72_前哨戦
フェリシアは苛立っていた。
バラステア砦で兄の不在を知ったのち、領都アーベルの官舎を訪ねたが、そこにも兄は居なかったのだ。
領軍は人々のため大きな戦いに赴いているというのに、何をしているのだろう。
兄への呆れと怒りをうまく処理できず、唇を噛むフェリシアだった。
それでも、このまま兄と話さず帰るわけにはいかない。
兄を見捨てるのは誤りだという思いに至ったからこそ、彼女は遠くストレーム領まで来たのだ。
フェリシアは宿を取り、数日を領都で過ごした。
だが、未だ官舎に兄の姿は無い。
もういちど砦を訪ねてみようかと考えていたところ、官舎の前に領軍兵たちの姿を見つけた。
「あの、何かあったのですか?」
イヤな予感を覚えながら、フェリシアは兵たちに声をかけるのだった。
◆
「……信じられません」
辺境伯の館、広い執務室で、フェリシアはそう言った。
弱々しい声だったが、重い雰囲気に静まり返った執務室ではよく響いた。
室内に居る領軍の幹部たちは、皆、押し黙っている。
執務卓に座る辺境伯は、苦虫を噛み潰したような顔で考え込んでいた。
彼の元に、不快きわまる報告が立て続けに届いたのだ。
最初に、ヘンセンへ行っていた領軍の兵が逃げ帰り、作戦失敗を伝えた。
そののち、バラステア砦からの伝令が、砦の陥落を報せてきた。
なんと砦を攻めてきた魔族のなかに、司令官代理の姿があったらしい。
あの、加護なしと蔑まれるロルフ・バックマンだ。
そして数時間後、状況を受け止めきれない辺境伯を更に混乱させる報せが届いた。
報告の主は砦の兵で、モルテンという男だった。
彼によると領軍は負けてなどいないと言う。
ロルフが策謀を巡らせ、そのように見せかけているとのことだ。
彼は砦で領軍を陥れ、討とうとしているらしい。
これらの報告を受け、辺境伯はどう動くかを決めなければならなかった。
そのためには領軍が勝ったのか負けたのか、どちらの報告が正しいのかを見極める必要がある。
「信じられないとは、君の兄が魔族と結んで砦を落としたということについてか?」
「はい、辺境伯様。人間を裏切るなどバカげています。兄は愚かではあるのでしょうが、そこまでではありません」
「だがあの男は普通とは違う考えの持ち主だ。先日話した筈だが、魔族から奪うこと自体をすら否定しているのだぞ」
「で、でも……」
フェリシアは反論できず、沈黙してしまう。
魔族と結ぶなど常軌を逸している。
でも兄ならやりかねないのではないかと、どこかでそう思えてしまうのだ。
「辺境伯様、どうなさいます?」
幹部のひとりが声をかける。
話は複雑なように見えるが、実際のところ二者択一だ。
しかも限りなく一択に近い。
もし、領軍がヘンセンで負けたという報告が真実であるなら、二千の兵を失ったことになる。
こちらを信じる場合、出来ることはあまり無い。
ただ再軍備を急ぎ進めていくのみだ。
逆に領軍が勝ったという報告が真実であるなら、その領軍は帰還の途上、バラステア砦でロルフに陥れられてしまう。
領軍が砦に入ったところで閉門し、ロルフと結託した魔族たちが周囲から矢や魔法を射掛けたら、どこにも逃げ場は無いだろう。
したがって、こちらを信じるなら、今すぐ砦へ出兵してロルフを討たなければならない。
これは、既に兵を失ったことを受け入れるか、これから兵を失う可能性に対処するかの二択なのだ。
辺境伯としては、結局のところ後者しか選びようがない。
第一、ヘンセン攻略戦は、戦略的優位を十分に確保したうえでの戦いだったのだ。
それが大敗を喫したなど、やはり現実的に信じられない。
「兵を出す。バラステア砦へ向かい、ロルフ・バックマンと魔族どもを討つのだ」
辺境伯はそう告げた。
常識的な判断と言えただろう。
これを受け、領軍幹部たちは準備のため執務室を出て行った。
「辺境伯様、私も同行させてください」
「兄の裏切りをまだ信じられんか? 普通なら、敵の身内を同行させられる筈も無いが」
「本当に兄がそこに居るのか、この目で確かめたいのです」
兄は芯まで腐ったわけではない。
信じてあげるべきだ。
でももし、本当に心の底から裏切っていたなら。
そこまで救いようが無いほどに愚かであったなら。
家族や、かつての婚約者に剣を向けるような凶行に走るのなら。
…………。
フェリシアの表情に、様々な感情が浮かぶ。
激しい焦燥、兄を死なせたくないという思いの他にも、名状しがたい感情が滲んでいる。
辺境伯は、それを興味深げに見つめた。
「……良いだろう。だが同行するのみだ。くれぐれも作戦行動には関わるなよ」
「はい。心得ております」
こうして、領都アーベルからバラステア砦へ向けての出兵と、フェリシアの同行が決まった。
◆
物見塔に居た魔族兵から、領都方面に動きありと報告が入った。
急ぎ俺も塔に昇り、遠く領都アーベルの方向を見やる。
そして思惑通りに事が運んだことを知った。
領都に残っていた領軍が、この砦へ向かって来ている。
辺境伯はモルテンの報告を信じたのだ。
そしてヘンセンから戻る領軍がこの砦で討たれると思い、それを阻止するため出兵に及んだのだった。
「数は千ぐらいかな。うまく行ったね。あれをここで削っちゃえば、この後がだいぶ楽になる」
俺に続いて物見塔に昇って来たリーゼが言った。
彼女の言うとおりだ。
ヘンセンに向かった大軍以外にも、領都にはまだ相当数の領軍が残っていた。
そこへこちらから攻め入り、防衛戦を展開されれば、かなり厳しい戦いになってしまう。
領都の外に引っ張り出して討ち減らす必要があったのだ。
「さて、この先もうまく行ってくれると良いが」
領軍は、こちらが砦に引きこもって防衛戦を展開すると思っている。
それはごく当然の判断だ。
だがこちらとしては、防衛戦をやるつもりは無い。
バラステア砦は全方位に防壁を持ってはいるが、領都側からの攻撃を想定したノウハウは俺にも無かった。
当然、魔族兵たちにも、この砦を防衛した経験など無い。
だからいっそ、砦の戦術的価値を放棄した策を用いることにしたのだ。
俺たちは敵が砦に近づく前に仕掛ける。
領都と砦の間の道で戦端を開き、敵の混乱を誘うというわけだ。
「タイミングが大事だよ、ロルフ」
「ああ、分かっている」
俺は注意深く敵の隊列を観察した。
隊列が最も伸び切った時点で側面を突かなければならない。
敵の隊列に穴を開け、分断し、各個撃破に持ち込むのが最も望ましい展開と言える。
「だいぶ近づいて来てるよ? まだ?」
「もう少しだ」
リーゼの声には、若干の焦燥が混ざっている。
無理も無い。
こちらの兵の多くは道の左右に伏兵として配置してある。
砦に残る兵は少ないため、肉薄されれば俺たちが不利だ。
だがここで
戦いを生業とするなら、その身に迫る刃を恐れてはならないのだ。
リスクの最小化は必要だが、冒すべきリスクを冒す
「う……ま、まだ?」
「もう少し」
一本道を、百足のように伸び縮みしながら向かってくる領軍。
それが最大限に伸び切ったタイミングを逃さないよう、俺はじっと見つめる。
巨大な百足は、じわじわと砦に迫って来ていた。
「ロ、ロルフ!」
「ここだ!」
俺は
────ひゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!
甲高い音が空に響く。
何事かと天を振り仰ぐ領軍に、魔族たちが襲い掛かった。
「うわぁっ!?」
側面から現れた敵に、領軍兵が悲鳴をあげる。
彼らは砦攻めのつもりで来ていた。
どうやって防壁を破るかをプランニングしながら向かって来ていたのだ。
それなのに、敵の方から砦の外に出てきてしまった。
ましてモルテンの報告を信じたという事は、領軍は俺たちを寡兵だと思っていたという事だ。
なおさら、打って出てくる事は予想できなかっただろう。
「うまく虚を突けたようだ」
「すごい……。ここまでハマる?」
タイミングも、伏兵を配置したポイントも上出来だった。
領軍の隊列は側面から幾つもの穴を開けられ、バラバラに分断されている。
「く、くそ!」
「隊長! 指示を! 隊長!」
恐慌に剣を振り上げた領軍兵へ魔族兵の槍が突き刺さる。
暴れる馬から振り落とされた領軍兵に魔族兵の鎚が叩き込まれる。
「逃がすな! 包囲を狭めつつ各個撃破! 側面はプレッシャーをかけ続けろ!」
遠くでフォルカーの声が響く。
ヘンセンでも思ったが、彼は指揮官として極めて優秀だ。
領軍を落ち着かせないよう圧力をかけ、その狂騒を煽りつつ、自軍は整然と運用し続けていた。
「やるなあ」
「ロルフ! 敵が!」
リーゼの指さす先、敵の一団が砦の門に近づいていた。
隊列が伸び切るギリギリを狙って仕掛けた結果、敵の先頭集団は砦に肉薄するところまで来ていたのだ。
だがこれは想定内だった。
「俺が出る。リーゼ、ここを頼む。敵に想定外の動きがあったら、すぐ合図しろ」
「わかった!」
リーゼの返事を受け、俺は物見塔から飛び降りた。
「ちょっ!?」
驚きに声を上げるリーゼ。
俺は梯子の支柱を握り、手で落下速度を緩めながら落ちていく。
そして地面が近づいたところで梯子を蹴りつけ、落下の勢いを殺して着地した。
土煙と共に降り立った俺は、煤の剣を抜き、そのまま門へ向けて走り出す。
「門を開けろ!」
俺が叫ぶと、門についていた魔族兵は驚きつつも
そして開門と同時、目の前に居た領軍兵に向けて俺は剣を振り抜いた。
「えっ?」
大抵の場合、兵士の最期の言葉は、このような短い声だ。
気の利いた言葉を遺せる者は少数だろう。
この男は、その少数になれなかった。
隣に居た男もだ。
「あがっ!」
俺は門に取り付いていた二人を斬り伏せ、そのまま走る。
門の周りには、ほかに十数人の敵が居た。
「俺が出たらすぐに閉門しろ!」
そう叫んで門の外に走り出る。
そして敵のなかに突っ込んでいった。
背後に門の閉まる音を聞いた時、俺は五人目を斬っていた。
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