90_落日の領都
着地できず、地を転がるテオドル。
転がった地面に、血の跡が伸びる。
手応えはあった。
致命傷だ。
そう確信し、彼を注視する。
テオドルは、ひしゃげるように倒れ伏している。
しばらくの静寂ののち、その手がぴくりと動いた。
そして震えながら、ゆっくりと立ち上がる。
「…………」
「…………」
無言で俺の目を見るテオドル。
俺も視線を外さなかった。
がらんと音を立て、槍が地に落ち、転がった。
尚も手にしていた槍を、彼は遂に取り落としたのだ。
そして歩き出す。
ゆっくりと、最期の力で一歩ずつ歩いてゆく。
俺はそれを黙って見ていた。
彼が向かう先には、横たわるヴィオラが居た。
足を引きずるようにそこへ向かい、そして、数メートル手前で崩れ落ちる。
それでも顔を上げ、這いずりながら姉の亡骸へ近寄っていく。
俺は手を貸さなかった。
彼らの世界へ押し入ってはならないと分かっていたのだ。
やがてテオドルはヴィオラの傍へ辿り着いた。
そして指を絡め、彼女の手を握る。
もう片方の手は首に回し、横たわったまま彼女を抱擁した。
目を閉じるテオドル。
周囲に満ちる静かな空気の中へ、テオドルの生命が溶け込んでゆくのを感じた。
彼は姉の元へ旅立ったのだ。
「…………」
俺は抱擁する二人の姿を見つめる。
そしてフェリシアを想った。
エストバリ姉弟は、悪意満ちるこの世界で、最期まで互いに寄り添った。
二人の抱擁は、俺に敗北感を与えるに十分なものだ。
ヴィオラ・エストバリとテオドル・エストバリ。
忘れ得ぬ敵手だった。
◆
私たちは、勝つために領都へ攻め入った。
勝つことを信じて戦った。
でも、いざこの光景を目の当たりにすると、夢でも見てるんじゃないかって気になる。
領軍が降伏したのだ。
「あの、リーゼさん」
「う、うん」
近くに居た仲間も、信じられない思いでいるようだ。
ウルリクを倒した後、優勢に戦いを進める私たちだったが、なお領軍は抗戦を続けていた。
このままでは不毛な消耗戦に突入すると思われた矢先、敵の伝令が何かを伝えて回るのが見えた。
その直後、領軍兵たちは武器を捨て、投降を選んだのだ。
がしゃり、がしゃり。
領軍兵たちが剣や槍を地に落とす音が辺りに響く。
ある者は両膝をつき、ある者は天を仰いでいた。
「さっきの伝令って……」
「倒したんでしょうね。敵将、エストバリ姉弟を……ロルフが」
辺境伯は死に、敵将も倒れ、領軍は無力化された。
領都が陥落したのだ。
この地の魔族───私たちヴィリ族は、長きにわたってストレーム辺境伯家と戦ってきた。
父さんも、その前の族長も、さらにその前も。
ずっとそうしてきた。
そして、これからもそうだと思ってた。
でもそれが終わった。
突然現れた一人の人間が、私たちをこの戦いに導き、そして終わらせたのだ。
もちろん、強大なロンドシウス王国はまだまだ健在で、私たちはその一部を切り取ったに過ぎない。
あくまで、この地の魔族の安全を勝ち取っただけだ。
それに当然、王国は反撃に出るだろう。
王国に勝って戦いを終わらせるために、私たちは不断の努力を続けなければならない。
でも、戦いの終わりという、少し前までは非現実的にも思えたその未来は、いまや確かな希望として私の胸にあった。
ロンドシウス王国を倒す。私たちを導いた人間は、確かにそう言ったのだから。
「うぅ……ぐ……く」
傍らを見ると、仲間が泣いていた。
いや、彼だけじゃない。
周りでは皆が泣いている。
感涙に
思い出しているのだ。
死んでいった仲間を。
そして、死なずに済む家族や友人を。
そうだね。
そうだよね。
明日からの戦いのことはともかく、今はこの勝利を喜ぼう。
私たちは勝ったのだ。
◆
「うぐっ……えくっ……」
私は、大きなブナの木の上で泣いていた。
木のずっと上の方に、白い
風で飛ばされ、木に引っかかってしまったお気に入りの手巾。
どうにか取り戻そうと登ったは良いけれど、途中で怖くなり、動けなくなってしまったのだ。
大きな枝に座り込み、幹につかまって私は泣いていた。
「うぇ……ぐすっ……」
もうこれ以上、登れない。
怖くて下を見ることも出来ない。
日は沈もうとしている。もうすぐ夜になってしまう。
怖い。
寂しい。
ぽろぽろと涙を零す私の耳に、下の方から声が聞こえた。
いちばん聞きたかった声が。
「大丈夫だよフェリシア。泣かないで」
そう言うと、声の主は駆け上がるように私のところまで登って来る。
そして私の頭にぽんと手を乗せると、微笑んで言った。
「あの手巾を取って来る。ちょっと待ってて」
それから枝に手をかけて上へと登っていく。
そしてあっさりと手巾を回収し、すぐに私の所へ戻って来た。
それを私に手渡して、それから頭を撫でてくれる。
大きくて暖かい、いつもの掌。
歳は私と一つしか違わないのに、いつも守ってくれる人の掌。
私はその人に思い切り抱き着く。
その瞬間、さっきまで感じてた怖さが、ぜんぶ何処かへ行ってしまった。
「兄さま! 兄さま!」
「もう心配いらないよ。頑張ったね」
「わ、私。ごめんなさい。手巾が飛ばされちゃって、それで」
怖さが消えると、とたんに恥ずかしさと申し訳なさが湧き上がって来た。
淑女が木登りなんて。
まして降りられなくなって、兄さまに迷惑をかけるなどと。
要領を得ない言葉で言い訳を並び立てる私に、兄さまは再び微笑んで語りかける。
「フェリシア、見てごらん」
兄さまが視線を向けた先、木々の間に遠く稜線が見える。
そこへ夕陽が沈みかけていた。
木立に切り取られた稜線と夕日の光景は、息を呑むほど綺麗だった。
橙色に染め上げられた世界が絵本のように見える。
「今日の冒険の成果だよ。すごく良い場所を見つけたね、フェリシア」
そう言って、兄さまはまた、私の頭を撫でてくれた。
「でも今度から、一人では登らないようにね」
「はい。兄さま」
目を細めて、兄さまの掌の感触に心を委ねる。
いつも私を守ってくれる兄さま。
どこに居ても駆けつけてくれる兄さま。
私の兄さま。
私の……。
………………
………………
………………
…………私は、橋の下で目を覚ました。
魔力切れと極度の精神疲労からだろう。一時的に意識を手放していたらしい。
気絶なのか眠りなのか分からない状況に陥っていたのだ。
気が遠くなるような努力のすえ会得した魔法の
魔族軍は、ザハルト大隊の者については逃げるに任せていたため、それに紛れることで収容所から脱出することが出来たのだ。
そして私は今、人目につかない橋の下に座り込んでいる。
「…………」
懐かしい夢を見た。
強い兄に守られていた頃の夢。
そして、今日戦った兄も強かった。
私は、実力差が分かっているのか等と
兄があんなに強いままだったなんて知らなかった。知らなかったのだ。
そして彼は、私やエミリー姉さんのところへ戻ることを拒絶した。
それどころか……。
────進むしかない。戦うしかない。フェリシア、俺は…………敵だ!
「……っ」
涙がぽろりと頬を伝った。
それから嗚咽が零れだす。
「う……うっ……ぐぅっ……」
どうして傍に居てくれないの?
私たちが追い出したから、傍に居るのを諦めてしまったの?
そんなの関係あるものか!
兄さまなのに!
私の兄さまなのに!
「うっ……えうっ……うええ……」
どんなに泣いても、兄さまは来てくれなかった。
◆
私は薄暮の収容所を歩く。
昼ごろ始まった捕虜収容所の戦いが終わったのは、夕方だった。
薄闇に包まれた収容所からは怒号と剣戟音が消えている。
でも喧噪は止まない。
歓喜の声が、そこかしこから聞こえてくる。
勝利の熱はまったく冷めなかった。
二十余名の捕虜が無事救出されたことも伝わり、喜びは更に膨れ上がっている。
「やりましたねリーゼさん!」
「うん。みんな、お疲れ様!」
顔中を涙で濡らした仲間たちが声をかけてくる。
誰もが抱き合って喜んでいた。
私たちの歴史に特筆される、価値ある勝利。
その当事者である仲間たちの喜びは、言葉では言い表せない程のものなのだ。
でも私やフォルカーは、面倒な戦後処理ってやつも考えなきゃならない。
フォルカーは、領軍の責任者代行を務めることになった中級指揮官の一人と対話している。
その間、私はあちこちを回りながら、被害状況の確認や治療措置について指示を出しているのだった。
「というか、どこ行ったのよ」
それともう一つ、ロルフを探してる。
エストバリ姉弟を討ち、私たちの元へ戻ってきた時、彼は傷だらけだった。
出血がひどく、槍による脇腹の傷は特に深かったのだ。
私はすぐに回復術士と医療班による治療を指示した。
それでさっき、医療班のところに様子を見に行ったら、もう治療が終わって何処かに行ったとのことだった。
治療が終わっても安静にしてなきゃダメに決まってるのに、何をしてるのか。
そういうわけで、ロルフを探してる。
あと私は一応、ロルフが取り逃がしたウルリクを倒したのだ。
そのへんどう思うのか聞いておきたい。
あわよくば褒めて欲しい。
「こっちかな?」
私は収容棟の裏手までやって来た。
そして、そこでロルフを見つけた。
「居た! ロル……」
声をかけることが出来なかった。
そうすることが
宵闇のなか、ロルフは一人、ただ立っていた。
そして真剣な表情で、目の前の地面を見つめている。
ロルフの視線の先では地面が少し膨らんでいて、盛り土のようになっていた。
それが何なのか、ロルフの表情を見れば分かる。
墓標こそ無いが、お墓なのだ。
あそこには、この収容所で犠牲になった人たちが眠っているに違いない。
ロルフは微動だにせず、そのお墓を見つめている。
本人から直接そうと聞いたわけではないけど、たぶん彼は神を持たない男。祈ることは無い。
だから目を閉じることも無く、ただ地面を見つめている。
きっと死者と対話しているのだ。
私は、そのロルフの姿をじっと見ていた。
ロルフは眉一つ動かさない。
だいぶ時間が経ったけど、いまだ沈黙のなかにずっと立っている。
瞬きだした星々に蒼く照らされながら、ずっと地面を見つめている。
煤に汚れたその横顔は、ものすごく
死者に対する無限の敬意を感じさせた。
私は、ロルフの横顔から目を逸らすことが出来なかった。
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