65_琥珀色の月
沈んでいく。
頭から下へ。井戸の底へ。
カールによって徹底的に痛めつけられた俺からは、幾つもの血の帯が伸び、ゆらゆらと水面へ向かっていた。
そしてそれとは逆に、俺はただ水底へ落ちて行く。
沈んでいきながら俺が望んだのは、誰かの助けだった。
この地に来て、何人かと
誰かが梯子でも投げ入れてくれれば出られるかもしれない。
そう思った。
・・・まったく都合の良いことを考えるものだ。
そうとも。そんなのはバカげてる。
彼らも皆、いま必死に戦っているのだ。
自らの、そして大切な者たちの生存を賭けて。
それなのに、助けてほしいだなどと。
誰かを頼るのは大事だが、それは自分がやることをやってからだ。
俺は、すべてを出し尽くしたか?
戦い抜いたか?
井戸を沈みながら、空を見る。
月だ。
井戸の口から丸く切り取られた夜空に、月が見える。
それは赤い満月だった。
月が赤く見えるのは、地平線に近い時だ。
中天に浮かぶ月が赤いなんて、不思議なこともあったものだ。
いや、あれは赤じゃない。
良く知る色だ。
あの月は────そう、琥珀色をしている。
琥珀色の真円が、まるで瞳のようにこちらに向いている。
俺を見ている。
その眼差しはどこか悲しく、そしてどこまでも優しい。
そうだ。
そうだよな。
俺はまだ、やっていない。
戦っていない。
戦わなければ。
戦うんだ。
「ぶはっ!」
全身の血液が熱くなるような感覚をおぼえた直後、俺は水面に顔を出していた。
そして上を見上げる。
井戸の口まで二十メートルといったところか。
それと直径は二メートルほど。大型の井戸だ。
背中と足を突っ張り棒にして登るのは無理だな。
手で登るしかないだろう。
そう考え、俺は井戸の壁面に手をかける。
石造りの壁面だ。
石と石の間に、五ミリ前後の出っ張りがある。
そこに指をかけ、よじ登っていく。
「ぐ、くっ・・・」
わずかな隙間に爪を食いこませ、少しずつ地上を目指す。
数ミリの出っ張りに指をかけ、指先で全体重を支えて体を持ち上げる。
爪が石をがりっと引っかく。
爪と指の間から血が滲む。
「はっ・・・はっ・・・」
両腕がびきびきと痛み、只でさえ傷だらけの全身が悲鳴をあげる。
だが行かなければならない。
少しずつ、少しずつ上がっていく。
「ぬぐっ・・・ぐ・・・」
登山家のうち、高位の技術を持つ者は、指先で全体重を支えて岸壁を登るらしい。
俺に登山の経験は無いが、人間、やってやれないことは無い。
指先に力を集中させ、石壁に食らいつく。
指で石壁を噛みちぎるつもりで強く掴む。
「く・・・ぐ・・・」
血と土で赤黒く染まった指先を動かし、右手で石壁を掴む。
そして歯を食いしばり、体を持ち上げながら左手で石壁を掴む。
すかさず次の石壁を掴みに行った右手が、井戸の口のへりを掴んだ。
俺は、井戸の外に到達していた。
井戸から出て見上げると、そこには普通の白い月があった。
どうやら、俺はまた救われたらしい。
◆
リーゼは泣いた。
ベルタの亡骸に取り縋って号泣した。
リーゼの母親は、彼女を生んだ直後に亡くなっていた。
父のアルバンはリーゼへの愛情を惜しまなかったが、ヴィリ族全体を預かる長としての責務を優先せざるを得ず、父娘は会えない日が多かった。
それでもリーゼは寂しくなかったし、真っすぐに育った。
ベルタという、第二の母と呼べる人が居たからだ。
その人を、いま
動かなくなってしまったその大きな体に抱き着き、リーゼはしゃくり上げる。
その時、リーゼの背後で、がらりと音がした。
そして王国兵たちの亡骸の下から、男がひとり、剣を振り上げて起き上がった。
「おおおおおおぉぉぉぉぉ!!」
その咆哮はリーゼのものだった。
ベルタの仇が生き残っていた。
涙に濡れた顔を一瞬で憤激に染め、襲い掛かる。
両手には、いつの間にか腰から抜いた双剣が握られていた。
「くっ!?」
王国兵は、泣き崩れる小娘が瞬時に攻撃してくるとは想像していなかったようだ。
振り上げた剣を振り下ろせず、泡を食ったように後退する。
「ちっ! デカいのがやっと死んだと思ったらもう一匹出て来るとは!」
そう言ってリーゼを睨み返したのはエッベだった。
咄嗟に部下たちの体を盾にして生き延びたのだ。
だがそれでもダメージは負っているようで、動きが鈍い。
それを見て取ったリーゼは、すかさず追撃に出る。
「せああぁぁぁぁぁっ!!」
「うわっ!? くそ! くそう!」
リーゼのスピードは、エッベに視認できるものではなかった。
彼は即座に交戦を諦め、不格好に転がりながら後退する。
だがそれでリーゼから逃れられる筈は無かった。
一対一では勝てそうにない実力差を悟り、エッベが顔を歪める。
だがリーゼは距離を詰めず、その場で立ち止まった。
彼女は、エッベの背後から現れた新たな一団を視界に捉えていたのだ。
「おっと。エッベさん、苦戦中ですか?」
「・・・私以外、全員やられた」
エッベの言葉に、一瞬ことばを失う王国兵たち。
全員銀の鎧に身を包んでいる。
それは西門付近での掠奪を終え、こちらに向かってきたカールたちだった。
「この女にですか?」
「いや、向こうで死んでるデカいのにやられた。だがこの小娘もそこそこやる。気をつけろ」
エッベの言葉に一団が頷き返し、リーゼへにじり寄ってきた。
エッベを含め、全部で十人。
銀の剣を手に、慎重に距離を詰めてくる。
だが彼らはリーゼの間合いを小さく見積もっていた。
リーゼは魔力による自身の速度強化に長けており、そのスピードはヴィリ族でも随一のものを持っている。
彼女は一瞬で王国兵のひとりに襲いかかり、首筋へ向け、左右から双剣を振った。
銀の鎧による強力な魔法障壁を二本の剣で削り、喉に刃を届かせる。
「ひっ・・・?」
一瞬で目の前に現れたリーゼに驚いて後ずさった王国兵は、次の瞬間、自分の喉が切り裂かれていることを知り、崩れ落ちた。
「全員で一斉にかかれぇ!!」
エッベの声を合図に、王国兵たちがリーゼに殺到する。
ここに居るのは全員、高位の兵であるようだが、それでも実力はリーゼより一枚落ちる。
魔力を満たした銀の剣が四方から襲い来るが、それらすべてをリーゼは双剣で捌いていった。
「こいつ! 生意気な!」
リーゼの素早く的確な剣に舌打ちし、カールが銀の剣を振り下ろす。
それをリーゼは刃の数センチ横に身をズラして回避し、すかさず双剣を振るう。
「ぐぅっ!」
それをカールはすんでのところで躱す。
いや、躱せていない。切っ先が左肩をかすめていった。
顔をしかめ、距離をとるカール。
リーゼが追撃しようとしたその時、エッベの声が響く。
「いまだ! やれ」
「
王国兵の中に魔導士が混じっていたようだ。
炎の壁がリーゼの前に出現する。
「くっ!」
リーゼはバックステップで距離を取る。
彼女は魔法への対処は苦手としていた。
そこへ次の魔法攻撃が行使される。
「
炎の壁の向こうから、魔法の火球が飛来する。
燃え盛る壁が邪魔をして、火球の軌道が見えない。
躱すことは出来ないと判断し、リーゼは体に魔力を満たして防御姿勢をとる。
だが、リーゼは自身の速度強化に加え、銀の鎧による障壁を破るために双剣へも多くの魔力を纏わせていた。
その魔力をすぐさま防御に回すのは難しい。
高位の剣技を持つリーゼも、魔力を運用する技量は平凡の域を出ないものだったのだ。
結果、防御が不十分な体に、
「うあぁぁっ!」
後方に吹き飛ばされ、地面を転がるリーゼ。
だが戦士たる彼女は、すぐさま立ち上がろうとする。
「うっ!」
しかし、がくりと膝が落ちる。
魔法の直撃は、彼女の体力を大幅に奪ったのだ。
そこへカールが襲い掛かる。
「おらあぁぁ!!」
「うぐっ!」
ぎん、と音がして、リーゼはまた地に転がされる。
リーゼの双剣はカールの剣をガードしたが、魔力を上手く双剣に乗せることができず、力負けしているのだった。
「エッベさん! こいつ、攻撃魔法は無さそうだ! 捕えて奴隷にしましょう! このツラなら変態が良いカネを出しますよ!」
「よし! そうしろ! 動き回るなら腱を切ってもかまわん!」
カールとエッベがそう言った。
魔族を性愛の対象とする人間は少ないが、いずれの世にも「好事家」は存在する。
そういう者に、リーゼを売ろうと言うのだ。
魔族に尊厳があるということを毛の先ほども信じていない物言いに、リーゼはぎりりと歯を食いしばりながら立ち上がった。
「
そこへ、またもや魔法が襲いくる。
のべつ幕なしに撃たれる魔法は、周囲の家屋に着弾して町を炎に落としながら、リーゼにも襲いかかった。
リーゼは横合いに跳んで逃れようとするが、それを読んでいたカールが剣を突き込む。
「うるあぁぁぁぁぁ!」
「くぅぅっ!」
双剣でガードするが、魔力の運用が間に合わない。
双剣に纏わせた魔力が十分ではなく、リーゼはまた地に転がされてしまう。
「いいぞ! そのまま捕えろ!」
王国兵たちが近づいてくる。
リーゼは歯噛みしながら立ち上がり、敵たちを睨みつけた。
────がしゃん。その時、何かがぶつかる音がした。
次の瞬間、燃える家屋が倒壊し始める。
「くそっ! なんだ!?」
カールが驚いて跳び
リーゼも反対方向へ
その二人の中心に、轟音をあげて家屋が崩れ落ちてくるのだった。
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