第3話 櫻木の娘
こんばんはお嬢ちゃん。親子ほど年の離れたオッサンの家に遊びに来るなんて中々度胸のある娘だねぇ……ああ、怖い話が聞きたいだけだって? そう言えばそんな話だったなぁ。君は確か植物学を学んでいて、その傍らで怖い話を集めている……と。
え、何厳密には違うって? ああ、植物に絡んだ怖い話か。
ああ、あるぜあるぜ……おやおや、そんな風に笑わないでおくれよ。可愛いじゃないか。それに――あいつを思い出すなぁ。
さて、君好みのおあつらえ向きの物語を話そうじゃないか。前置きしておくが、これは俺もある意味関与した、本当にあった話なんだ。もしかすると、話を聞いた後になると、桃太郎の話を聞くと複雑な気分になるかもしれないな。
今から二十年近く前の話だ。お嬢ちゃんはまだ、赤ん坊だったか生まれる前の事じゃあないかな。ともかく俺はまだ若い青年だったんだ。血の気も多くて遊び人を気取っていたかな。
海に流れる太い川が家の近くにあったんだが、その川の岸辺には、立派な櫻の樹が一本そびえていたんだよ。春になる度に見事な花を咲かせていたものさ。満開の時も、一斉に散るときもそりゃあ豪勢なものだった。ああそれでも、その櫻の許でわざわざ花見をする大人は少なかったな。やって来るのは俺とか、俺みたいな若者ばかりだったよ。
あの頃は立地が悪いからかと思っていたんだが……もしかすると大人たちは知っていたのかもしれないな。あ、いや何でもないさ。最後まで聞けば俺の話は解るよ。
それはある春の日の事だったんだ。桜も満開で、丁度黄色い月が夜空を照らす春の夜の事さ。その時の俺は風流な景色をめでる余裕はなかったんだ。丁度付き合おうとしていた女にフラれ、自棄酒を呷ってしこたま酔っていたところだったからな。
居酒屋から追い出された俺は、いつの間にか櫻の樹の許に向かっていたんだよ。ただ単に風に当たって酔いを醒まそうと思っていただけかもしれんな。今となっては、若かった俺が何を考えていたのか、今の俺でもとんと解らん時があるんだよ。
櫻の樹の許には先客がいたんだ。そうだ。お嬢ちゃんによく似た娘だったよ。お嬢ちゃんと違って、そこまできっちりと長袖のブラウスを着こむような野暮な衣装じゃあなかったけどな。桜色の生地に、白いフリルとレースをあしらったような、おとぎ話の姫様のような姿だったよ。そいつがな、自分は櫻の精だと名乗っていた事だけは覚えている。
――酒が抜けきっていなかった事もあったが、結局俺は櫻の精の色香にあてられたのさ。ああ、詳しくは言わないとも。お嬢ちゃん相手に言うような内容じゃあないからな。何、むしろ話してほしいだと? あいつに似た姿で、困った事を言うものだな……まぁ、あのひとときは、彼女がどう思っていたかは知らんが、俺としては我を忘れて愉しんでいたとだけ言っておこうか。
俺が櫻の精と出会ったのはその時だけだ。彼女が化けて出てきたとか、取り殺されそうになったとかそういう事は無いんだよ。
だが奇妙な事に、櫻の樹は夏になる前に急激に弱り果て、枯れてしまったんだ。後に自治体の連中や植木屋の連中が集まって枯れた樹を撤去し始めたそうなんだけど、春まで健康そのものだったその櫻の幹は殆ど空洞になってスカスカになっていたんだ。
ここからは荒唐無稽な噂になるけどな、空洞になった幹の、根元のあたりには赤ん坊が一人いたそうだ。青白い大きな葉っぱにくるまれて、何も知らずにおぎゃあ、おぎゃあって泣いていたってな……
俺が地元を飛び出してこの街に出たのは来年の春の事さ。櫻は綺麗に撤去されて跡形もなくなっていたよ。櫻の精はいたのかもしれないが……赤ん坊がどうなったのかは俺も知らないよ。あの櫻は美しい娘に化身して人を誑かすって噂からああいう話が派生したのかもしれないしな。
※
「話はこれだけだよ。どうかな、満足していただけたかな」
アパートの一室。男が若い頃の奇妙な話を語り終えると、女子大生だという娘は満足げに頷いた。かつて逢瀬を愉しんだ櫻の精に本当によく似ている。しかし話の内容に思うところがあるのか、その両目はぎらついていた。
「とっても満足できましたわ。この話こそを私は探し求めていたのですから」
「…………?」
男が首をかしげていると、娘はやにわに視線を落とし、ゆっくりと左腕を覆う袖をめくった。男の眼が見開かれ、ひゅっと喉が鳴る。彼女の白い腕には、産毛の代わりに小さな緑色の葉が何枚も何十枚も芽吹いている。
男は驚愕し、顔をあげた娘には半ば恍惚としたような笑みが浮かんでいる。
「あなたのお話に出てきた、素性の知れぬ赤ん坊はこの私の事なのです。植木屋の方は身寄りのない、半ば異形の私の事を実の娘のように可愛がってくださりましたが、やはり実の父親に会いたいという気持ちはずっとありました。
ええ、二十年越しの願いが今叶ったところですわ――お父様」
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