怪誕蟲
朱雀辰彦
怪誕蟲
春の夢見ていて瞼濡れにけり(三橋鷹女)
蝉が鳴いている。
農道の脇を、杉山は歩いていた。
昨晩からの雨は、翌日の午後にはすっかり晴れ上がったが、そのせいか異様に蒸し暑い。周囲から水蒸気が湧き上がってくるようで、その不快さに杉山は辟易した。そのせいか景色もおぼろげに見える。夢か現か、不可思議な感覚にふと、彼は襲われた。頭の片隅がずきずきと痛む。空を飛ぶ円盤。湖から現れる首長竜。人間の皮を被った銀色の宇宙人たち。ああ、これは、小学校の頃に本で読んだ、超常現象の主役たちではないか…。
(いつものだ)
杉山は慣れていた。首を左右に振ったり、頬をつねったりすると、自分の周りにいた異形の者たちは消え去った。あるのは長い長い歩道と、脇の車道に時折通る白くて小さなトラック、そして農耕車だ。たまらず、杉山は自動販売機でコーラを買う。喉を通り抜ける殺人的な炭酸と抜けるような甘みに、心が癒された。
とうとう、故郷に帰ってきた。
一年前に父が死に、杉山は自分の故郷、N県の磯貝村を訪れていた。山のふもとにあり、過疎化が進む小さな村で、主な産業は農業。杉山の家も米を作っていたが、数年前に父が病に倒れてからはそれも出来なくなり、今では荒れ放題の広い敷地となっている。ぽつぽつと数軒残る茅葺の屋根の家、だだっ広い水田の光景。村に入ったとき、杉山はあまりの懐かしさに、村のはずれでタクシーを降り、自分の足で実家まで帰ろうと思った。歩いて三十分はかかるだろうか。ゆるやかな道だから大丈夫だと思っていたら、例の蒸し暑さである。しかしまたタクシーを呼ぶ気にもならないので、汗を拭いつつ杉山は歩いた。
彼が生まれた場所、磯貝村大字磯貝。村の鎮守様といった趣の磯貝八幡宮が見えてくると、彼の生家までもう少しである。
「孝司君、こんにちは」
神社の中から声が聞こえた。見ると、浅黄色の袴を穿いた神主が、竹箒で掃き掃除をしていた。どこかで見た顔だ。
「ああ、隆樹…久しぶりだなあ」
思わず声が漏れた。南雲隆樹、小学生の頃の同級生ではないか。
「お前、家を継いだのか」
「まあ…でも、ここだけじゃ食べて行けないから、平日は役場で働いているんだけどね」
南雲は力なく笑った。
「杉山君は、どうして帰ってきたの?」
「ほら、父が一年前に死んで、俺の生まれた家にはもう誰も住んでないから…いろいろ整理したくて」
喋っている合間に、杉山の目に異様なものが飛び込んでくる。周りの景色が微妙に歪んだり、きらめいたり、うねうねと動いたり。
(落ち着け)
杉山は一瞬目を閉じ、また、開けた。嘘のように周りは元に戻った。
彼は生まれたときからこの妙な症状に悩まされている。一言で言えば幻覚なのだろうが、精神科に通って治療を受けても、なぜか、治らない。緩やかにはなるが、偏頭痛とともに、突然フラッシュバックのように症状が連続して起きたり、一ヶ月の間症状がまったく起きなかっ たりすることもあった。
彼はアルコール依存症でも薬物と関わったわけでもない。
だが、子供の頃には街角で良く、テレビで見たヒーローや怪人が実際に戦う場面を見た。中学生や高校生になれば、マンガや本で見た宇宙人やUFOが飛んでいる光景をも目にしていた。いったい、この奇現象は一体何なのだろうか。
「孝司君?例のあれ?」
そう言われて、杉山は我に返った。
「ああ…すまん」
「いつもそうだよね。まだ、治らないの?」
「そうらしい。一生付き合わなきゃいけないかもしれない」
南雲と別れて2、3分歩くと、ようやく家が見えてきた。一年前から誰も住んでいない。鍵を開け部屋に入る。古い家に特有の臭気が鼻を伝ってきた。一年前に一人でかなり整理したはずだが、やはり新聞や雑誌が目に付く。杉山が幼稚園の頃に描いた絵や、小学校や中学校の頃の習字が、茶色になりながらもまだ壁に張り付いていた。ホコリが多く、杉山は用意していたマスクをつけて、自分の部屋へと入っていく。
部屋の障子は穴だらけで、昔、たくさん読んだ本がたくさん落ちていた。
『UFO超絶大図鑑』
『UMA大全 ネッシー、ビッグフットなど、世界のUMAがせいぞろい』
『あなたの知らない世界2 幽体離脱と死後の世界について』
ふと、壁にかかっているカレンダーを見る。1981年、と記されていた。杉山の生まれた年だった。なぜ自分が生まれた年のカレンダーがかかっているのだろうか。親が記念に取っておいたのだろうか。それはなぜか変色せず、真っ白いままで眩しく光っているように杉山には感じられた。
なぜ、俺は実家に帰ってきたのだろう。住んでいる人など、もういないというのに。そう、不思議と愛おしいのだ。自分の過去を探す。自分という海に潜行していくということが。
杉山は子供の頃を思いだす。子供の頃から外で遊ばず、家の中で物思いにふけっている子供だった。超常現象の本をたくさん集めて、むさぼり読むような少し変わった子供だった。その過去を、確かめるように、あらためるように、俺はここに戻ってきた。そして、もう戻らないように取り壊して、ここに残してきた過去の一切を捨てて、また、自分の家に戻るつもりだった。
少し部屋を整理して、寝る準備を整える。今日はここで最後の一夜を過ごし、明日にでも建築業者に電話して、取り壊してもらうつもりだった。費用はいくらかかるのだろう。検討もつかないが、ローンを組めばなんとかなるだろう。夜、コンビニで買ったスパゲッティをすすりながら、杉山はそんなことを考えていた。イヤフォンからは彼の好きな曲、エリック・サティの『グノシエンヌ』が流れている。夕方頃、ぽつぽつと降り出した雨は、夜七時を過ぎた今は大降りになっていた。
不思議な感覚だった。
気持ちが沈んでいるわけでもない。憂鬱なわけでもない。
しかし、頭の片隅に沈み込んでいる、この、不思議な感覚はいったいなんなのだろう。
自分がまるで空白になってしまったかのような、変に涼しげで、妙な感じは。
(またか)
いつもの幻視だろうか。杉山は顔をべたべたと触った。眼球が小刻みに動いて、現実と非現実の境目を行き来する。なんとも言い表せない、文章化できないような、妙な気持ち悪さ。杉山は思わずスパゲッティを一気に食べ、立ち上がった。まるで酩酊しているようだ。周囲の空間が微妙に歪んでいて、とても歩けない。頭の奥のほうの痛みはだんだん酷くなって、まるで体中が壊れるような痛みへと変わった。
目を覚ますと、杉山は、1匹のけだものが自分を見ていることに気づいた。犬だろうか、しかし犬にしては巨大である。人間の大人ほどはあるだろう。けだものとしか形容の出来ない妖しい存在だった。
黒いけだものは瞳を光らせてじっと彼を見ていた。自分を取って喰おうとしているのだろうか。杉山は思わず身構えたが、今の自分にこのけだものを組み伏せるほどの力があるわけでもなかった。
ふと、幼い頃の記憶を思い出した。
子供の頃、同級生と一緒に神社の原っぱで遊んでいた。すると、一匹の黒い犬が現れた。鎖もつけていない野良犬。野良犬は、うーうー、と吼えて、まっすぐ杉山へ向かっていった。声を上げる間もなく、杉山は野良犬に襲われて、あちこちに噛み付かれる大怪我を負った。
目の前の黒犬は、ぐるる、という唸り声をあげた。突然の頭痛。思わず杉山が頭を押さえると、目の前の黒犬は宇宙人へと変わっていた。銀色の姿、五歳ぐらいの子供の背丈ほどはあろうか。頭でっかちの人形のような容姿に、どす黒い瞳は、まるでその奥に何かがあるでも言いたげに、遠く、暗かった。
いわゆる、グレイ、という存在。あまりにもステレオタイプな宇宙人。それが、仰向けに横たわっている杉山を見下ろしているのだった。少しの沈黙。不意に宇宙人らしきものが首をかしげ、ゆるゆると大きなため息を吐いた。
すると、宇宙人の口の中から、なにやら怪しげな物体が降りてきた。ナメクジのような、そうでいてゲジゲジのような、薄気味悪いそれは、杉山の顔にべちゃり、と取り付くと、彼の顔の周りをぬらぬらと蠢いた。
「わっ」
杉山が思わず声を上げると、部屋の中に一人倒れていた。起き上がって辺りを見渡す。倒れて、傍らには食べかけのスパゲッティが置かれていた。そのまま寝てしまったのだろうか。夢にしては奇怪な夢だった。
その日はその夢のことが頭にちらついて何もできなかった。午後になり、彼はタクシーを呼ぶと磯貝村の駅まで向かった。
次の日、杉山は精神科の病院に来ていた。毎月通って薬を貰っているところだ。医師に、夢の話を告げると、医師は不思議そうな顔をした。
「あなたが見る幻覚が、夢から来るものなのか、それとも、他に原因があるのか」
医師はそう呟いて頬杖をついた。しばらく考えていたが、不意に医師は机から一枚の紙とシャープペンシルを取り出した。
「その絵を描いていただけませんか」
杉山は、その気持ち悪い物体の絵を描いた。もちろん鮮明とはいえないが、その雰囲気だけは伝わるのではないかと思った。
「ふむ」
医師はその絵を見ると、口元の辺りに手をやり、深く頷いた。
「なんというか、カンブリア期の生物に良く似ている」
カンブリア期と聞いて、オウムガイだとか三葉虫などが頭に浮かぶ。
「ハルキゲニアという生物…」
医師はそう呟いて、傍らのパソコンで検索をかける。
ハルキゲニア(学名:Hallucigenia)は、約5億2千5百万- 約5億5百万年前(古生代カンブリア紀前期中盤[カエルファイ世アトダバニアン末期]- 中期後半[セントデイヴィッズ世メネヴィアン中期])の海に生息していた動物。澄江生物群、および、バージェス動物群に属するものの一つである。現在では、現生するカギムシと同じ有爪動物門に属するものと考えられている。
属名Hallucigeniaはラテン語:hallucinatio「夢みごこち、夢想」からの造語で、その後半を省略した上で、「~を生むもの」といった意味の接尾辞(英語:-gen;フランス語:-gène)をおそらく添えたもの。夢に出てきそうな不思議な姿を指したものか。多くの文献では「幻覚のような (like a hallucination) 」といった意味であるとする。
(wikipedia)
「あっ」
杉山は叫び声を挙げた。そこに載っていたイラストは、杉山が夢で見た生物そのものだった。
夢みごこち。
夢想。
杉山は自嘲気味に笑った。
病院でいつもの薬を貰って帰る途中、近くにある古本屋に杉山は向かった。彼の友人が経営している本屋だった。がらがら、という古い音を立てて扉が開き、杉山は中に入る。友人の門倉ははたきで本を叩いていたが、杉山を見かけると目を輝かせて、そちらに向かってきた。
「久しぶりだな。一ヶ月ぶりじゃないか」
「ああ、まあ…仕事が忙しかったから…」
頭をかきつつ、門倉に誘われて杉山は奥の部屋に入った。
「最近、面白い本を見つけたんだ」
門倉は古ぼけた分厚い本を取り出した。和綴じでところどころ穴が開いており、本の題名も読めない。
「これは?」
「中国の怪談を記した本らしい。題名もはげてしまって何のことやら分からんがね。その中に、俺も知らない話がいくつも入っていてさ」
中に、「怪誕蟲」とある。杉山は目を見開いた。
「これは何だ?」
「ああ、これは、人間の頭に住み着くという虫の怪談だ」
東晋のころ、高官の秦という男が狩に出て、少しなだらかな岡の上に立つと、何やら周囲の様子がおかしい。風景がゆがむと、あちらでは彼の父と母が微笑み、こちらでは幼い頃の友が石を投げて遊んだりしている。妖しいことであるので、家に戻って占い師を呼ぶと、
「これは怪誕蟲が頭に住み着いていて、もう手遅れです、手の施しようがありません」
「怪誕蟲とはなんだ」
「人間の夢を喰らい、吐き出す虫でございます」
とだけ言われた。その後まもなく、秦はものの理屈も分からない、一種の病になってしまって、生涯をぼんやりとしたまますごした。
「これは…どういうことだ」
杉山は思わず呟いた。背筋を何か冷たいものが走るのが分かった。
「どうかしたのか」
門倉にそう言われ、杉山は頭をかきあげる。
「この間、実家に帰って…」
「実家?」
「N県の磯貝村…」
「磯貝?」
門倉は不思議そうな顔をした。
「そんな村、あったっけ」
え?と、杉山は聞き返した。門倉は目をぱちぱちと瞬かせて、
「聞いたこと無いな。何かお前、勘違いしてるんだよ」
そんな馬鹿な。杉山は昨日までその村に行っていたというのに。
「夢でも見たんじゃないか?」
「夢…」
夢を見ていたのか。俺は。
すると、誰かが明かりのスイッチを消したかのように辺りが暗くなった。
「ハルキゲニア…」
杉山は思わずそう呟いた。身体の力が抜けて、意識、そして心もまた、どこかに溶けていくような、不思議な、しかし心地よい感覚だった。
目の奥で、あの虫が燐光の中で妖しく光り、ゆらゆらと蠢くのが見えた。
昔者、荘周夢に胡蝶と為る
栩栩然として胡蝶なり
自ら喩しみ志に適へるかな
周なるを知らざるなり
俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり
知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん
此れを之れ物化と謂ふ
『荘子 胡蝶の夢 より』
初出 『PLAN9 FROM OUTER SpFILE』(Spファイル友の会、2011年)
怪誕蟲 朱雀辰彦 @suzaku-Ta
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