第44話 クローバーに想いを込めて

――そうだ、彼女の許に帰らないと。何だかんだ言っても寂しがっているだろうな

 ここ数日入り浸っていた女の部屋から出た男は、そんな事を思っていた。彼が心の中で彼女と呼んだのは、妹や姉ではなく恋人の事だ。それなのに男は別の女の許に数日間と言えど寝食を共にしていたのだ。解りやすく言えば不貞である。

 だというのに、本来の恋人の事を思い返して戻ろうと思ったのか、その理由は男本人にしか解らない。もしかすると、男自身も解っていないのかもしれない。


「あ、おかえりなさい……」


 同棲していた恋人の許に戻ると、彼女はしおらしい様子で出迎えてくれた。四角いローテーブルの上には小さな栄養ドリンクの瓶が置かれていた。中学生や高校生がやるように一輪挿しを飾っていたのだ。但し飾られているのは花ではなくて四葉のクローバーだった。


「ただいま」


 男は普段通りの調子を装い、彼女に挨拶を返す。四葉のクローバーを飾って待っている彼女を見ると、急にいとおしさがこみあげてきた。

 彼女が花言葉に詳しい事は男も知っていた。もっとも、男自身は「俺が花言葉を知っていても女々しいし」という事でわざわざ彼女に聞いたり詳しく調べる事は無かったけれど。

 しかし四葉のクローバーの花言葉くらいは知っている。幸運のあかしと呼ばれている事は誰でも知っている話だ。目につく所にこうして飾っているのは、自分たちに幸運が降りてくるようにと彼女が願掛けしているからなのだろう。何ともいじらしく愛らしい話ではないか。


「最近フラっと家を出て連絡も来なかったから、心配してたのよ」


 可愛らしく、しかし一抹の寂しさを込めながら語る彼女の姿を見ていると、心がわずかに痛んだ。それとともに、不貞を働いた相手とはすっぱり縁を切り、何事もなかったかのように彼女との暮らしを続けようと思ったのだ。けなげにクローバーに願掛けをする彼女は何も知らないはずだ。であれば自分から真相を語らなければ平穏な日々を過ごせるはず。向こうの相手も打算的だから金をちらつかせるか少し嚇せば落ち着くだろう……これを完璧なプランだと男は思い込んでいたのだ。傍目からは自分本位と思われる考えだろうが、所詮はそんなものである。


「あ、でもね。今日はとっておきの料理を用意しておいたから、さっそく二人で食べましょ」



 料理は普段以上に多く感じたが、それでも男は全て平らげた。気を利かせた彼女が、男の好む料理ばかりを作ってくれたからだ。

 腹部の圧迫感をやや不快に思いつつも、男は立ち上がろうとした。料理を作ってくれた彼女のために、皿洗いを行ってあげようと思ったのだ。


「あ、良いのよ座ってて。そろそろ疲れが回ってくるころだろうから」

「べ、別に……気を……なくても」


 気づかわしげな声をかけてくれた彼女を無視し、男は結局立ち上がった。両手で皿の縁を持って。酒を飲んだわけでもないのに、口が回らないのが気になったが。もしかすると緊張して上手く声が出なかっただけだろうか。

 視界がゆっくりと揺らぎ、バランスを崩したように感じた。

 すぐ傍ではガラスが砕け散るような物音が響き、少し間をおいて何かが崩れ落ちるような鈍い音が届く。頬や手の平の周りがチクチクと痛む。バランスを崩して横転したのだと、フローリングの木目を見ながら静かに悟った。


「あーあ。だから座っといてって言ったのに。本当に私の事なんてどうでも良いのね」


 乱雑に椅子が動く音の後、彼女の声が降ってきた。今までに聞いた事もないような、低くて冷たい声音だった。


「何も知らないのは君の方だよ? 私が君の行動を見抜いていた事も、私が何を思ってクローバーを飾っていた事も」


 男の顔、目の周囲に冷たい水かかけられた。緑色のクローバーは今や床に落とされ男の眼前に落ちている。男が知らぬクローバーの花言葉を聞かされた今は、不自由な身体を無様に振るわせるしかなかった。


クローバーの花言葉:復讐という意味もある

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る