第97話 女狐と下心

 下心を持って女や若い娘っ子に近付いたらならん。相手が女狐のバケモノかもしれんからな。もはや還暦を過ぎてオッサンどころかジイサンに片足を突っ込んでいるわが伯父は、俺や兄に会うたびに折に触れてそんな事を言っていた。

 男は狼なのよ、を男女反転させたものだろう。高校生くらいまでは、俺も兄も顔を見合わせて笑い合っていたものだ。それでも伯父は、思い出したようにこの女狐の話をするのだった。それも、何処か苦虫をかみつぶしたような表情で。それでいて、詳しい話をする事は滅多になかったのだ。


「女狐の話をもっと詳しく聞かせて欲しいだって?」


 師走のある日。俺の申し出に伯父は驚いたように目を丸くしていた。あの話を面白がっていたのは子供の時までだったじゃないか。それにしてもどういう風の吹き回しなんだ……そんな風にぶつくさ言っていた伯父であるが、それでも昔話をしてくれた。

 結局のところ、過去の話を思わせぶりにする人間は、その話を詳しく語りたくなるものなのだ。この時俺はその事を学んだ。


 全ての始まりは、青年が傷ついた狐をかくまい、保護した所から始まったのだという。狐は道端に倒れていて、後ろ足の太もも辺りの所から血を流していたのだそうだ。もっとも、その時青年は狐ではなく犬だと思ったのらしかったが。

 ともあれ青年はその獣を連れ帰り、傷の治療を施したのだ。動物病院に連れて行くという考えは無かった。昭和の中頃の当時、動物病院は今ほど多くは無かったのだ。

 狐はすぐに回復し、二日三日ほどすれば姿を消していた。その頃は青年もかくまった獣が犬ではなくて狐であろうと察していたので、狐が野に帰った事に安堵してもいた。


 次に物語が動くのはそれから半月後の事である。バイトからの帰り道、青年は一人の少女に出会った。歳の頃は十六、七ほどであり、赤味がかった金髪と何処か狐のような眼差しが特徴的だったとのこと。

 あの時のキツネだったんですが、どうぞ恩返しがしたくなったのです――少女の文言に面食らいつつも、青年は彼女を部屋に招き入れた。別にその言葉を信じた訳では無い。だがまぁ少女を放っておくのもよろしくないと思っただけだ。

 いや、少女の面立ちは整っており、美少女と呼んでも差し支えなかった。恩を売ってあれやこれややってみようというよこしまな思いが青年の中で首をもたげていたのである。

 そこからの青年の行動は早かった。酒盛りをするという体でもって少女に酒を飲ませ――言うまでもないが、未成年の飲酒は法律で禁じられているので真似をしないように――酔いが回るのを待った。男であれ女であれ、酔った時が無防備になるからだ。

 果たして少女は酔いが回った。だが、結局は青年の思惑通りにはならなかった。


 酔いつぶれたそれは、オレンジ色の毛皮を持つキツネに変化していたのだから。しかも漫画などのように煙が晴れたら狐に戻っていた、などと言うものではなかった。少しずつ、特殊撮影のように――現代風に言えばCGだろうか――人から獣の姿に変質していったのだ。すなわち口が裂け毛深くなり鉤爪が露わになり……そうやってキツネの姿に戻ったのである。


「くそっ、このバケモノが……!」

「私は嘘を言ってないでしょう! 恩義を感じて戻ってきたというのに、人間も所詮は畜生って事ね」


 少女の声音で言い捨てると、キツネは身体をふらつかせながらも太い声で吠え、そのままひらりと部屋から去ってしまった。

 青年と女狐の話はこれで終わりである。

 後に女狐の方は玉藻御前の末裔だっただのなんだのと尾ひれのついた噂になっていたが、数年ほどでその噂もぱたりと途絶えたのである。妖怪を追う術者に捕らえられたともされているが、詳細は定かではない。


「――というのが伯父と女狐の話なんだ」


 君はどう思う? 隣に寄り添う彼女を見つめながら、俺は静かに問いかけた。仔猫のように恋人がくっ付いているために、フワフワした感触が足の辺りにぶつかってきて何ともくすぐったい。


「まぁ何と言うか、よくある話よね。あなたの伯父さんが下心を出さなければ、もっとホンワカした結末になっていたんじゃあないかしら」


 彼女はそう言い、足許でぱたぱたと音がする。白い毛並みに覆われたの尻尾がせわしなく揺れている。この一尾はだった。


「ああだけど、あなたが思っている事は何となく解るわ」


 彼女はそういうと、こちらに顔を向けて微笑んだ。褐色の瞳は光の加減では明るい黄金色にも見え、その中央にある瞳孔は猫のように細長い。針状の瞳孔は、の瞳の特徴でもあるのだ。


「もしかしたら、私があなたを騙しているかもしれないって不安なんでしょ。別にそんなんじゃあないから安心してよね」

「そんな心配してないってば」


 言いながら、俺は恋人である狐娘を抱き寄せた。伯父と甥で妖狐に縁があるとは、全くもって因果な話だ。

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