさい」


 ここへ来て力強く発せられる王女の声。

 それを浴びつつ、ビョルンと呼ばれた男は俺たちを睥睨へいげいする。


 最初に聞かされたところによると、彼は王女の護衛として同席している近衛だ。近衛部隊の隊長らしい。

 その近衛隊長の険しい目が、俺たちに向けられている。

 その一方で、王女は彼を見つめた。


「ビョルン」


「…………」


 数秒の沈黙を経て、彼は柄から手を放し、構えを解いた。


「……くだらぬ真似をしました。本職こそが誰より会談を軽視した振る舞い、汗顔かんがんの至りです。どのような責めもお受けします」


 自制心を思い出したビョルン。

 王女への忠誠心で激発を回避したようだ。


「ビョルン、退室しなさい。扉の外で待機することを命じます」


「……は」


 ビョルンは剣を腰から外し、それを卓上に置いた。

 近衛を辞するつもりなのだろう。

 そして目を伏せ、部屋を出て行った。

 扉が閉まる音を聞いた後、アルバンが口を開く。


「こちらの言動にも行き過ぎた点はありましたが、今の行動は看過出来るものではないですな」


 当然、それを言うべき場面である。アルバンは低い声に威圧感を乗せていた。

 エミリーの行動も不問に出来るものではないが、ビョルンのそれは完全にボーダーラインを超えている。退席だけで許されるものではない。


「私から謝罪を。また、講和の条件にも考慮を加えさせて頂きます」


 追放の件で俺に謝罪した時と同様に、胸に手を当てて僅かに顔を下げる。

 宰相と、残ったもう一人の武官が、表情に険を増した。

 またも王族が謝罪に及ぶという、彼らにとって許容し得ぬ事態になってしまったのだ。


「王女殿下の謝罪が貴国にとって如何に重大でも、我々にとってはさして価値の無いものです」


 しかしアルバンは、すげなく述べる。

 それを聞いた宰相と武官は、怒りでいよいよ震えだした。

 だが先ほどの男、ビョルンと同じ轍を踏めば、その時は王女に最悪の恥をかかせることになる。

 彼らは決してそれを選べない。

 その点を心得ているアルバンは、会談相手たちへ強い視線を向けながら告げた。


「次は無いと思って頂きたい。講和条件に関する考慮とやらに期待させて頂く」


 ここはビョルンの退席だけで収め、貸しを作る方針にしたようだ。

 それからアルバンが目配せをすると、こちらの文官二名が頷いた。

 そして一方が口を開く。


「連合側の条件のうち最優先は、魔族奴隷の即時解放です」


 それを聞いても、王国側の面々に驚きは見られない。

 予測のうちだったのだろう。

 だが宰相と武官は、顔に浮かぶ不快感を隠してはいない。

 その表情のまま、宰相が答える。


「それは呑めない」


「しかし申し上げましたとおり、最優先の条件です」


 文官も退かずに返す。

 この点は主張を曲げぬと決めてあるのだ。

 虐げられている人たちをそのままにして至れる平和など、何処にも無い。


「奴隷は社会基盤の一つだ。必要不可欠な労働力であり、それを無くしては世が立ち行かぬ」


「話が噛み合っていないな」


 俺の口から出た台詞である。

 その声は、怒りで低く重いものになっていた。

 話を明後日あさっての方向へ持っていく宰相に、つい苛立ってしまったのだ。

 今この時も大勢の奴隷たちが悲惨な境遇にあることを思えば、宰相の物言いは、もはや戯言にも感じられる。


「俺たちは王国の身分制度を云々したい訳じゃない。捕らわれている者たちを帰せと言っているんだ」


 奴隷制度など少しも支持出来ないが、ここではそれの是非を問うていない。

 家族から引き離された人たちを、本来あるべき居場所へ戻したいだけなのだ。


「それは捕虜交換の申し出かね? であれば応じぬでもない。貴公と交換なら二、三十人は都合できる」


 先ほどの"帰順"の案に絡め、そのようなことを言い出す宰相。

 なお看過し得ぬ言葉であった。


「……宰相。宰相フーゴ・ルーデルス」


 怒りで頭の血が冷える。

 同じく声も冷気を帯びた。


「そこが戦場であるかどうかも関係なく、子も老人も見境なく捕らえておきながら、それを捕虜と称するな」


「そう。子や老人を含む。貴公らの側に立って言えば、戦えもせぬのに略取された者たち、ということになる。だが武力紛争による虜囚は、即ち捕虜だ」


「民間からの略取も武力紛争に含むと?」


「魔族へ剣を向ける。その行為のすべてが、女神の名の元に行われる聖戦だ」


 宰相は言外に、何故こんなことが分からないのか、と述べている。

 これは常識であり、お前も人間である以上、分からぬはずが無いのだ、と。

 だが、分かってやる気にはなれない。

 ずっとそうだったのだ。

 分かりようがないのだ。


「俺と交換なら二、三十人。いま言ったそれが、どれほど命を貶めているか分からないのか?」


 言わずにはいられない。

 理解してはいる。女神の教えを疑えぬ者に、こんな言葉は届かないと。

 だが、言わずにはいられないのだ。


 その思いに悲しさを覚え、ふと、視線を宰相の隣にやった。

 そこには王女が座っている。

 何も言わず、俯いて。


「………………」


 彼女は唇を噛んでいた。

 怒りによってではない。一目瞭然だ。目にうっすらと涙が浮かんでいるのだから。

 彼女は明らかに、悲しみを堪えている。


 やはり、この王女は……。


「停戦のうえ、魔族奴隷の即時解放に応じて頂ければ、ストレーム領、タリアン領、アルテアン領、およびイスフェルト領を貴国に返還します」


 ここで文官が、あらかじめ決めていた条件を述べる。

 ただしそこに住む民は、王国か連合か、帰属先を選択出来るものとする予定だ。

 王国への復帰を望まぬ者も少なくないというのが俺たちの見通しである。


 それでも四領土返還は王国が何より望む条件のはず。

 向こうも停戦の条件として、それを求める予定だったに違いない。

 こちらはそれを小出しにせず、すべての返還を申し出た。

 そうしてでも、虐げられている者たちを救いたいのだ。


「即時、というのは無理な条件です。ある程度の期間を頂ければ、或いは」


「王女、期間があったところで……」


「ある程度とは?」


 宰相の言葉を遮り、アルバンが問う。

 苦虫を噛み潰したような表情を見せる宰相の横で、王女は少し考え、そしてやや辛そうに言った。


「七、八年……。いえ、五年あれば、きっと何とか」


「いや、五年でも長い。その間に、囚われている者たちがどれほどの痛苦に見舞われるか。どれほどの者が命を落とすか。我々はそれを許容出来ないのです」


「…………」


 アルバンの言うとおりだ。

 譲れぬ条件である。


「それに王女殿下。先ほど、講和の条件において貴国は考慮を加えると仰いましたな」


「……たとえ失地を取り返すためであっても、社会のしくみを変えるような条件は呑めません。国体というものは斯様かように簡便ではないと、アルバン殿にもお分かりの筈です」


「分かったところで譲れませぬ。では王女殿下。貴方が仰る考慮とは何なのか?」


「先ほどの、ロルフ将軍復帰に関する条件の追加です」


 なおそこに拘る王女。

 最重要は領土返還であろうが、講和に際して望みたいのは、敵戦力を抑えたうえでの停戦である。火種を消しておきたいと考えるのが常だ。


 よって連合と俺の離間は、王国にとって重要課題である。

 王国は俺という将の力を認めたくはないだろうが、しかし認めざるを得ないところまで来ている。

 さらに俺は現状、反王国の旗印にもなり得る存在なのだ。

 そんな者を連合から引き剥がすことが出来れば、それは王国にとって望ましいシナリオになる。


 だから王国側はそれを成立させたい。

 宰相が、二、三十人の捕虜と交換、などと口走るほどには。


「私どもとしては、ロルフ将軍の王国復帰という案は、現実的な策ではないと評価します」


 しかし文官は、そう返答する。

 こちらの意思は変わらないと、そう告げたのだ。

 だが、それを心得ていたかのように王女は頷き返し、言った。


「ですから、条件の追加にて再考を願いたいのです」


 一拍、間を置いてから皆を見回す王女。

 これから重大なことを伝えるという意思表示である。

 そしてゆっくりと口を開いた。


「ロルフ将軍をロンドシウス王国バックマン家の当主とし、そしてエミリー・ヴァレニウスとの婚約を履行するものとします。姻家となるに際しては、両家を統合し、陞爵しょうしゃくさせます。領地の大きさ、国内での重要性を鑑み、バックマン・ヴァレニウス家は侯爵家となるでしょう」


「なっ!?」


 驚きに声をあげたのは宰相であったが、エミリーと武官も明らかに驚愕している。

 当然だろう。王女が口にしたのは常軌を逸するまでの条件である。


 その王女は、俺をじっと見据えていた。

 白磁のような頬に、一筋の汗が浮かんでいる。


 そこには苦悶が窺えた。

 自分は国内の非難を理解したうえで、こういう決断をする。視線がそう伝えていた。

 本当は自分にも、国を変える覚悟はある。そう言っているように見えた。


 元より王女はこれを腹案としていたに違いない。

 今なお国力で大きく勝る王国が、停戦を条件に領土を返還させる。賠償という名目にはなるまいが、金銭による補償も提示してくるはずだ。

 そのうえで、充分な土産を用意して俺を王国へ戻す。

 それが王女の考えだろう。


「確認しますが、殿下の出された条件は、俺と連合の離間を目的としたものですよね?」


 いっそ俺は、直接それを聞いてしまうことにした。

 俺が連合の将である限り、それは王国にとって火種になる。そこは疑いようが無いのだ。


「否定はしません。ですが、これは双方にとって有意な話である筈です」


 王女は言い募る。

 彼女もまた、思いに引っ張られて語気を強めるような、そんな普通の人であることを明示しながら。


「ロルフ将軍。魔族を無条件で敵性種族とする価値観を変えるために、貴方が王国内で権勢を持ってください。時間はかかるでしょう。しかし、私やヴァレニウスの協力があれば、それは可能です」


 ついに王女は、自身の協力という言葉を口にした。

 隣で目を見開く宰相の姿には、気づいていることだろう。

 だが彼女は、敢えてこれを言っている。


 また、あくまで施策の主体者を俺とし、自身を協力者としている点にも頷ける。

 彼女自身は大っぴらに動けない。

 王権への反発を極力防がねばならないし、おそらく……ほかにも動けない理由があるのだ。


「確かに時間をかけていては、救えぬ人も居るでしょう。しかし変革には時が要ります。貴方がたにも、それを為す覚悟を持って頂きたいのです」


「……殿下」


 唸り声のような宰相の言葉。

 王女に制止を求めるものであろうそれは、しかし無視された。


「第一、ここで停戦を選べなければ、死者はより増えることになります。そうでございましょう?」


 王女の台詞は、もはや懇願のようでもあった。

 ロンドシウス王国の実質上の最高権力者が、必死に理解を求めている。


「私の願いが、貴方に不本意を強いるものである事は分かっています。王国に戻りたいとお考えではないでしょう。しかしロルフ将軍。貴方は平和のために、自ら重荷を背負える人です」


「あ……」


 王女の静かな迫力に気圧されたのか、呆気にとられていたようなエミリーだったが、その王女の言葉を聞き、小さく声を上げる。

 次いで俺へ目を向けた。

 期待の込められた視線であった。


 その視線を受け止め、俺は数秒、思考する。

 それから、隣に座るリーゼを見やった。


 一方アルバンは沈黙し、ただ俺を見ている。俺が答えるに任せようとしているようだ。

 王女や宰相らの視線も俺へ向いていた。


 皆が、俺の回答を待っていた。



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