3.

「あっ、三木島さん」


 俺に気がついて手を振ってくる彼女がそこにいた。早めに到着するはずが、人身事故で電車が遅延してしまったのだ。不可抗力とは言え、待たせてしまったのが申し訳ない。


「遅くなってすみません」


「大丈夫です。雲の形を眺めたり、歩いて行く人たちのファッションショーを見ていたらあっという間でしたから」


 白岩さんは訳のわからないことを言ってニコニコと笑っていた。


 あの日の夜、早速白岩さんから電話が来た。改めて丁寧なお礼と、お詫びの食事を約束させられた。まだ大学生だということだったが、しっかりした態度と時折見せる幼い言動がアンバランスなのに完璧に見えた。


「白岩さんの好きな芸術家っているの?」


 大衆的バルで食事をしながらなんの気になしに聞いた途端、彼女は目を輝かせてお気に入りの作品を写真で見せながら熱弁してくれた。その作家はウサギをモチーフにした大小さまざまな彫刻造形を多く制作しており、彼女のメッセージ性や意味を語る白岩さんはとても楽しそうだった。


「じゃあ、今度の週末行きましょう」


 今個展を開いていて、もう行ったけれどまた行きたいと彼女がこぼしたので、興味の出た俺は案内役も含めて彼女に提案したのだった。そんなわけで今日は、美術館を目指している。


 チケットカウンターでチケットを購入し、展示室に足を踏み入れればそこは不思議な世界が広がっていた。美術館なんて数えるほどしか来たことが無い俺にとって、圧倒的な静けさと、彫刻という立体の物体が鎮座している光景は奇異に映る。


 白岩さんはというと、足取り軽くふわふわと歩いていて、傍から見ても幸せそうな感覚が伝わってくる。うっとりしたような目になったかと思えば、真剣な眼差しでじっと動かなくなったり、あちこち動き回って色んな角度から鑑賞している。


 正直、展示されている彫刻を見るよりも彼女を見ている方が興味深かった。彼女にはどんなふうに見えているのだろう。直接聞いてみたかったけれど、邪魔したら悪いような気がして黙って付いて歩いた。


「あなたには何が映っているのかな」


 独り言なのか、誰かに向けて行っているのかわからないボリュームで彼女は言っていた。愛しそうに彫刻を眺めながらそう言っていた。


 少し疲れたので、邪魔にならないように壁にもたれて、白岩さんを目で追う。


 コンクリート打ちっぱなしの無機質な展示室の一番奥、大きな彫刻が壁の前に置かれている。青銅色の彫刻の前に、白いワンピースを着た白岩さんがぽつんと立っている。風もないこの場所では、空気すらもかっちりと詰まっていてその部屋全てが作品のようだ。


 彫刻像の前で動かない白岩さんからも、生気がなくなっていくような、そのまま閉じ込められてしまうような感覚になる。


 じっと凝視していると、ふいに白岩さんが振り返る。部屋の端からゆっくりと視線を動かしていき、俺と目が合うとふっと微笑んだ。


 さっきまでの無表情で冷たい印象はないが、石膏像のような美しさはそのままだ。彼女は俺をしばらく眺めてから、また作品へと向き直った。


 完璧すぎる構図なのにどこか儚げな様子や、確かに触れられるはずなのにゆるりと消えてしまいそうな存在感、圧倒的に俺とは別の世界だと言わんばかりの見えないラインがそこにはあった。


 そうだとしても、俺には彼女のように作品を見ることはできなくても、彼女と同じ空間を共有していることが、それだけでとても特別に思えた。

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