98_泣き濡れる刃

「ふぅ……」


 日はすっかり落ちていた。

 素振りを終え、俺は一息つく。

 強度を上げた訓練にも、だいぶ慣れてきた。


 しっかり順応し、訓練を日々の一部とすることが大事だ。

 地道に毎日続けることが最も重要なのだ。


「ロルフさん、その鼻はどうしたの!?」


「ああエマさん。なに、ちょっと殴られてな」


「なぐ……? やっぱり軍は大変なんですね。あの人もムチャをしなければ良いけど」


 やって来たエマが、夫のフランクを心配する。

 隣家の夫妻はいつも仲睦まじい。羨ましいことだ。


「ロルフさん、これ。馬乳酒です。おすそわけ」


「おお、ありがとうエマさん。こいつは嬉しい」


「ロルフさん、それ好きですよね。魔族でも苦手な人が居るんですけど」


「初めて飲んだ時は感動したよ」


 受け取ったポットを手に、俺は改めて礼を言い、家のなかへ戻った。

 このような、近所づきあいのある生活は初めてで、なんとも新鮮で温かみのある日々だと感じている。

 今度、俺からも何か差し入れるとしよう。


 ◆


 夕食を終え、貰った馬乳酒を椀にそそぐ。

 これは馬の乳を発酵させたものだ。

 酒と銘打たれているが酒精は殆ど無く、この地では子供から老人にまで親しまれている。

 俺は少し口に含み、ゆっくりと飲み下した。


「ほぅ……」


 清流が一日の疲れを洗い流すかのようだ。

 独特の風味に、苦みと酸味がある。これが実に美味い。

 今日を締めくくるに最良の一杯だろう。


 実に価値ある一日だった。

 あとは就寝まで、借りて来た本を読んで過ごすとしよう。

 そう思っていた矢先、ドアがノックされた。


「ロルフさん」


「フランク。どうした?」


 ドアを開けると、先ほどのエマの夫、隣家のフランクがそこに居た。

 兵卒として軍に務めており、したがって将軍である俺は上官にあたる。

 だが気の置けない近所づきあいをしてくれている、裏表の無い好漢だ。


「ゴルカ族の人、あの若い秘書官さん、いや、元秘書官さんだっけ? とにかくあの人、ひとりで平原に出たまま帰ってなくて」


「ディタ殿が?」


「そう、ディタさんだ。ちょっと今、騒ぎになってるんだよ。ロルフさんには伝えておこうかと」


 ヘンセンの北側、防壁の外には平原が広がっている。

 皆、夜はまず出歩かない場所である。

 昼間はさして危険は無いが、日が落ちると魔獣が出るのだ。


「ここ何日か、大型の魔獣が出てたよな?」


「ああ、畏塊熊イカイグマが。これちょっとヤバいかもしれない」


 畏塊熊イカイグマはかなり危険な夜行性の魔獣だ。

 全長四メートルほどの熊型の魔獣で、岩をも砕く膂力と、大樹を切り裂く爪を持っている。

 そして通常の熊が人との関わりを避けるのに対し、この魔獣は積極的に人を襲い、そして喰らう。

 畏塊熊イカイグマが出現している時に、夜まで防壁の外に居るのは自殺行為に近いのだ。


「分かった。知らせてくれてありがとう」


 そう言って、俺は剣を手に家を飛び出し、北の防壁へ向かった。


 ◆


「どうも昼頃に一人で出て行ったようです」


 門に居た兵はそう言った。

 その時の当番兵は、北東の岩場に畏塊熊イカイグマが出ているから近づいてはならないことをディタに伝えたそうだ。

 近場を軽く見て戻るのだろうと思ったらしい。


「いま人を集めています。まもなく捜索に出られますので」


「分かった。俺は先に行っている」


 そう言って門外へ馬を走らせた。

 ヘンセンに住む者でないとは言え、防壁外の危険性をディタが知らない筈が無い。

 その危険のなかへ、剣も使えぬ身で一人踏み入ったのだ。

 明らかにまともな判断ではなかった。


 打算的なことを言えば、今回の同盟のために彼女を救うべきだ。

 族長の娘がこの地で魔獣の爪に切り裂かれでもしたら、同盟にケチがつくことになる。

 先の傷害未遂のことが伝われば、それに起因する死ではないかと、おかしな風聞も生まれかねない。


 だがそれ以前に、彼女は救われるべきなのだ。

 あの女性に何が起きているのか、俺には分かる。

 元々、憎悪とは全く無関係だった人が、それを胸に宿さざるを得なくなった。

 そして、突如宿った憎悪の扱いが分からず途方に暮れているのだ。


 火の扱いを知らぬ幼子が、突然松明たいまつを手渡されたようなものだ。

 どうすれば良いのか分からず、焼ける手を絶望に満ちた目で見つめている。


 憎悪の命じるまま俺に刃を向けても、何も変わらなかった。

 そしてどんなに絶望しても、自身の喉に刃を突き立てることは出来ない。

 いよいよ取れる行動が無くなった彼女は、魔獣の跋扈ばっこする平原へ踏み入ったのだ。

 終わらせるために。


「見えて来たな」


 前方に、大小さまざまな岩石群が現れる。

 そのうちの一つ、高さ六メートルほどの、小ぶりな岩山とも言える巨岩。

 そのいただき付近にディタが居た。

 頼りない足場に立ち、岩にしがみついている。

 震えているようだ。目に涙を溜めていることがここからでも分かる。


 岩山の麓には、全身を黒い毛皮で覆った巨大な熊型の魔獣が一体。

 やはり居た。畏塊熊イカイグマだ。

 岩山の上に居るディタを睨みつけている。


 俺は馬から降りて、そこへ近づいた。

 蹄の音に気づいていた畏塊熊イカイグマは、振り返って俺を見据える。

 獲物が一匹増えた、とばかりに侮ってくれれば良かったが、どうやらそうも行かないようだ。

 畏塊熊イカイグマは警戒心を持ちつつ、低く構えて唸り声をあげてきた。


「ッガァァァァァ……!」


 こいつは俺を危険な相手だと判断している。

 処理すべき脅威であると。

 そして前脚をつき、少しずつ間合いを詰めてきた。

 俺も剣を正眼に構え、半歩ずつ近づく。


「む……」


 俺よりずっと大きく、瞬発力にも優れる魔獣だ。

 当然、俺より大きな間合いを持っている。

 俺は既にこいつの間合いに入っている筈だ。


 だが飛びかかってこない。

 まだそこは俺の間合いの外だと分かっているのだ。

 畏塊熊イカイグマは、ギリギリまで近づいてから攻撃に転じようとしている。


「やはり高位の魔獣というのは賢いな……」


 もし言葉が通じたなら戦術談議に花が咲くかもしれない。

 そんなことを思いながら、しかし油断せず間合いを測る。

 額を汗が伝った。


「グォァァァァ……!」


 再び響く唸り声。

 巨体を殺気で漲らせ、奴はじりじりと近づいてくる。

 俺はすべての集中力をもって、その巨体を注視した。

 ヤツの視線、足運び、そして毛皮の下で脈動する筋肉。

 瞬きもせずに畏塊熊イカイグマを見据える。


 そして筋肉が隆起し、次いで殺気が膨れ上がるのを感じ取った。

 ここだ。このタイミングで踊りかかって来るに違いない。


 俺は次の瞬間に訪れる攻防へ備え、息を全て吐き出した。

 そして全身の力を抜く。

 来る筈だ。来い。


「ゴァァァァァァァ!!」


 果たしてヤツは躍りかかって来た。

 コンマ一秒ズレない、完全に予想どおりのタイミング。

 俺は真横に転がって回避する。

 ほぼ同時に、俺が居た空間を巨大な爪が切り裂いた。

 そしてその直後、片膝をついた体勢から、俺は横薙ぎの剣を放つ。

 黒い刀身が魔物の喉を斬った。


「ガッ……!?」


 分厚い毛皮、分厚い皮下脂肪、そして筋肉。

 その全てを煤の剣は通過し、頸動脈を切断せしめる。


「……コハッ…………!」


 喉から血を噴き出しながら倒れる畏塊熊イカイグマ

 巨体が崩れ落ちる時、ずしんという音が響き渡った。

 月明かりの下、真っ黒な体が小山のように横たわる。


「ふぅ……」


 一息つき、振り返った。

 ディタが、岩にしがみつきながらズルズルと降りてくる。

 俺も彼女の元へ歩み寄った。

 俯き、目を伏せるディタ。


「……滑稽よね」


「なにがだ?」


「死ぬつもりで来たのに。でもあの魔獣に会って、怖くなって、あの岩山に」


「当然のことだ。貴女の心は死を望んでいない」


「…………」


 その時、岩山を昇り降りしてはだけた彼女の装束から、短剣がぽろりと落ちた。

 ディタは鞘が無い剥き身の短剣を懐に呑んでいたようだ。

 月光を受けて鈍く輝く短剣。

 彼女はそれをのろのろと拾い上げ、そして構えた。


「う……う……うぅ……!」


「…………」


「うあぁぁぁぁぁぁーーー!!」


 俺に短剣を突き出すディタ。

 そして倒れ込むように近づき、刃を喉に向けて来た。


「はっ……はっ……」


 震える両手で握られた短剣の刃が、俺の喉に当たっている。

 ディタは俺の胸に顔を押さえつけ、喘ぐように息をしていた。


「ディタ殿。その刃を押し込んだとして、俺の返り血を浴びたとして、貴女は楽にはならない。残念ながら」


「でも! これ以外にない! こうするしかない!」


「ではそうしろ」


 ぐ、とディタの息がつまる音がする。

 彼女は両の頬に涙を落としながら、俺を見上げた。


「やるべきことがあるのに命を投げ出すの!? 貴方は皆の希望なんじゃないの!?」


「投げ出していない。貴女では俺を殺せないから」


 命に刃を向ける時、心の尽くを消費してしまう者は少なくない。

 それが、普通の善良な人というものだ。

 前回、宿の廊下で短剣を防いだ時に分かったが、ディタもそれだ。

 故にこそ、苦しんでいる。


「殺せるわ!」


「無理だ」


 顔をぐしゃぐしゃに歪め、涙をぼとぼとと零すディタ。

 俺の胸元に体を預けたまま見上げてくる。

 喉に当たっている短剣が震え、ぷつりと皮膚が切れた。

 俺の血が一筋、零れ落ちる。

 人間も魔族も等しく持つ、赤い血だ。


「ふーっ! ふーっ!」


 肩で息をするディタ。

 激しい心音が、俺の胸を伝って聞こえてくる。


「か、母さまは……!」


「………………」


「いつも……やさしくて……私の、味方で」


 ディタは語る。

 渦巻くものを必死で吐き出す。


「私が……友達の持ってたお人形が欲しくて、泣いてたら……一晩中……お人形を縫って、こしらえてくれて……。私が、父さまとの馴れ初めを聞いたら……微笑んで、昔の話を聞かせてくれて……。私が、秘書官に任命されたら……泣いて喜んでくれて……」


「………………」


「その任命のお祝いに……いっぱい美味しいものを作るって……。それで、隣の集落へ、私の好きなとちの実を貰いに行って……。その途中で人間の部隊に……」


「………………」


「母さまは………全身を何か所も槍で刺されてて……。戦う力なんか持ってないのに……。執拗に穴だらけにされてて………」


 言いながら、短剣を取り落とすディタ。

 そして俺の体に寄りかかりながら、ずるずると崩れ落ちていく。


「う……うぅ……うぅ……」


 泣きながら地面に両手をつく。

 涙が大地に染みを作った。


「分かってる! 母さまを殺したのは貴方じゃない! でも私は人間がゆるせない! だって人間は魔族すべてを殺す!! 母さまも、魔族だからという理由で殺された! 人間に殺された!!」


 振り上げた短剣がどこの未来にも繋がっていない事は、誰より彼女が知っていた。

 だが、そうせずにはいられなかったのだ。

 そうするしか無かったのだ。


「貴方は、私みたいな人をこれ以上生まないために戦ってる! それなのに私は! 人間である貴方が憎い! 憎い! 貴方は今だって私を助けたのに! それなのに憎い!! 私は! 私はぁ!!」


「ディタ殿……」


うしなったのは私だけじゃないのに! みんな耐えてるのに! みんな悲しんでるのに! それなのに私はこうせずにいられなかった! じ、自分が惨めで仕方ない! 私だけが弱い! 私だけが!」


「………強い弱いじゃない。ただ心が張り上げる声を止めることなんて出来ないんだ。どうにもならないんだよ」


「うわあぁぁぁぁぁぁーーー!!」


 月夜に慟哭が響く。

 悲しくて悲しくて、もう絶対に会えない人が恋しくて。

 そして悲しみをもたらしたものへの憎しみが、やっぱり悲しくて。


「あああああぁぁぁぁぁぁーーー!!」


 どうして憎まなければならないのか。

 憎みたくないのに、どうして。

 叫び声が、夜空にそれを問うていた。

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