128_開かれる戦端
俺たちは、霊峰の中腹に差し掛かるあたりで攻撃開始の刻を待っていた。
イスフェルト領に入ってから、ここまで接敵することなく進軍できている。
俺たちに呼応するように、敵も霊峰を戦いの場としたのだ。
それには理由がある。
信仰の象徴である霊峰で魔族軍を覆滅せしめるのが正しい行いであるという、教義に則った判断が敵にあることがひとつ。
そして何より、霊峰ドゥ・ツェリンはまさに要害の地なのだ。
標高は低いが、反して面積は広い。
裾野ばかりが極めて広範に渡って続いているような地形であり、したがって行軍は可能だ。
ただ、そこかしこに谷が走っている。
まず西側は大きな渓谷に阻まれ、山頂へ至るルートを取れない。
ほかの三方も所々に谷が走っており、行動がかなり制限される。
俺たちの居る北側は完全に分断されており、レゥ族が攻め込む南側とも、反体制派が攻め込む東側とも、谷に隔てられているのだ。
南側と東側は一部が繋がっているが、これも限定的だ。
いったん麓近くまで下がらなければ行き来できないため、柔軟に兵を流通させることは不可能となっている。
今回、魔族と人間はあくまで同時に攻撃に及ぶという相互利用関係にあるのみで、積極的な協力関係には無いが、そうでなくとも、協力は物理的にほぼ不可能な状況なのだ。
対して、防衛側は事情が違う。
山頂からは望んだルートへ入れるのだ。
いずれの戦域にも、自由に人員を送れるわけである。
つまり、俺たちは兵力を流通させることができず、完全に別行動となるが、敵はそうではない。
これは厳しい条件だ。
様々な者たちの尽力があり、戦略面での条件を整え、三正面作戦の実現にこぎつけたが、決して優勢とは言えない状況である。
だが、これが採り得る中では最善の方針であるはずだ。
あとは戦場で全力を尽くすのみである。
「………………」
敵は、第一騎士団と第二騎士団。そして精強極まる済生軍だ。
王国と教団を同時に相手取った戦いになる。
それは既定路線だ。
ロンドシウス王国との戦いが、ヨナ教団との戦いをも指すと言うことは、公然たる事実である。
そして教団への打撃は、王国の支配体制への打撃にもなる。
この霊峰を落とせば、教団はまさに大打撃を受け、それは王国にも波及する。
なればこそ、絶対に勝たなければならないのだ。
それを思い、前方に広がる戦場を見渡した。
灰色の岩々を、白い霧が覆っている。
霧はかなり深く、視界は周囲十メートルほどしか利かない。
「それにしても凄い霧ね」
傍らに歩み寄ってきたリーゼが言う。
事前に得ていた情報どおりではあるが、こうして実際に見ると、やはり驚く。
一面まっ白なのだ。
「この北側の霧が最も濃いらしいからな」
ほかの二方面は、ここまでではないそうだ。
ちなみにヨナ教信徒の間では、この北側が巡礼ルートとして一番人気らしい。
さして標高が高いわけでもないこの地に、ここまでの霧が通年発生しているのだ。
神秘を感じるのだろう。
「神秘的ね。ここを霊峰って呼ぶのも分かる気がするわ」
リーゼも同じ感想を持ったようだ。
だが実のところ、この霧には説明がつく。
「河川がふたつ、東西に流れているんだよ。山を挟むようにな」
「知ってるよ。周囲の地形は頭に入ってるから」
「その河川の水温に開きがあるんだ。それが霧の原因だよ」
この霧は、地理的な特殊性によって発生しているのだ。
神の奇跡ではない。
「え、そうなの? 温度差がある川が近いと霧が出るの?」
「ああ。俺が発見したわけじゃないけどな。昔そう主張した地理学者が居たんだよ。でも筋が通っているし、たぶんそれが正解だと思う」
残念なことに、その学者は不慮の死を遂げている。
それが謀殺なのかどうかは分からない。
何にせよ俺としては、必ずしも神秘を否定するものではない。
先ごろヴァルターと竜の神性について語り合いもした。
何か美しかったり不思議だったりする光景に、大いなるものの影を感じるのは、人にとっておかしなことではない。
そういった考えを浪漫とも言うわけで、特に忌避する必要は無いと思っている。
だが、説明のつく事象を神威に結びつけるのは無理筋だ。
ましてそれをプロパガンダに用いるなど。
「もっとも、この霧が何であれ、警戒すべきものであることは確かだ」
「うん。同士討ちにも注意しないと」
霧に向け無闇に攻撃し、味方を傷つけるようなことになったら目も当てられない。
かと言って攻撃に二の足を踏んでいては勝ちようが無い。
匙加減の難しいところだ。
「そしてこの霧のずっと向こう、南と東でも、仲間が勝ってくれると信じよう」
「そうだね」
俺は、レゥ族と反体制派をただ仲間と呼んだ。
本当は、旗印として、きちんとした呼称が欲しかったところだ。
だが俺たちは正式な同盟ではなく、消極的な協力関係であると強調しているのだ。
明確な呼称の設定は時期尚早である。
残念だが次の機会に持ち越しだ。
「……そろそろ時間ね」
リーゼが言った。
同時攻撃開始の時刻だ。
「ああ」
常に無い緊張を隠すように、俺は短く答えた。
いよいよ戦いが始まる。
◆
「ヴァルター。準備はいい?」
「いつでも行けるよ」
霊峰南側。レゥ族が展開する地点。
ヴァルターは、エリーカの問いに頷いた。
大きな戦いを前に気負いは無いようだった。
エリーカは、その姿に頼もしさを覚える。
幼い頃の彼は、エリーカの後ろを付いて回る気弱な少年だったのだ。
その頃に比べれば、本当に強くなった。
気弱という点では今もさして変わらないが、決して
戦いに身を投じ、結果を出し続け、英雄と呼ばれるまでになった幼馴染みなのだ。
「あ、ほら。襟が曲がってるわよ」
「い、いいよそんなの。これから戦いだよ?」
「駄目。戦いだからこそよ」
衣服の乱れは心の乱れ。
やや見た目に無頓着なヴァルターに、エリーカは常よりそう言っている。
美しい指先が自分の襟を直す間、居心地悪そうにそっぽを向くヴァルター。
周りでは仲間たちが冷やかすような笑みを浮かべていた。
「はい。これでオーケー」
「ありがとう」
意に沿わぬ扱いでも、礼は忘れないヴァルター。
だが胸中には、密かに野望を灯らせる。
この大きな戦いで活躍すれば、子ども扱いされなくなるかも、というものだ。
「よし、頑張ろう」
「うんうん。その意気よ」
そして、個人的な野心は抜きにしても、絶対に勝たねばならない戦いである。
それを思い、ヴァルターの表情に力が入った。
戦いの向こうに目指すのは、ただの戦術的勝利ではない。
新しい世界だ。
少し前まで考えもしなかった世界。
何にも怯えずに済むし、弱き人たちを怯えさせずに済む世界。
そして、ロルフのような新しい友人たちの居る世界。
それを実現するのだ。
そこへ至るのだ。
大切な人たちと共に。
ヴァルターは、改めて心に勝利を誓った。
そんな彼の耳に、仲間の声が届く。
「そろそろ時間だぞ」
攻撃開始の時刻だった。
穏やかな空気が霧散し、皆の顔が引き締まる。
霊峰ドゥ・ツェリンを舞台とした一大決戦が、いよいよ始まるのだ。
◆
「ロルフさん。前衛が接敵しました」
「分かった」
霊峰の戦いが始まった時刻は、俺にも分からない。
公的には、攻め込む三方が定めた攻撃開始時刻がそれになるだろう。
だが実際のところ、戦いは少しずつ始まっていったのだ。
号令などは何も無かった。
両軍は、じりじりと近づき、そしてじわりと接敵する。
それから、少しずつ剣戟音が大きくなっていった。
地の利が向こうにあるため、俺たちは警戒しつつ戦いへ踏み入ったのだが、敵も俺たちを警戒していたのだ。
こうして、歴史に特筆されるであろう霊峰の戦いは、特筆すべき点を持たぬかたちで始まった。
だが、始まったかと思ったら、ややあって剣戟音が止む。
敵の前衛が下がったのだ。
これは……。
「障壁張れ! 魔法障壁だ!」
俺が叫ぶと、すぐさま魔導士たちが魔力を練り上げ、防御魔法を詠唱した。
「
隊列の前に魔法防御の壁が出現する。
その直後、幾本もの炎の槍が飛んできた。
敵の
炎の槍は障壁に激突し、こちらの隊列へ至る前に爆ぜる。
間一髪だった。
「風だ!」
続けて俺の飛ばした指示は、ごく短いものだった。
だが、部下たちはきちんと汲んでくれる。
優秀な者たちなのだ。
「
矢避けの風が大きく吹き、一時的に霧を吹き飛ばす。
霧が晴れた向こうに、敵の正体が見えた。
希少なはずの魔導士が、荒涼とした山にずらりと並び、こちらへ杖を向けている。
「済生軍か!」
俺が言うと、近くに居た部下のひとりが顔を
当然の反応だろう。
済生軍は、音に聞く強力な軍なのだ。
もっとも、今回はどれを引いても顔を強張らせる羽目になる。
済生軍のほかは、第一騎士団と第二騎士団なのだから。
とにかく俺たちの相手は、ヨナ教団の私兵集団、済生軍に決まったわけだ。
極めて魔導に優れると有名で、それは今、この目で確認できている。
「また来るぞ! 障壁張り直せ!」
俺が叫んだ直後、槍は再び飛来した。
爆音をあげ、次々に障壁を揺さぶっていく。
炎の槍が、まるで
その槍の群れを目にした俺は、敵の意図を概ね理解した。
イスフェルト侯爵を最高司令官に戴く向こうと違って、今回こちらに総司令官は居ない。
だが、敵にとっての最重点目標は明らかだ。
俺である。
そもそも将軍であるし、そして悪名によるネームバリューは随一なのだ。
敵は"大逆犯"を絶対に押さえたいだろう。
そのためイスフェルト侯爵は、本来の自分の軍である済生軍をこちらへ向けてきたのだ。
功名心のためか責任感のためかは分からないが、とにかく狙いは俺だ。
これが自意識過剰であってくれても俺は困らないのだが、黒い剣を持った大男を見るや、敵たちは目に怒りを込めている。
やはり俺に用があるらしい。
良いだろう。
こちらから出向いてやる。
胸中にそう告げて、俺は隊列の前へ進み出るのだった。
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