73_辺境伯の焦燥
フェリシアは震えていた。
目に映る光景が現実のものとは思えなかった。
「退却! 退却だ!」
「救援を! こちらに兵を回してくれ!」
「どけぇ!! 退路を塞ぐな!!」
領軍はもはや潰走状態にあった。
砦攻めのつもりで出兵した彼らは、砦に近づく前に伏兵の襲撃を受けたのだ。
側面を突かれ、隊列を分断された結果、良いように各個撃破の対象になっている。
隊列の後方、やや高台に居るフェリシアからは、領軍の圧倒的敗北を示すその光景が、まざまざと見えるのだった。
まさかこんな事になるとは。
敵将は何者なのだろうか。
そう思い、遠く砦に目を向ける。
すると、さっき鏑矢が放たれた物見塔から、人影が飛び降りた。
いや、あの高い物見塔から飛び降りる者が居る筈も無い。
落ちたのだろうか。
そう考えていると、砦の門が開き、人影が躍り出てくる。
「!?」
遠くに見える人影。
フェリシアには、ひときわ大きな体躯を持つその人影が、彼女のよく知る人物のものであるように見えた。
信じたくなかった事実を、改めて突き付けられたように感じるのだった。
「まさか……本当に……?」
呟くフェリシアの居る隊列後方へ、領軍兵が敗走してくる。
「退け! 退却だ! 退けぇ!!」
領軍は、その数を大きく減らしながら領都アーベルへ逃げ帰るのだった。
◆
「ロ、ロルフさん! あの! 少しよろしいでしょうか!?」
戦いが終わり、リーゼ、フォルカーと合流しようとしている俺に、ひとりの魔族兵が話しかけてきた。
若い男だ。俺が騎士団に入団した頃ぐらいの年齢に見える。
「なんだ?」
「先ほどの用兵、お見事でした! 貴方のおかげで、最小限の被害で勝てました!」
男は目元を紅潮させ、上ずった声でそう言った。
褒められることに慣れていない俺としては、少し恐縮してしまう。
「嬉しい評価だが……外様に用兵を任せたリーゼとフォルカーの器量があってこそだよ」
「無論、我が将たちを敬愛していますが、貴方の将器もそれに並び立つと感じました! それに! 敵が門に取り付くや自ら切り込んだ勇気も! その時に見せたあの剣技も! 凄いとしか言いようが無くて!」
男の声に熱がこもる。
俺としては、自分の剣技が人に称賛される程のものだとは未だ思えず、若干のむず痒さを感じる。
だが勇気に対する評価はありがたい。
そこは誰にも負けたくないと思っているんだ。
「門から出てすぐに閉門を命じられた点にも感銘を受けました! 砦の安全を確保し、眼前の敵をすべてご自身で引き受けるとは!」
指揮官としてはマズい行動だったが、それを言う必要は無い。
彼が心から贈ってくれている称賛を、素直に受け取ろう。
「ありがとう。名前を教えてもらえるだろうか」
「はっ! 俺はブルーノと言います!」
「ブルーノ。次の戦いも共に頑張ろう」
「もちろんです!」
俺が差し出した手を、両手で握り返すブルーノ。
暖かい感触だった。
「それでは!」
そう言って立ち去るブルーノと入れ替わりに、リーゼとフォルカーがやって来る。
「認められてるみたいね」
「ありがたいことに、そのようだ」
未だ不信のこもった視線も感じるが、少なくとも俺がこの戦いに参加することへの異論は出てこない。
そしてブルーノのような者も居る。
「ヘンセンでロルフの助力があった事は多くの兵が知っている。この砦の無血開城も大きかったし、加えて先ほどの用兵と戦いぶりだ。ああいう者も出てくるだろう」
「このまま皆に認めてもらえるよう頑張るさ」
「フォルカーもお疲れ様! 私はちょっと楽させてもらっちゃったね」
「こちらも楽でしたよ。ロルフが戦略面でお膳立てを済ませてましたから」
今回は向こうが思惑どおりに動いてくれた。
時間があれば、辺境伯と領軍も、伏兵が居る可能性に思い至れただろう。虚報によるおびき出し自体に気づく事だって出来たかもしれない。
だが彼らはとにかく急がなければならなかったのだ。
辺境伯から見れば、すぐにもヘンセンから領軍が帰ってきて、砦でだまし討ちを食らうかもしれない状況だった。
その前に対処しなければならず、結果、取る物も取り敢えず出兵に及ぶことになったわけだ。
モルテンや敗残兵から聴取して情報を精査する時間はとれないし、部隊を編制するに十分な余裕も無かっただろう。
「敵を急がせ、戦略面で推考する時間を与えないまま出兵させる。見事だったなロルフ」
「戦術面ではあんたの功がいちばん大きい。あの指揮こそ見事だった」
「褒め合っていても不毛なだけだな。双方ともよくやったとしておくか」
「ふふ……そうだな」
理に適ったフォルカーの提案に、少し頬が緩むのだった。
◆
辺境伯は、執務室で報告を受けた。
砦へ向かった領軍が敗れたという報告である。
信じたくないと言う思いは、敗走してくる領軍の姿に踏み散らされた。
辺境伯は、今日まで領軍を誇り続けてきた。
ストレーム辺境伯領の領軍は、精強で鳴る者たちだ。
危険な魔族領へ躍り出て、戦果を持ち帰ることも度々だった。
騎士団にも引けをとらない戦士たちだと、辺境伯は思っていたのだ。
それが今や、惨憺たる有様にあった。
ロルフが連れて来た魔族軍は寡兵に過ぎないというモルテンの報告。
あれは虚報だったのだ。
ヘンセンも落ちていないという事になる。
領軍に完勝できる規模の魔族軍がこの地に居るという事実は、彼らがヘンセンで勝ったことを示していた。
ヘンセン攻略戦は失敗したのだ。
最初に敗残兵がもたらした報告が真実だった。
その時点で辺境伯は二千の兵を失っていたことになる。
それでも、領都に残っていた兵で防衛戦を展開していれば、まだ何とかなっただろう。
だが敵の策に乗り、まんまとおびき出されてしまった。
結果、新たに出兵した千の兵は、実にその七割を失うことになった。
領都に残留させていた幾ばくかの兵と合わせても、戦える者はどれほど残っているか。
どうであれ、この領都を守るには寡兵と呼ぶべき数にしかならないだろう。
ここへ来て辺境伯は、自身が危機的状況にあることを理解していた。
「くそっ!!」
執務卓に拳を叩きつける。
そこへ領軍幹部が現れた。
「辺境伯様……」
「報告は聞いた。防衛戦になるぞ」
「あの、中央からの助援は」
「要請はしている。だが間に合わんだろう」
援軍が到着するまで、領軍だけで領都アーベルを守り切れるとは思えない。
もはや兵力は完全に魔族軍が上なのだ。
「だから傭兵団に声をかけてある。ザハルト大隊だ」
辺境伯の声に悔しさが滲む。
彼は、自領の兵でこの辺境の戦線を維持し続けてきた。
その事実をひとつの自負としていたのだ。
だが、もはやそうは言っていられない。
それで、領内に滞在していた傭兵団に支援を依頼したのだった。
「おお、あのザハルト大隊ですか!」
辺境伯とは対照的に、幹部の声には明るい期待が混ざった。
ザハルト大隊と言えば、かなり高名な傭兵団だ。
実際には大隊というほどの規模は無く、百人ほどの傭兵団だが、大隊に匹敵するほどの力を持つとも言われていた。
特にリーダーのエストバリ姉弟は、王国全体でも有名な
傭兵団の多くは領を跨って活動する。
「間もなくザハルト大隊から代表の者たちが来る筈だ。彼らと協力し、残りの兵を糾合して戦うぞ。女神ヨナの名のもと、この地を守り抜くのだ」
「はっ! 必ずや!」
女神の名を口にし、自らを奮い立たせる辺境伯。
だが、その胸中では様々な感情が渦巻いていた。
焦燥、悔恨、憤怒。
そのいずれもが負の感情であった。
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