第96話 黒い海と人魚

 その一帯は地元民からは黒い海と呼ばれていた。と言っても、海が黒く見えるのは夜だけの事であり、夜は夜で昔は灯りなどが無かったのだから、黒々としたうねりにしか見えないのは致し方のない事であろう。

 或いは、黒い海に伝わるもう一つの伝承こそが、地元民に仄暗い印象をもたらしていたのかもしれない。

 その伝承は人魚の伝説だった。黒い海には数多くの人魚が生息しており、しかも彼らの顔や姿はその海で生命を落としたり失踪したりした人達の姿に酷似しているのだという。地元民が薄気味悪く思い、黒い海を敬遠するのはある意味自然な事だったのかもしれない。


 とはいえそれでも、好奇心に駆られる輩が出てくるのは世の常である。

 ある時、地元から遠く離れた大学の准教授が、研究生やら学生やらを連れてこの黒い海に訪れたのだった。目的はもちろん、人魚の捕獲とサンプルの分析である。

 死人に似ているとされる人魚には、もう一つ重大な特徴があった。不老不死である。人魚であるからベタな話かもしれないが、生物学を修める者にしてみれば、生命の神秘に触れられる絶好のチャンスだと思ったとしても無理からぬことだ。

 もっとも、準教授の関心は知的好奇心や学問の探求ではなく、もっと世俗的な部分ではあったのだけど。

 不老不死の謎を解明できれば名誉と富が手に入る。つまるところはそこだったのだ。


 研究チームの調査研究は難航した。人魚などは中々見つからず、しかも運の悪い事に黒い海は荒れ続けていたからだ。それでも准教授は退く事などは考えずに調査を続けた――運の悪い学生が、海に呑まれたとしても。

 いつの間にか、研究チームはほぼほぼ解散の憂き目となった。ある者は研究の最中に失踪し、またある者は准教授の方針に見切りを付けて立ち去ったのだ。最終的に調査を行っているのは准教授一人だけになったが、それでもとどまりはしなかった。

 だが、准教授はとうとう黒い海で人魚に出会う事となった。それを捕まえる必要などなかった。愚かにも黒い海の調査を続ける准教授の小舟に近付き、そのまま海面に顔を出したのだから。

 仲間を喪い、それでもなお夢に見た人魚との出会い。しかし准教授の心には喜びなどは無かった。


「おやおや先生。未だにお一人で人魚探しですか」


 小馬鹿にしたような口調と表情で人魚は語る。その面立ちや言動は、准教授もよく知っていたものだった。

 それもそのはずで、件の人魚は海難事故に遭った学生のなれの果てだったのだから。人魚になったそれは、海底都市の事であるとか、自分たちに不老不死をもたらす大いなる神の話を語って聞かせた。准教授は、ただただ悪夢めいたその言葉に耳を傾ける他なかった。


 それからその准教授がどうなったのか、定かではない。

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