祈りの木
山茶花
(一)
乙部春香は信じていなかった。
幽霊も超能力も信じていなかったし、サンタクロースもアニメの魔法少女も信じていなかった。深い根拠があったわけではない。けれども、どんなことでも信じているよりは信じていないと言うほうが、みんなが自分に一目を置いてくれることには気づいていた。とくに大人たちはそうだ。
「信じられない」と春香が口にすると、彼女の父はよろこんだ。
春香が見ているかぎり、父はなにも信じていなかった。
あるいは、なにも信じまいと努力していた。
テレビのニュース、新聞記事、インターネット、家族の世間話、彼は目にし耳にするものすべてにそれが誤っているかもしれない疑いをかけた。自分じしんの記憶や歴史についても同じである。彼が過去について語るときには、しょせんそれが記憶であり歴史であり、いまここにはない不確かなものについて語っていることを、いちいち念を押さずにはいられなかった。
まるでものごとを信じない選手権なるものがあり、その県代表や日本代表を目ざして、日々トレーニングを重ねているかのようなのだ。もしかしたら春香が知らなかっただけで、ほんとうにそういうものがあり、家族の知らない父の活躍があったのかもしれない。
「人間はだれでも間違いを犯す」父は繰り返しそう語った。
「春香だけじゃない。おれも間違うし、ママも間違う。みんなそうだ。ミスを犯さない人間は存在しない。
「だから、世の中で勝つためには2つのことが大事になる。1つは、どうせミスをするのならみんなと同じようなミスをすることだ。みんなが間違うような問題を間違ったって、それは恥ずかしいことじゃない。責めるやつもいない。仮にいてもそいつのほうがみんなからバカにされるだけだ。もう1つは、そういうみんながするような間違いの数を、できるだけ減らすことだ。みんなが間違うようなことだからと言って、どうしても避けられないような難しい問題とはかぎらない。むしろちょっと気をつけていれば避けられるようなのが大半だ。そういうミスをできるかぎり減らすんだ。そうすれば負けはない。
「でも、なにをどう気をつけたらいいかなんて、春香じゃわからないだろう。だから、お父さんの言うことをきくんだ。それから、いちばんしちゃいけないのは、みんながやらないようなことをやって、それで失敗することだ。これには救いがない」
せいぜい「石橋を叩いて渡る」程度の教訓を夢でも語るように熱弁する父のすがたに、春香も矛盾のようなものを感じなかったわけではない。じっさい、10代も半ばになるころには、父の懐疑論にパッとしなかった彼の人生の影のようなものを見ていた。それを聞きながして、まともにとりあわない母のやり方にも合点がいった。けれども、他の大人を知らず兄姉もいなかったごく幼いうちは、父が賢いように見えもしたのだった。
母は空想的な性格で、よく春香に自分好みの絵本を読みきかせた。
ファンタジーの悪影響をおそれる父にとって、母の膝の上で春香がお姫様と王子様の話を聞かされているのは、胸が悪くなる光景だった。できればありとあらゆる空想から我が子を遠ざけたかったが、彼じしんがなにも読まずなにも見ないわけではないからそうは言えない。
で、あるとき彼はすすんで春香に人形を買ってきた。毒をもって毒を制するつもりなのだ。
それは当時流行したアニメのキャラクターで、江藤マナという名前がついていた。幼い春香は勝手に名前をつけようとしたが、父はそれを否んで、もともと名前がついていることを強調した。人形はあくまでも彼が知るかぎりの江藤マナであり、それ以外であってはいけなかった。
父の説くストーリーはこうである。
マナは、女刑事だ。
刑事になる以前はふざけた人生を送ってきた遊び人だったが、あるとき心機一転して、刑事を目ざすことにした。しょせん軽はずみな正義感で、彼女は世間知らずなのだ。刑事の仕事はハードで、マナはこれまで目にしなかった社会の暗い部分を見ることになり、深く傷つく。しかし、彼女は自分が生きる社会や自分を支えてくれる仲間たちへの責任感を胸に抱き、屈することなく前に進んでいく。
そうしてこそ彼女の正義は本物になるのだった。
マナの前にあらわれる社会の暗部とは、まじめに生きることができなかったために社会のどん底を味わい、罪を犯さざるをえなくなるような人びとである。不堅実が陥る窮乏はマナの全物語を通して繰り返し描かれるモチーフなのだ。
それは学生時代チャラチャラ遊んできたマナじしんが、もしかしたら辿ったかもしれない道である。きっとこの辺りが父に玩具を買わせる気にさせたのだろう。ずっとあとで春香はそう思った。
マナには倉地サオリという相棒がいる。厳しい女上司だが、頭脳的でかつ心根は優しく、マナの気持ちが折れそうになるたびに彼女を支える。
父は春香にマナの人形を買い与えただけではなくて、自らサオリの人形を手にとって原作にあるシーンを演じさせた。
世の中をうらむ青年が無差別テロを計画する。マナとサオリはそれを阻止するのである。その青年は、ある日難病による余命宣告受けて自暴自棄になった。
彼は幼いころに母から虐待を受け、つねづね彼女を恨んでいたが、これをきっかけについに彼は豹変、手はじめに母を刺すのだった。青年はこの世の終わりを前にやさしい気持ちになったりしなかったのである。
「まあ素敵」マナの人形を持って、幼い春香が言った。
「違う」
遊びの最中にとつぜん声を素に戻して父が言った。
「ここは『そんなの救いがないじゃないですか』と言うところなんだ」
父にうながされて、春香は言った。
「そんなの救いがないじゃないですか」
「救いならあるわ」
父はサオリの声を作って言った。
「ただ人間を救うのはつねに人間よ」
「どういう意味?」
本来は敬語を使う場面だったので、父はむっとしたが後をつづけた。
「この世界は人間の世界ということよ。どこまで行っても、いるのは人間だけ。神様も仏様もいない」
春香は要領を得ない顔をした。神も仏も知らないからだ。
父は声を低めて、なにものかに言いきかすように同じセリフを繰りかえした。
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