39_壊れる世界1
あるところに、魔族の少女が居た。
優しくて明るい女の子だった。
愛らしい
家族は六人。父、母、兄、それと姉がふたり居た。
強く優しい父と、美しく慈愛に満ちた母。
兄と姉たちは見識豊かで、人品も立派なものだった。
そして少女は花のような笑顔を絶やさない子だった。
少女にとって家族は日だまりだった。
暖かさがあって、安らぎがあった。
そして幸せがあった。
だが、魔族は大陸全土で人間と戦争をしていた。
父母は少女を心配させまいと振るまっていたが、森を越えた向こうに人間の国があり、そこから度々、兵士が攻めて来ていることを少女は知っていた。
魔族側も負けじと攻め入っていたが、強固な砦を前に敗退を繰り返していたのだ。
ある夜、眠っていた少女はくすぐったさを感じて目を覚ました。
その目に、大きく節くれだった父の手が映った。
「おっと、すまん。起こしてしまったか」
父はベッドの傍らに座り、少女の頭を撫でつけていた。
「寝顔が可愛かったもので、ついな」
申し訳なさそうに苦笑いする父。
少女は、許す代わりに父の手を両手で握りしめた。
少女の小さな手では、両手でも父の手を覆いきれなかった。
そのまま少女は父の手を引き寄せ、笑顔を浮かべる。
そしてその手を握ったまま目を閉じた。
少女が再び寝息を立て始めるまで、父は静かに微笑んでいた。
少女が大好きな父の手に触れたのは、これが最後だった。
◆
翌日、父は朝から出かけて行った。
父は木こりだが、兵士でもあった。
集落の男たちは、皆なんらかのかたちで戦いに参加していたのだ。
三日後。
父が帰るはずの日だったが、彼は帰ってこなかった。
「ちょっと遅くなってるみたいね。大丈夫、明日には帰ってくるわ」
夕食の食卓で、母が笑顔で言う。
母のその言葉を信じ、大好きなシチューを食べる少女。
そして何かを思いつくと、顔を綻ばせて母に言った。
「あしたはおとうさんのすきなレンズ豆を煮たのにしようよ!」
そうね、そうしましょうか。
母が笑ってそう言うと、兄と姉たちも笑顔を見せる。
それらの笑顔に揺れる不安と焦燥に気づくには、少女はまだ幼かった。
翌朝、目を覚ました少女は、すぐさまベッドから飛び降りて家中を探した。
だが期待した父の姿はまだ無かった。
台所に行ってみると、母が朝食の準備をしていた。
ライ麦パンの優しい匂いがする。
「おはよう」
「おはよう、おかあさん!」
少女は、いつもの母の笑顔に安心した。
それから兄たちを起こしに行き、五人で朝食を食べる。
「いただきます」
「いただきまーす!」
家族と共に、元気にいただきますを言う少女。
食材への感謝は父母の教えだった。
それから、パンを持って行儀良く食べる。
「おとうさん、まだかなあ」
少女が言う。
だが、きっと夕食はみんなで食べられるからと、我慢して待つことにした。
少女はその日の午前は、編み物をして過ごした。
編み物はどちらかと言うと職人の仕事で、少女ぐらいの歳で何かが編める子は、集落には他に居なかった。
だが大好きな母と姉たちが編み物に長けており、少女は彼女たちの真似をするうちに憶えたのだ。
数日前から編んでいるミトン手袋が、もうすぐ出来上がりそうだった。
母に贈る分だ。父の分はもう出来ている。
二つ揃ったら、両親に贈るつもりだった。
最初は靴下を編もうと思ったのだが、下の姉に相談したところ、靴下は少し難しいらしく、ミトン手袋にしたらどうかと提案されたのだ。
その姉が、少女の手元で手袋が編みあがっていく様を、優しい笑顔をたたえて見守っている。
できあがるまで、おとうさんとおかあさんには内緒にしてね!
少女がそう頼んだ時、姉はくすりと笑いながら了承し、今日まで秘密を守ってくれたのだ。
昼過ぎ、手袋が編み上がった。
かなり不格好だったが、少女にとっては会心の作だった。
「とても良く出来てるわ。きっと喜んでくれるわよ」
姉が太鼓判を押してくれた。
これを渡した時の父と母の笑顔を想像し、少女は満面の笑みを浮かべた。
しばらくして、集落の知人が家を訪ねてきた。
母が彼と何かを話してから、少し慌てた様子で出て行った。
夕方までには戻るからね、と少女たちに言って。
そのあとは家で姉たちに遊んでもらっていた。
そろそろ夕食を準備する時間だが、母は帰ってこない。
「きょうのごはん、レンズ豆のやつだよね!」
少女がにこにこして言った。
今日は父の好物を一緒に食べることになっていた。
それがとても楽しみだったのだ。
そのころ、集落全体が少しざわついていた。
兄の顔がどこか険しいような気がする。
上の姉が落ち着かない様子で立ち上がって言った。
「ちょっと養護院を見てくる。すぐ戻るからね」
上の姉は、親を失った子供たちを預かる養護院を手伝っていた。
そこの様子が気になったようで、急に出かけて行ったのだ。
今までそんなことは無かったのにどうしたんだろう、と少女は疑問に思った。
それから一時間ほど経った。
母も姉もまだ帰ってこない。
集落は、何やら物々しい雰囲気に包まれている。
兄の顔は強い緊張感に満ちていた。
その時、家の外で怒号が響き渡った。
兄が即座に立ち上がり、下の姉が少女を抱き上げた。
兄が家のなかを見回し、
六人家族の煮炊きに使う大きな竈だ。
姉はすぐにそれに近づき、少女を抱いたまま竈のなかに隠れた。
「いいか? 絶対にここから出るんじゃないぞ! 声も出しちゃダメだ!」
切迫した声で告げる兄に、姉は冷や汗を浮かべながら頷いた。
兄はその時、腰に剣を差していた。
それから兄は竈を閉じ、振り返って家の外へ出ようとした。
だが兄が家を出るより早く、誰かが押し入ってくる。
人間だった。
三人いる。
鎧を身に付け、剣を持っていた。
人間たちは兄に斬りかかかる。
兄も剣を抜き、斬り結んだ。
ぎんぎんと、初めて聞く剣戟の音が、少女にとって幸福しか無かった家の中に響き渡る。
姉は少女を抱き寄せ、息を殺していた。
姉は少女を胸に抱きすくめることで、竈の外を見せないようにしたかったが、竈の中は狭く、不自由な姿勢では少女の視界を塞ぐことは出来なかった。
結果、不幸なことに、少女には竈の隙間から外が見えていた。
だから、兄が無残に斬り捨てられる様子もまざまざと見えてしまった。
兄の剣技は優れていたが、三人を相手に立ち回れるものではなかったのだ。
姉は、口から悲鳴が上がりそうになるのを何とかこらえ、少女を強く抱きしめた。
「ちっ、てこずらせやがって」
「おい、ここ誰か居そうか?」
「んー、いや、こっちは何も・・・お?」
「う・・・ぐす・・・ひっく・・・」
家族からもたらされる幸福な日々しか知らなかった少女は、いま見た光景に耐える術など持っていなかった。
少女は姉の胸でしゃくり上げている。
そして竈の蓋が開いた。
人間たちがニヤニヤとこちらを見ている。
「ごあんなーい」
「はっは! 煤まみれじゃねえか」
人間たちは姉と少女を引きずりだし、縛り上げた。
そして家の外へ引っ立てるのだった。
「うえええぇぇぇ! えええぇぇぇぇん!」
泣き叫ぶ少女を、人間たちは酷薄な笑みで眺めていた。
姉は瞼を震わせて俯いていた。
少女は、姉とともに集落の中央広場へ連れられていった。
そこでは集落の者たちが縛り付けられており、その周りを人間の兵士が取り囲んでいた。
「これで全部だ」
そう言って、姉と少女が突き出される。
ふたりは背を押され、どさりと倒れ伏す。
「うっく・・・えぐ・・・」
少女はまだ泣いていた。
その時、姉と少女の名を叫ぶ声が響いた。
母の声だった。
少女が声の方を見ると、縛られている者たちのなかに母が居た。
「お? なんだ、あのふたりはお前のガキか?」
「ママさんよ、パパがどうなったか教えてやれよ」
人間たちが笑いながら母に話しかけるが、母は
「おい! 教えてやれっつってんだよ!」
「邪悪な魔族の分際で逆らうのかよ」
「しょうがねえ、俺たちで教えてやろうぜ。おい、こいつのダンナどれだっけ?」
「一昨日、追撃部隊が殺った中に居た筈だ」
「じゃあこっちか」
「やめて! やめてえ!!」
母が半狂乱に叫ぶ。
確かここだよな、などと言いながら、兵士が荷車のカバーを外した。
────最初、何を見たのか少女には分からなかった。
荷車には、魔族たちの首が積まれていたのだ。
皆、見知った顔だった。
そしてその中に、特によく知る顔がひとつ。
呼吸が止まった。
少女は、肺と心臓を何かに鷲掴みにされたように感じた。
そこに居たのは父だった。
隣では、姉が少女と同じ表情をしていた。
そして、少女の顔がゆるゆると下を向く。
「おーい、もっとちゃんと見ろ」
人間はそう言って少女の顎をつかみ、顔を荷台に向けさせる。
「やめてえぇぇぇ! あああああああぁぁぁぁぁ!!」
母の慟哭が響く。
少女は逆に泣き止んでいた。
そして、心を
「遊んでんなよ。仕事しろ仕事」
「んじゃ、お前ら荷台に乗れ」
人間が、姉や少女のほか何人かを幌馬車の荷台に引っ立てようとする。
だが少女は動けなかった。
「おい、歩けよ」
人間が言うも、少女の足は動かなかった。
「ちっ、おい」
人間が別の兵士に声をかけると、その兵士は剣を抜いて母の首筋にあてた。
「ガキ、動け。そっちのお姉ちゃんと一緒に荷台に乗れ。ママが死ぬぞ」
母はぼろぼろと涙を流していた。
その首筋にあてられる剣を見て、少女はのろのろと動き出した。
姉が悲痛な表情を浮かべながらも、少女を抱き上げ、頭を撫でてやってから荷台に乗った。
姉は、その幌馬車が無明の闇に続いていることを理解していたが、それでも気丈に少女を思いやった。
「これで全部乗ったな。よし、良いぞ!」
人間の合図に従って馬車が動き出す。
「こっちのは良いのかよ」
「これは攻撃魔法持ち。奴隷に出来ねえんだよ」
広場に残る人間が何かを話し合っていた。
「つまりゴミか。おい!」
その人間の指示に応じ、剣が次々に振り下ろされる。
広場で縛られた魔族たちは、たちまち斬り殺されていった。
遠ざかる故郷。
少女が馬車の荷台から見た最後の光景は、母の絶命の瞬間だった。
姉の腕のなかで、少女の全身から力が抜けていく。
体から何かが零れ落ちていくかのようだった。
「・・・・・・てぶくろ・・・あげたかったな・・・・・・」
少女の瞳は、もう何も映していなかった。
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