第47話 名前を売った男

 彼は「初美」という名前を嫌っていた。清美・和美などと美が語尾につく男性名が他にもある事は知っている。それでも何となく女っぽさが払拭できない所に微かな苛立ちを覚えていた。もしかすると……成長してもなお子供らしい中性的な雰囲気が抜けきらなかったのも名を嫌う要因になっていたのかもしれない。

 だからだろう、彼が「あなたの名前を買います」などと言う看板に魅了されたのは。


「名前を買うとはどういう事でしょうか」


 看板の向こうにある小さなテントのような小屋に入り込んだ彼は、その中に鎮座する店主と思しき男に問いかけていた。看板を見つけてから入るまでの時間は三十秒も経っていない。それでも彼の動きにはためらいは無かった。


「文字通りの意味ですよ、初美さん」


 店主と思しき青年は流暢な日本語で応対してくれたが、日本人であるとは思えなかった。浅黒い肌の質感や、くっきりとした彫り深い目鼻立ちは何ともエキゾチックだったからだ。

 ついでに言えば何かのファッションなのか、眉間の中央には丸くて赤黒い点が描かれていた。色調が不自然だから、天然の黒子という訳ではあるまい。


「名前はその人の本質を左右するものです。名前を売る事により、その本質から解放されるのですよ」


 本質から解放。その言葉は初美にはとても魅力的に響いた。女らしい名前の姓で自分に自信が持てなかったのだ。そこから自分は解放されるのだと思うと、誇らしく嬉しい気分でいっぱいだった。

 だから彼は名前を売ってしまった。


 既に「初美」と呼ばれていた彼は自分の女々しさに悩む事は無かった。しかし名前を買う事を忘れて店を出た彼は、本質の定まらぬ何かに変貌してしまったのである。

 しかし彼は幸せだった。本質を喪ったがそれ故に悩みを持つ事は無く、ついでに仲間――猿とも虎ともつかない獣やライオンと山羊の頭部を持つ動物、そして貌の無い黒い往古の神――とも合流し、面白おかしく暮らし始めたのだから。

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