第93話 産怪

 妻の故郷では、産怪なる異形の事が言い伝えとして残されていた。

 産む怪異と呼ばれるそれは、女性が子供を産む時――特に初産の時だ――に、嬰児と共に産み落とされるのだという。血まみれの小猿のようだとか、赤黒い亀のような姿だとも言われているが、恐るべきところはそこではない。

 産怪は生れ落ちるや否やすぐに何処かへ逃げ出そうとするらしい。そして、産み落とした女性がいる部屋から逃げ切るや否や、母体だった女性は死んでしまうという。だからこそ、夫や女性の家族は産怪を見つけたらこれを叩き落とし、殺さねばならぬという。

 全くもって奇妙極まりない話だ。しかし妻はそれが本当の事なのだと言って聞かなかった。妻の母も、伯母も、或いは従姉たちも産怪とは縁があったのだから、と。


「……あなた。だから私が子供を産む時は、どうしても一緒にいて欲しいんです」

「解ったよ。だから今からそんなに心配しなくて良いだろう。お腹の子にも悪いから」


 妻は膨らみ始めたお腹を撫でていて、その妻の頭を僕は静かに撫でたのだった。


 予定日よりも若干前倒しになったが、妻のお産に立ち会う事が出来た。

 お産自体は軽く、生まれたばかりの赤ん坊も元気そうだった。息子の姿を見た僕は、安心して一息ついていた。大変なのは妻だというのに。

 だが僕がホッと一息付けたのは本当にその瞬間だけだった。ベッドの真下に、小さく蠢くモノを見つけ出したからだ。モルモットほどの大きさで、血で濡れた毛皮に覆われていた。産怪なのだ。僕はとっさに妻の言葉を思い出した。

 それは素早い動きでパイプベッドの隅にしがみつき、逃げ出そうとする。赤らんでいた妻の顔が若干蒼ざめたように見えた。

 気が付けば、僕はスリッパを脱ぎ捨てて血で濡れた小さな獣の頭を殴りつけていた。とどめを刺すまでも無かった。それは小さな声を上げたかと思うと、そのまま輪郭がぼやけて姿を消したのだから。妻の顔には血の気が戻っていた。


 後で妻の親戚から聞かされた話なのだが、産怪とは実は異形の類ではなくて、子を産む女性の生気が……生体エネルギーのような物が一時的に抜け出したものではないかという解釈もできるのだという。そしてそれを叩いたり逃げ出したりしないようにして、母親の許にエネルギーとして戻すのが立会人の役目なのだという。

 荒唐無稽な話には違いない。だがそれでも、何故産怪が逃げ出したら女性が死んでしまうのか。その理由の答えになっているように僕には思えてならなかった。


 その後妻との間に三人の子をもうけたが、産怪らしきものを見たのは初産の時だけだった。

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